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第87号 「親鸞聖人一代記」

カテゴリー:法話集    更新日:2019 年 1 月 1 日

「親鸞聖人一代記」
 ただいまご紹介をいただきました三遊亭右左喜でございます。今年で三回目でございまして、やっとこの顔にも慣れましたか。ありがとうございます。
 最近私、ペットを飼い始めたのですよ。セキセイインコ、なかなかかわいいですね。その前がハムスターを飼っていた、二年間ぐらい。その前は十年ぐらい、金魚をずっと大きい水槽で飼っていました。
 私は東京の武蔵野市という所に住んでいて。最寄り駅が吉祥寺という駅。ここに駅ビルがあり、西口のほうに、昔、小鳥屋さんがり「あ、そうだ。あそこにペットショップがあるから小鳥を買いに行こう。」と行きましたら、なんと改装中なのです。そこで三週間後に行きました。店がきれいになって、看板が出ているのですよ、白と赤。入口におじさんが立っている。白い洋服を着た眼鏡を掛けているステッキを持ったおじさん。なんと小鳥屋さんが、ケンタッキーフライドチキンになっていたのです。これは驚きましたね、私は。もうちょっと考えたほうが良いのじゃないかなと思ったのでございます。
 去年まで、親鸞聖人のお話をさせてもらっております。その師匠であります法然さんとその弟子たちが、承元の法難と申しまして、後鳥羽上皇の怒りを買って打ち首、死罪、流罪ということになったのです。法然さんは四国の讃岐(香川県)という所。親鸞さんは越後の国(新潟県)に流罪ということになりました。
 この越後のことをほとんど書いていないのです。その代わり伝説というものが残っておりまして、越後の七不思議(前回掲載)なんて、不思議な話もありましたけれども、あっという間に四年という歳月が過ぎ去りまして、建暦元年(1211年)十一月、ご赦免になりまして、ご赦免って分かりますか。ご赦免というのは、皆さんが携帯電話やスマホなどで写真を撮る、それは写メ。失礼いたしました。ご赦免というのは、罪が許されること。この時、親鸞さんは年齢が三十九歳で、この時、子どもが生まれており、信蓮房明信(しんれんぼうみょうしん)という男の子が生まれているのです。
 玉日姫(たまひめ)との間に生まれました範意(はんい)のちに改名した印信(いんしん)、このあと小黒女房(おぐろのにょうぼう)。そのあとが、慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)。このあとが、益方人道有房(ますかたにゅうどうありふさ)。そのあと、高野禅尼(たかのぜんに)。そのあとが、覚信尼(かくしんに)さんという。
 一方、法然さんも建暦元年十一月にご赦免ということになりまして、本来なら讃岐(香川県)に居られるのに、そこでなく摂津の勝尾寺(かつおうじ)というところ。摂津とは、大阪。年を取ったから大阪に身を寄せていたのです。放免されましたから、すぐに京都のほうにお戻りになったのでございます。
 年が明けまして建暦二年(1212年)、法然さんは年明けに、どうも体の調子が悪くなりまして、一月二十五日に亡くなってしまいました。親鸞さん、法然さんのことがもう好きで、好きで仕方がなかった。本来、罪が許されたらすぐに飛んでいって会いたかったのでしょうが、許されましたのが十一月でございます。雪がチラチラ降ってくる。子どもも小さい。もうちょっと暖かくなって子どもが、大きくなってから会いに行こうと思ったのではないかと、私が思うわけでございます。 その前に悲しい知らせが親鸞さんの元に入ってきたのです。親鸞さん、京都へ行くよと、云ったという話もあるのですが、いや、あまりにも悲しくて、越後の国で布教していたという話もあります。
 それから三年たちまして、建保二年(1214年)でございます。親鸞さんは家族の者をともに連れまして、越後の国をお旅立ちになったのだそうでございます。このとき、四十三歳。恵信尼(えしんに)さん、奥さんでございますね。この方が三十三歳だったのだそうでございます。親鸞さんは家族の者をともに連れまして、北国街道と申しますから国道八号線を南下をして、親鸞さん、どこに行ったかと申しますと、信濃の善光寺という所にお寄りになったんだそうでございます。この信濃の善光寺というのは、本尊というのが一光三尊阿弥陀如来像と申しまして、大変な秘仏。小さいのだそうですね。もう大変小さい。純金でできた阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊像だそうでございます。 これは秘仏と言われておりまして、今生きている人達では誰も見たことがない。この阿弥陀如来像、これが実を申しますと、まだ日本に仏教が入ってくる前に、中国の百済という所からやって来たのだそうでございます。ですから、お釈迦さんと阿弥陀さんが相談したんでしょうね。「どうです、阿弥陀さん」「なんですかね、お釈迦さん」「もうね、中国もずいぶん仏教布教しましたからね。そろそろ日本へ行って布教しませんか」「結構ですねえ、行きましょう、行きましょう」「お釈迦さん、私もね、日本へ行きたかったんですよ。浅草寺行って、その帰りにすしや通りでおすし食べたかったの」「そんなもんありませんよ、本当にもう。あ、でも阿弥陀さん、ひげ生えてます、ひげが」「え?」「ひげが生えてますよ。そんなひげ面で日本へ行くつもりですか」「そうですか、どうしましょうか」「じゃあね、私が剃ってあげま……」「あら、お釈迦さん剃ってくれるのですか。ありがとうございます。じゃあ」「阿弥陀さん、剃りますよ。いきますよ」「痛い痛い痛い、痛いじゃありませんか、お釈迦さん。ご覧なさい、血が出た。アミダが出た」なんて。「何をくだらないこと言うのですか。私が剃ったから、痛いわけないでしょう」「本当痛い」「ああ、阿弥陀さんごめんなさい。私が剃ったのだ、シャカ剃りだ」なんて。落語にはくだらない話があるわけでございますがね。実はこの善光寺という所には、実は親鸞さんの足跡というのがたくさん残っているのでございます。
本堂に入りまして、その左外陣でございます。ちょっと入ったところに人だかりがするところがある。ここに何があるかと申しますと、賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)というのがあり、この賓頭盧尊者というのは、お釈迦さんの十六羅漢のお弟子の中の1人でして、大変に神通力が強かったそうです。
 この賓頭盧さん、ちょっとおちゃめなところがありまして、神通力で、もてあそんだそうです。そうしましたらお釈迦さんに怒られ、阿弥陀さんの話をして、「賓頭盧くん、そんなことしたら本当にもう、あみだぞう」なーて。「何言っての、お釈迦さん。そんなことしたら。阿弥陀さんでぶつぞう」なーて。小学生以下のだじゃれでございました。これはちょっと失礼いたしました。この賓頭盧尊者さん、怒られ許してもらいまして、十六羅漢の一人になったのだそうでございます。この賓頭盧尊者像、実はある御利益がある。どこか自分の悪いところ、もしもおなかが悪いならおなかをこすると、おなかの調子が良くなる。だから私、行きまして。一回頭をさすってやろうかと。頭が良くなるかなと。もうお母さんなんか、きっと顔をこすると美人になる。お母さんもともと美人だから大丈夫(笑)。いろんなことがあるわけでございますが。
 この賓頭盧尊者像の隣に、実は大きな花瓶があるのです。この花瓶、実は松の枝が生けてある。実はこの松の枝、親鸞さんがここにお寄りになったときに奉納したのだそうでございまして、なぜ親鸞さんが善光寺に松の枝を奉納したかと申しますと、皆さんもご存じ、松というのは一年中枯れないのです。冬の間も青々している。この特性を生かしまして、末法(まっぽう)にも滅びない、阿弥陀仏の本願の象徴としま……末法って分かります? 末法、末法は分かんない、説明しましょう、皆さん、高校時代を思い出してください。授業を抜け出しまして、近くの公園で、みんなで車座になってタバコを吸う。向こうからおまわりさんが来る。「ヤベえ、マッポが来た」って、不良しか分からない言葉でございましたね。失礼いたしました。
 末法というのは、お釈迦さんが亡くなったあとを、これを正法(しょうほう)、それから像法(ぞうほう)の時代、末法の時代がくると信じられております。正法の時代というのは、お釈迦様の教えと修行の仕方と悟りを開く。とした時代、これを正法の時代。像法の時代というのは、これは教えと修行の仕方はあるのですが、誰一人としても悟りを開けない時代。そのあとに来るのが末法の時代。これは大変に恐ろしい時代が来ると、昔から恐れられておりまして、これはお釈迦様の教えだけが残って、修行の仕方も悟りを開くということも、これがなくなってしまうという、これは丁度、親鸞さんが生きている頃、ここから末法に入りましたといわれたのだそうです。
 ですから松の枝を、この末法にも滅びない、阿弥陀仏の象徴といたしまして、親鸞さんが、わざわざ松の枝を奉納したのだそうです。大変にありがたいわけでございまして、その証拠に、この善光寺を一回出まして、本堂から。左手に行きますと、親鸞さんが、右手に松の枝を持ちまして、左手に数珠を持ってお立ちになっている姿の銅像が建っています。なんとこの銅像が、善光寺の本堂へ向かいまして、この松をどうぞうって。ちゃんとついてきてね、本堂を出まして左手の奥の方に入ってまいりますと、小さなほこらがあり、ここに、親鸞聖人爪彫阿弥陀如来像という彫り物の石があるのだそうでございます。これは親鸞さんが爪で阿弥陀如来像を彫ったのだそうでございまして、どういうわけか、昔から爪彫阿弥陀如来像は眼病に御利益がある。と信じられております。どうぞ、目の悪い方は善光寺へ寄ってそこへ行ったほうがよいと思います。
 また、善光寺は井戸が少なく、水の便が悪かったのだそうでございます。越後の国を出るときに桂(かつら)の木の枝を杖にして来たのだそうです。そこで、この桂の杖を地中に挿したのだそうす。そうすると、この枯れた桂の木の杖に根がつき、巨大な桂の木に成り、その根元から、なんとこんこんと水が湧き、これを井戸にして使った。この池のことを親鸞池、または念仏池とも呼ばれているのだそうです。
 また、この善光寺に百日間逗留(とうりゅう)したのだそうです。大変有名な話でございます。親鸞さん家族と一緒に、これから常陸国(茨城県)に行くのですが、わざわざ信濃(長野県)に寄っることは、遠回りなのです。ある親鸞さんの研究者の方が、お浄土に行かれたのだそうでございます。この方が親鸞さんにお浄土でばったり会いまして、「あ、どうも親鸞さん」「どうも。あなた、私の研究をなさってくださり、私のことを広めて頂きまして、ありがとうございます」「分からないことがあるのです?」「聞いてください、私の記憶が七百五十年前ですからね」「難しいこと聞きません」「親鸞さん、越後の国に行って、それから常陸にも行ったでしょう、その時に途中、信濃の善光寺に寄ったでしょう」「寄りました」
「それが分からない。わざわざなぜ遠回りして信濃の善光寺へ行ったのですか」「あら、分からない。そんなこと。簡単ですよ。信濃、今の長野。長野へ私寄るわけですよ」「どうして」「よく考えてごらんなさい。私の宗旨がしんしゅう(真宗・信州)でございます」って。分かんないと置いていきますよ(笑)。察していただければありがたいわけでございます(笑)。
 ここから、常陸の国、茨城県に行ったのでございますが、実は途中で寄った所があるのです。これ、確実に分かっているのです。恵信尼さんが、お手紙を書いて残してあったのだそうでございます。これは親鸞さんが亡くなった後に、末娘の覚信尼さんにお手紙を出したのだそうでございますが、これが大正十年に見つかったのだそうでございます。そこに書いてある手紙の中に、この旅の途中のエピソードが書いてありまして、手紙の書き出しがこうでございます。「信蓮房四歳のとき、武蔵国でしたか上野国だかよく分かりませんが」、ちょっと恵信尼さん八十過ぎたものですから、実は武蔵国と上野国というのは大変に国境が入り組んでいて分かりづらかった。ただ、佐貫(群馬県邑楽郡の辺り)という所という地名が出ている、ここにお立ち寄りになりますと、大変な日照りで、人々が飢えで苦しんでいたのだそうでございます。親鸞さん、「ああ、これは何とかしたいなあ」と考えに考えた末に、浄土三部経、これを千回読誦(どくじゅ)を考え、浄土三部経は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、この三つでございます。だいたいこれを全部読むと、二時間ぐらいかかるのです一回読むと二時間かかるんですよ。これを千回読もうというのですよ。一日寝ないで読んだって十二回しか読めない。千回読むといったら何日かかりますか。親鸞さん、なんとか人々を助けようと思いまして、浄土三部経千回読誦を始めまして、一日二日四日たちまして五日目でございます。はたと親鸞さん気が付いた。   次回につづく


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(2023 年 7 月 12 日)