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第88号 「親鸞聖人一代記」

カテゴリー:法話集    更新日:2019 年 4 月 1 日

落語 「親鸞聖人一代記」  落語家 三遊亭右左喜 
 私は何をしているのだろう、そうだ唐の善導大師が「自信教人信(じしんきょうにんしん)難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)」と申されて、この私が本願を信じてこれを他の人に教える。本願を信じて念仏を唱えるということが、阿弥陀仏の業に報いることということがよく分かっているのに、南無阿弥陀仏の念仏以外の何が不足しで経典を読むのであろうか、飢えで苦しむ人々たちを哀れに愛おしく思っていても、人が人を助けるというのは大変に難しいことである。こんな私にできることといえば、ただお念仏を唱えること以外に何もないということに気が付いた。
 これは、実を申しますと『歎異抄(たんにんしょう)』という本があり、親鸞さんが書いた本ではなく、お弟子さんが書いた。この中に書いてございます。「念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候」とこう言っているのです。 只々念仏を唱えることが、生きている全てのものを必ず救うという大慈悲の心であると、自ら念仏をして阿弥陀仏の恩に目を開けて生きていくことが、全ての者を救うという道でありますと、こういうことを言っているのだそうでございます。ただただ念仏を唱え、これが人を救うことだということに、初めて気が付いたというエピソードなのでございます。
 親鸞さん、そういうことが分かりまして、常陸の国へ向かってまいります。ただいまの茨城県でございます。最初に入りましたのが、小島(おじま)という所、ただいまの茨城県下妻市、ここに三年おりまして、そのあとに稲田という所に移った。これは茨城県笠間市の辺りでございます。 最初に小島にいたわけでございますけども、実はここで、恵信尼さんの手紙が残っています。手紙の書き出しがこんな感じでございまして、「常陸の国の下妻のさかいの郷という所に居る時に夢を見ました」、夢の話が書いてあった。「どこかの落慶法要でしょうか、宵祭りのようで松明が、あかあかと燃えていて、音楽が聞こえ、お堂の前には神社の横木の鳥居の上に横木があり、仏様の掛け軸が掛けてありました。一つのほうはお顔ではなく、仏様の頭光のように光り輝いており、もう一本は確かに仏様の顔であり、不思議に思い、あの仏様の頭光の掛け軸は何でございますかと聞くと、誰が答えたか分かりませんが、あれは法然上人、大勢至菩薩でありますぞと、こう言われました。それではもう一本は何でございますかと聞くと、あれこそは観音菩薩の化身である善信の御ご房でございますよと言われて、驚いて目が覚めました」。善信の御ご房というのは、これは親鸞さんのことでございます。善信というのは、実は親鸞さんの房号ではないかともいわれているのですね。
 房号って分かりますか。房号というのはおしっこをためておくところ。それは膀胱(ぼうこう)でございます。
 房号というのはお坊さんです。だから法然さんであれば、法然というのは房号です。法然房源空。だから、善信房親鸞ではないか。
 「翌日目が覚め、このことを殿に」恵信尼さんはすごいですね。自分の旦那のことを殿と呼ぶのですよ。
 皆さん旦那のことを何といいます? お父さん? ダンツク? パパ? ダーリン? おい? うち「おい」なんですね。私が呼のじゃないです、かみさんが言うんですよ。そうすると私は返事するの、「はい」って、こうやって返事すると生涯別れないのだそうです。なぜか知っています? 「おい」「はい」。住職気が付いちゃった。お位牌(おい・はい)の仲というのだそうでございますね。まあこれが悪いわけではないのですけどもね。こういってしゃべっておりますと、なんだか私、自分のかみさんに尻に敷かれているような気がするでしょう。そんなことはないですよ。実を言いますと私、昔から亭主関白。結婚した当初から。必ず朝言うのですよ。「これが食べたい」、夜になると、うちの食卓にそれがダーンと並んでいる。すごいでしょう、亭主関白。二十何年そうなのです。必ず朝「あれこれが食べたい」、夜、ダーン。でも買い物は、私が行くのです。料理も私が……洗い物も私が。これが一番家族円満だと思うのでございますけどもね。
 「このことを殿に話しますと、それは実夢でありましょう。法然上人というのは阿弥陀仏の徳の智慧を表す勢至菩薩であります。光ばかりだけど、それは智慧を表す証明であります。こう言われましたが、殿が観音菩薩の化身であることは決してお話をしませんでした。それからずっと殿のことを、観音菩薩の化身と思っておりました」という、こういう手紙が残っていたのだそうでございます。
 親鸞さん、そんなこともございまして、関東を布教する。ある時、稲田の草庵を出発いたしまして、北郡から筑波山を越えまして、その裾野に出ますと、そこは、ただいまの茨城県つくば市の辺りでございます。ここにタチバナ川という川があり、またの名を逆(さかさ)川というのです。さほどの川幅のある川でもございませんが、このタチバナ川がある所というのは、これは筑波山の南のほうから入る山道でございます。筑波道でございまして、親鸞さんはこの筑波山を参詣に行こうというので、そのタチバナ川に橋がございまして、その上に、白髪のおばあちゃんがポツンと立っておりまして、親鸞さんとなんと和歌の詠み合いをしたのだそうでございます。このおばあちゃんが親鸞さんをジーっと見まして、『筑波山 のぼりてみればひげ僧の 頭の髪は剃りもやらいで』と詠んだ。どういう意味か、(あらまあ、驚きましたね。筑波山に来てみたら、顔中ひげだらけで髪の毛も剃らない僧侶がいますよ。これはおかしなことですね)こういう意味なのだそうでございます。
 これは、親鸞さんの非僧非俗を皮肉った歌ともいわれておりますが、親鸞さん、これに対して歌で返したのだそうでございます。『そらんずる 心のかみはそりもせず、頭の髪を剃るぞ悲しき』と詠んだ。どういう意味か、(捨ててしまわなきゃならない心の欲も捨てないで、形式的に髪の毛を剃って捨てたっておばあちゃん、仕方がないでしょう)と、こういう意味でございます。
 おばあちゃん、そうしますとこの歌に返歌をした。『そらんずる 頭の髪は剃りもせで 心のかみをそるぞおかしき』と詠んだ。(捨てる象徴であります髪の毛も捨てないで、心の欲が捨てられるわけがないでしょう)と、親鸞さん、これを聞きまして大きな声を出して笑った、「いやいや、変わった方にあいますと、こりゃたまりませんなあ」と言いますと、親鸞さんのものにこだわらない態度を見まして、このおばあちゃんがすっかり心を広げまして、「親鸞さん。私も、ずいぶん年を取ったようですけども、まだまだ若返りたいのですよ。何かいい方法はございませんかね」
 親鸞さん、ポーンと手を打ちまして「おばあちゃん、いいとこ紹介してあげますよ」って、少年ビューティークリニックを紹介したという。そんなことはない。
 歌を歌ったのだそうでございましてね。『老いの波 いただきながら若さとは 死出のやまじば問わば問えかし』と詠んだ。どういうことかと申しますと、(おばあちゃん、あなたはずいぶん年を取ったようですが、今さら若さということはないじゃありませんか、おばあちゃん。どうせこの私に聞くならば、極楽浄土に行く道を聞いたらどうですか)と、こういうふうに言ったのだそうでございます。
 そうしましたらこのおばあちゃん、このあとやっぱり返歌、『老いの波 いただけばこそ遠ぞかし 若さのかえる道を知らねば』と。(親鸞さん、ご覧のように私髪の毛も真っ白になりましたよ。こんな髪の毛が真っ白になったからこそ、まだまだ若返りたいと思うのでございますよ。)と言う。
 親鸞さん、背負っておりました「おい」、リュックサックみたいな物ですね。これをガサガサと開けました。中から取りだした物が、ビゲンヘアカラー泡タイプ栗色。「おばちゃん、どうぞ染めて」「あらまあ、ありがとう」シューッと栗色に……そんなことありませんね。ビゲンヘアカラーの営業の方いませんかね、宣伝しておきましたよ(笑)。
 親鸞さんそんなこといたしません。歌を歌ったのだそうでございます。『老いの波 まかせてゆくやあまねぶね かえる若さは十八の願』と詠んだのだそうでございます。(おばあちゃん、年を取ったならば天の小舟に乗って南無阿弥陀仏、阿弥陀仏に全てお任せすればいいんですよ。それが若さへ帰る道であり、極楽浄土に行く道なのですよ。)と言うと、まあこのおばあちゃんが大変に喜んだのだそうでございます。「親鸞さん、どうもありがとうございます」と頭をペコペコ下げながら、なんとスキップをしながら、筑波山へすーっと帰っていったのだそうでございます。
 実はこのおばあちゃんというのは、筑波山の筑波権現が、このおばあちゃんの形になりすまして、親鸞さんとこの阿弥陀仏の話を歌で詠み合ったという話でございます。それから、このおばあちゃんと歌を詠み合った橋のことを、「ナンマイ」橋と呼ばれるようになったのだそうでございます。ところがこのナンマイ橋、最近の区画整理にあいまして外してしまったのだそうでございます。ただ、垣生の石が残っていたのだそうでございますが、近年この石までもどこかへいっちゃったのだそうでございます。きっと近所の方が漬物石にしているのではないかと、思うわけでございますが、ナンマイ橋という話があった。という話が残っているわけでございます。
 まあ親鸞さん、この稲田の草庵で布教し始めます。そういたしますと、大変に抵抗する人間というのが出てくるわけでございます。これが山伏弁円(べんねん)でございます。山伏というのは、険しい山々を歩き回り、滝に打たれ、又は断食をし、野宿をし、自分の呪術能力を高めるのだそうでございます。
 大変に言いにくい。呪う術と書いて呪術というのです。呪術(じゅじゅつ)と、私は手術が言いにくい。皆さまどうぞ、いいですか。しゅじゅつ、まあいいや(笑)。
 またの名を、これを修験道と申しまして、山伏というのは頭に六角形の帽子みたいなのをかぶりまして、背中にホラ貝を持って、山の中を駆けずり回りまして、このホラ貝を吹くのです。
 落語家というのは高座でホラを吹くと。なんかうまいこと言ったような気がするな。
 この呪術能力が高まりました山伏というのは、里に下りまして、人間の願いを聞くのだそうでございます。病気平癒で病気を治してみたり、安産祈願であったり、昔は虫追いなんていうことをしたのだそうでございます。まあこの弁円の領地というのが旧大宮町東野の楢原という所にありまして、その中にすっぽりと板敷山という山が入る。なだらかな山だったのだそうでございます。その裾野にございましたのが親鸞さんの草庵、稲田の草庵でございました。
 弁円にはたくさんの信者がおり、親鸞さんがこの稲田の草庵で弥陀の話をいたしますと、それはいいというのでまた一人、また一人、また一人と親鸞さんのところへ来てしまい。弁円も最初は「どうせ肉食大罪の破戒僧、修験道こそ真仏教であることが必ず分かるときがくる」と、軽く見ていたのでございますが、とうとう熱心に通っておりました信者までが親鸞さんの元へ行ってしまう。弁円は「どうも様子が変だな。弱ったな」、弟子にちょっと見てこい。
 見に行った弟子が驚いた。なんと稲田の草庵、門からずーっと列ができておりまして、最後尾、プラカードを持っておりまして、「ここが最後尾六時間待ち」と書いてある。なんと行列ができる草庵になっていた。「なに?行列ができる草庵だと、親鸞の奴目、よし分かった。俺の得意技、呪術でのろい殺してやる」、祈祷(きとう)を始めたのです。板敷山に護摩壇(ごまだん)を築き上げまして、これで護摩をたきまして、一日 二日 三日 四日と、のろい続けたのだそうでございますが、なんと弁円は、のろい殺すのに失敗してしまったんでございます。「のろい殺すこともできなかった。何かいい手はないか。誰か、何かいい手はないか」「弁円の旦那、いいこと聞いてまいりました」「どうした」「なんでも親鸞が柿岡村に布教に行くそうですぜ」「なに、親鸞が柿岡村に。よし、であれば板敷山を通るな。ようし、板敷山の山道でこの刀で真二つにして干して、これを干物にして食ってやる」。すごいことを考えました。親鸞さんの干物を作ろうなんてことを考えちゃった。弁円は弟子とともに、板敷山の山道で親鸞さんが来るのを待っていたのだそうでございます。ところが、待てど、暮らせど、親鸞さんはやってこない。「あれ、おかしいな。来ないな」「大変でございます、弁円の旦那。親鸞、もう柿岡村に入っております」「あれ、どうなった……まあいいや、帰り帰り。帰りだ」。やはり待てど、暮らせど親鸞さんやってこない。「大変でございます、親鸞、稲田の草庵に帰っております」「なに、じゃあ明日だ、また明日だ」。ずーっと待っていたのでございますが、親鸞さんと一遍も会えなかったのだそうでございます。実を申しますと、この板敷山というのは下の道と上の道の二つあったのだそうです。ですから、弁円が下で待っておりますと親鸞さんは上を行く。弁円が上で待っておりますと親鸞が下を行く。これはなぜかといいますと、実はこの弁円の弟子が、弥陀の話を聞きまして大変に心を広げまして、こんな人を殺してはいけないというので、「今日は弁円下で待ってます」と、こう言う。そうすると親鸞は上を通って行く。「今日は上でございます」と、親鸞は下を通って行く。だから一日も会えなかったという、これもどうだか分かりませんけどもね。     つづく


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