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第38号法話「今、いのちがあなたを生きている」 1回目

カテゴリー:法話集    更新日:2006 年 9 月 1 日

本多雅人師(蓮光寺住職)

2006年4月29日 永代経にて
 
毎回、いろいろなテーマを付けてお話をさせていただいていますが、実はお話をしたい中身は一点しかありません。つまり浄土真宗の教えから何を聞き取るのかということになったときに、皆さんはどうか分かりませんけれども、僕の場合で言えば、人生がうまく行っているときは自分を大事にできるし、「これが自分なのだ」と言って生きられるけれど、ちょっと自分にとって都合の悪いとき、うまく行かないこと、など、というかほとんどはうまく行かないのですが。そういうときに自分を大事にできないという問題があると思います。つまり自分を愛せないのです。うまく行かないときは自分を愛せない、つまり自分のいただいた、かけがえのない「いのち」に泥を塗ってしまうような生き方をしている。こういう問題があると思います。
 そのような生き方、あり方に「南無阿弥陀仏」の教えとはいったい何を問いかけるのでしょうか。教えを聞き開くということは、どんな自分でも受け入れて生きていく、そういうような意欲をいただくのではないかと思います。簡単に言うと、「生まれてきてよかった。いろいろなことがあったけれど、本当に生きてきてよかった」ということがどこで言えるのか。これは一人一人共通した大きな課題ではないかと思います。そのことをいただくために色々とテーマを決めて、お話をさせていただくということではないかと思います。
 さて、「今、いのちがあなたを生きている」、これは親鸞聖人の七百五十回の御遠忌のテーマです。普通なら、「今、あなたがいのちを生きている」、「今、私がいのちを生きている」となるはずです。そうではなくて、「いのちが私を」、「いのちがあなたを生きている」と教えは呼びかけています。いったい、何を問いかけているのか。解釈することではないので、ゆっくり考えていただきたいと思います。
 今日はこのテーマについてお話ししませんけれども、多少触れながら、また折を見て、御遠忌テーマでご法話をさせていただきたいと思います。御遠忌までのお待ち受けの五年間、このテーマがいったい何を呼びかけているのかということを考えていただければ。それがそのまま教えを聞くということになるのではないかと思います。

「真宗仏事の回復」

御遠忌に向かって宗門が大事なポイントとして挙げたのは、「真宗仏事の回復」です。回復しなければいけないということは、お寺で行われている仏事というものが本来的な仏事になっていないという内部批判でもあります。形としては仏事を勤めているけれども、実は中身は仏事になっていないというような問題があるのではないでしょうか。本当に教えをいただく大事な接点が仏事の中にあるということをもう一回いただき直そうということで、今回は牡丹法要会(ぼたんほうようえ)で、真宗仏事について考えてみたいと思っております。
 お配りしたプリントの最初に、問題意識を持つという意味で短い文章を掲載しておきました。このことをちょっと意識しながらお話を聞いていただきいと思います。
「宗門では宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌に向けて、真宗仏事の回復を大切な課題として掲げています。回復を課題とするということは、本来の仏事を見失っているという危機感があるということにほかなりません。皆さんはどうして仏事を勤めるのですかと、子や孫に尋ねられたら何とお答えになりますか。当たり前に使ってきた法要、法事、仏事という言葉の持つ意味を改めていただき直してみたいと思います」こう書かれています。
 先ほど、吉田さんがごあいさつをされていましたけれど、源信寺さんも今新しく建築をされておりますが、何で建築をするかということですね。私自身も、「何でお寺を直すの? 門徒さんから寄付を集めて何で直すの?」ということを常に問われてきました。「このご時勢で大変なのに、どうして集めるの?」という問題ですね。そもそもお寺というのは、自分を学ぶ場所です。親鸞聖人のお言葉で言うと、「自分を習う家」です。自分を習う場所としてお寺があるのです。先ほど申しましたように、条件によっては自分のいのちを大事にできないし、自分を愛せないという問題があります。教えによって、そういう自分を照らし出されながら、どんな苦悩があっても、「これが私の人生である」と意欲をもって生き抜いていくことが一人ひとりに願われています。それがお寺の存在理由だといっていいのではないかと思います。
 この「牡丹法要会」も「法要」という言葉を使います。あるいは「法事」でもいいです。「仏事」でもいいです。仏事は「仏法の事」という意味です。仏法に関する事ということ。法事というのは、これも仏法の「法」の「法」を取ったものです。「仏法の事」です。仏法に関することを「法事」とか、「仏事」というわけです。仏法というのは教えです。簡単に言うと、南無阿弥陀仏の教えのことです。法要とは「仏法が要(かなめ)」ということに相違ありません。つまり「教えを聞くということがなければ、法事をやったことになりません」ということです。
 ところが、一般的にお寺はどういうイメージを持たれているでしょうか。死んだらお世話になるところということではないでしょうか。私はよく門徒さんに言われます、「何だかんだと言っても、私も死んだらお世話になりますから」と。生きているときは関係ないということですね。死んだ人にお経をあげてもらって供養するのがお寺だということで、それ以上それ以下でもないわけです。だから教えを聞くということがないわけです。しかし、教えを聞くということがなければ仏事にならないのです。だから、今、「真宗仏事の回復」ということが危機感を持って言われているわけです。
 源信寺さんの個性的な名称としての「牡丹法要会」は、いわば「永代経法要」のことですね。「永代経」というのは、永代にわたってお経が伝わるから、もし死んだ人のためということであれば、永遠にずっとお経をあげて供養したいという意味になるでしょうけれど、お経というのは教えの言葉ですから、永代にわたって教えが一人一人に伝わっていくようにという願いをもって行われる法要ということではないでしょうか。そのことを源信寺さんの門徒全体でいただいていく法要を「永代経法要」と言うのです。
「報恩講」も親鸞聖人のご命日を縁にしながら、親鸞聖人が明らかにしてくださった南無阿弥陀仏、本願念仏の教えを私のうえにいただいていきますという法要ですね。皆様が行う法事も同じです。十七回忌とか二十何回忌とか、皆さんの大切な方の法事がありますよね。法事は亡くなった人を縁にしながら、いのち、そして自分の生き方を見つめ直す時間をいただいているのです。亡くなった人の日を「命日」といいますね。漢字で命日(めいにち)と書きますが、僕は平仮名で「いのちのひ」と書きます。死を受け止めてこそ生がはっきり見えてくると仏教は教えます。亡くなった人は単に亡くなっていくのではなくて、人生の最期の姿を白い骨にまでなって見せてくださっています。そこには「あなた自身はいつ何時亡くなるか分からないけれども、いつ亡くなっても生まれてきて本当によかったと言えますか」という問いかけがあるのですね。ですから、亡くなった人はただ死んでいくのではありません。亡くなった方の深い問いかけを聞かせていただくのです。
 一般的には亡くなった人のために坊さんが来て、お経をあげて供養したと言うわけです。そうではなくて、亡くなった人を自分のこととして受け止めていくことがもっとも大切な供養の内容です。亡くなった人が、「生きるとは何か、いのちの本当の事実に立って生きているのか」ということを問われる時間を作ってくださったのです。そういう問いかけを通して、自分の迷いの有り方が教えられるので、「亡くなった人は真実に立っている」ということで、亡くなった人を諸仏、仏さまの一人として手を合わすというのが、いわゆる真宗の門徒、仏教徒の在り方ではないでしょうか。ですから亡くなった人は、南無阿弥陀仏の教えに導く案内人をしてくださっているのです。ところが世間はそうなっていませんね。亡くなった人が出ると塩をまいたり、火葬場の道を変えたり、何をやっているのかさっぱり分かりません。あれは仏事でも何でもありません。霊魂が暴れないように鎮魂儀礼をやっているにすぎません。悲しみながら、自分に悪い魔が来ないようにというのがほとんどの儀式です。亡くなった人を迷った存在として見ているということです。そうではなくて、迷っているのは生きている私たちです。私たちが迷っているから塩を撒いたりするのです。それは亡くなった人を貶めています。そして、いのちを見えなくしていきますから、私たちの生き方も曖昧になっていきます。これは仏事とは言いませんね。教えを聞くということがあってはじめて法事が成り立つということが言えると思います。
 そこで、「先祖供養」という言葉、なかなかはっきりしない言葉ですが、今一度いただき直してみたいと思います。もちろん浄土真宗にも先祖供養がありますが、一般的に考えられているのとまったくちがうといっていいでしょう。辞書で「供養」という意味を調べると、「尊敬を持って、ねんごろにもてなす」という意味です。ねんごろというのは「丁寧に」とか、「まめに」ということです。ですから一般的には、どういうふうにもてなすかというと、「亡くなった人のために、何かをしてあげる」になるのです。しかし仏教は迷っている人のために説かれているのですから、そのことを大切にいただき直すとどうなるでしょうか。自分のいのちを本当に受け止めて、苦悩のいのちを堂々と生きていくということが教えから願われている(本願)のですから、本当の供養というのは「教えを聞き、自分を明らかにする」ということではないでしょうか。亡くなった人にお経をプレゼントするとか、亡くなった人のために何かお供えするということは人間の情としてはあります。でもそれだけだったら別に仏教は要らないのではないでしょうか。お経を読むことがどうして供養なのでしょうか? そういうことをもう一回考えた方がいいと思うのです。そういう意味では、坊さん自身も問われているのですね。 繰り返しますが、亡くなった人を縁にして、自分の生き方、いのちそのものを見つめ直すことが本当の供養という意味です。そのことが要です。子や孫に、あるいは親戚の人に、「何であなたは旦那さんの法事をやるのですか」と言われたときに、「供養です」と。では「供養って何ですか」と聞かれれば、もう黙ってしまいます。そうではなくて、亡くなった人を深く偲びながら、亡くなった方がいのちについて考えさせてくださる時間を今日作ってくださったと。いのちはつながっているから、亡くなった人に手を合わせながら、「自分はどういうふうに生きているのだろうか」ということを、教えの前に聞いていく。そのことが一番大切な事だとお話しできるかどうかです。この一点がものすごく大事だと思います。教えを聞くということですから、向こうから教えられるのです。こっちから何かをさし出すのではないのです。さし出したい気持ちも大切ですが、こちらから何かしてあげたいと思うことに先がけて、教えの側が、亡くなった人を通して、もっともっと大きな問いかけをしてくださっていることに気かされるかどうかです。法事というのは教えを聞く。教えからのメッセージを聞くという意味です。方向が逆なのです。今、教えを聞いているわけです。それを受け止めるということですから、こっちから何かをしてあげるということではないということですね。ただ、人間は情がありますから亡くなった人のためにと思うことは自然なことですから、それを入り口としながら、本当に亡くなった人のために供養したいということは、私自身が教えを聞かせていただくことであるという方向が開けていくということなのです。
そのことを徹底的に生活の中で実践してきたのが、真宗門徒の歴史です。浄土真宗は、お坊さん自体が在家のお坊さんです。家がある、つまり生活を修行の場として生きるということです。出家しなければ救われなかったら、皆さんだれも救われません。既に生活の苦悩の場で、その苦悩を捨てないで教えを聞いて、自分を深め生きていく道を開かれたのが親鸞聖人です。ですから、法要には、先頭に立って、教えの言葉を聞いて手を合わせるというのが浄土真宗の坊さんです。共に教えを聞いていくということです。教えが要となる仏事を伝統的に勤めてきたのが真宗門徒です。それが崩れてきているというから、真宗仏事を回復しなければいけないと、さけばれているわけです。
 一昔前は、「あの人、真宗門徒だよ」とすぐに分かったものです。それほど真宗門徒は生活の中で教えを聞いてきたということです根付いていたのです。例えば、「お盆なのにみんな堤燈を持って先祖をお向かいに行っているのに、○○さんのところって提燈もないし、お迎えにも行かないんだって、きっと真宗門徒なのだね」とか「初詣で神社仏閣に行ってお願い事するのに、○○さんはお願い事をしていないみたいだよ。きっと真宗門徒なのだね」という具合にすぐ真宗門徒はわかったものです。現在では「お清め塩を使わないから、真宗門徒じゃないか」と言われることはあるかもしれきせんが、真宗門徒と一般の人びとの区別がつかなくなりました。「門徒もの知らず」という言葉があります。これは悪口ではなく、門徒の特色を押えた言葉、勲章です。今、若い人は、この言葉をほとんど知りません。でも、年配の方も「住職さん、『門徒もの知らず』だから知らなくていいのですね」と言われます。それでは、「何も知らないアホ」ということじゃないですか(笑)。ものを知らないというのはどういうことかというと、さきほどお盆の例を出しましたけど、提灯も出さないから何も知らないという意味ではないのです。この場合の意味の一つは、先祖の問題でつきまとうのは死に対する恐怖心です。門徒さんからよく質問があります。「何でもないときに仏壇〈(注)門徒は「お内仏」と呼びます〉を買っちゃいけないと親戚に言われた」と。私は「求めたいときに求めればいいのです。そして、ご本尊は本山からお受けしてください。」とお話しします。周りが何を言っても、求めたいときに求めるのが真宗門徒です。このことを世間は「門徒もの知らず」と言っているようですが、内実は「門徒忌み嫌わず」ということなのです。つまり、死をタブー視するなかで、先祖を得体の知れない存在として見るのです。そういう有り方が迷いだと教えられることもなく、本気でやっている。しかし、門徒は死を受け止め、先祖を仏さまといただいてきたのです。しかし、悲しいかな、それが崩れてきているということなのでしょう。次の質問も多いです。「住職さん、法事は遅くやっちゃいけないのですよね」と。その上、「最近、身体の調子が悪いのは、この前法事を遅くやったからではないでしょうか」まで言われる有り様です。命日当日になかなか法事はできません。ですから、遅くやるよりは、少し早くやってさしあげた方がいいかなという、亡くなった人に対する情です。でも遅いほうがきちんと法要をお勤めできるのであれば遅くていいのです。それが、遅くやると何か不吉なことがおこるというのが世間風潮です。その考え方が真宗門徒の中にもあるのです。あってもいいけど、それが迷いと翻す教えを聞いていないのです。教えによって、門徒はいつも翻って生きていたのです。お盆のことも教えを深くいただけば、いつでも亡くなった人と会うことができるのです。別に十三日から十六日という期間限定で会うわけではありません。「そのほかの日はどこに行っているの?」という話ですよ。また答えられない。どこに帰っていくのかという話ですよね。先祖が帰ってくると言われているのだから屁理屈言わずに先祖を大切にすればいいと思われる人もいるでしょう。しかし、大切にしていますか?先祖が帰ってきているのだから、お盆にお祝い事をすればいいですね。例えば結婚式とかね。しかし、お祝い事、特に結婚式などやってはならないのが世間常識です。お盆にお祝い事は厳禁なのです。これ、大矛盾ではないでしょうか。先祖をどこかで忌み嫌っているのです。そういう私たちの姿を照らし出されるところにお盆を勤める意義があるのではないでしょうか。世間が何と言おうと、真宗門徒は忌み嫌わずと教えられてきました。そういう自分の姿を南無阿弥陀仏によって照らし出されてきたのです。そして、亡き夫と亡き子どもも、いつでも出会っていける世界に気付かされてきたから、毎日がお盆だと言えるのです。だからお迎え、送りの必要がないのです。会うというのは、実体として会うのではなく、私たちの生き方を問うてくださる、願いを通して、亡き人を感ずるということなのでしょう。何年経っても、亡き人からこの私が案じられている、つまり「どう生きているのか」問われている。そのことが「会う」ということなのでしょう。先祖を大切にするとはこういうことではありませんか。
そういうことを教えられていることがなくなると、全部自分の都合で神や仏を作るのです。「宗教は人間が作ったものだ」と言う人がいますね。仏教はけっしてそうではありません。お釈迦様が真実を発見したのです。例えば、ニュートンが万有引力の法則を発見したと言いますよね。別にニュートンが発見する前からリンゴは木から落ちていたのです。気付かなかっただけで、リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則と言っただけです。仏教もお釈迦様は真実を発見して伝えているだけです。ところが教えられるということがないと、自分の都合で生きていますから宗教も都合で作られていきます。「学問の神様」とか、みんな作るでしょう。そこでお参りすれば合格できるのだとか、そういうものは人間の都合が作り出した宗教です。そういうのを鬼神と言うのです。「鬼神信仰」と言うのです。祟りがあるとかないとか始まるわけです。真宗門徒は忌み嫌わず、鬼神を立てないということがはっきりしていたのです。つまり「いのちの事実に立つ」ということです。お釈迦様が発見した仏法というものを、生活の中で堂々と実践してきたのが真宗門徒。堂々とやってきたものを、教えを受けていない周りから見ると奇妙に見えるから、「門徒物知らず」と言っただけの話で、内実は「門徒忌み嫌わず」です。先祖の祟りとか、そうやって忌み嫌ったり、自分の都合によって神様、仏様を立てたりしないで、目の前に与えられた人生を、どんな人生であろうとも受け止めて自分を大事にできる、いのちの事実に立って生きていく教えをいただいてきたのです。

つづく


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(2023 年 7 月 12 日)