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第85号 「親鸞聖人一代記」

カテゴリー:法話集    更新日:2018 年 7 月 1 日

前号より
【越後への流刑】
 親鸞さんは、法然さんより先に、京の町を旅立ちます。これが承元元年3月16日でございます。役人と検非違使(警察官と裁判官を兼ねたような方)、こういう方に囲まれ、京の町を出ていく。やがて近江の国(滋賀県)、この山科を通り大阪山を越えて行くと、目の前に大きな湖が見えてまいります。この琵琶湖というのは滋賀県の陸地の六分の一以上を占めるという大きな湖で、湖南最大の港、内田の浜を、小さな船で出てまいります。途中、比良山から吹き下ろします大風に遭いまして、沖島という島に避難したといわれております。
この沖島というのは、琵琶湖の中で一番大きな島で、浄土真宗にとって大変縁の深い島でございます。あの蓮如さんも、やはり越前の国へ行く時に、比良山から吹き下ろします大風に遭い、この沖島に避難したといわれております。親鸞さんはここに、十字名号を残しまして、それが縁となり、沖島の島民は、ほとんど全員が浄土真宗のご門徒といわれております。
一晩ここに泊まりまして、翌朝比良山から吹き下ろします大風がぴたっと止まり小さな船に乗り、北上してまいりますと、海津の浜から上陸をいたします。大阪山の七里半坂を越えてまいりますと、この先がなんと越前の国(今の福井県)でございます。 越前の国は、最初の難所でありまして、愛発(あらち)山という山でございます。
【念仏池】
 実はこの中腹に念仏池という池があり、なぜ念仏池かと申しますと、杉の木がいっぱい生えておりまして、道端にこんこんと湧き出る水があったのだそうです。親鸞さんは、山道ですからのどが渇いており、手ですくいまして飲みますと、なんと親鸞さん、体に力が、みるみる湧いたのだそうでございます。思わず、親鸞さん、このとき一言、言ったのだそうでございます。ファイト一発。どっかで聞いたような言葉でございます。実は、この水には秘密がありまして、なんと滋養強壮剤が入っていた。これがよく、最近、この近年ですね、研究に研究をつくされまして出来上がったのがリポビタンD。あまり、はなし家の言うことを信じちゃいけませんけどもね。
 この池の水を飲み、大きな石に、親鸞さん、腰掛けまして休憩をなさったといわれています。それがご縁で、この池のことを念仏池というふうに呼ばれるようになったのでございます。この愛発山というのは、大変に難所で一晩で越えられなかった。親鸞さん、この愛発山の中腹にございます、炭焼き小屋に一晩お世話になったという話が残っております。またこの炭焼き小屋のおじさんの名前が分かっているのです。中原野獣衛門です。すごいですよね。750年前の炭焼きのおじさんの名前が分かっているのですよ。実を申しますと、親鸞さん、この人に阿弥陀仏の教えを説いて話しました。大変に感激をいたしまして、この晩、小豆粥をごちそうしてくれたのだそうです。
 浄土真宗の御文というのは皆さん、よく知っておられますけれども、親鸞さんというのは、小豆が大好きなのです。甘いもの大好き。元祖スイーツ男子。現代のスイーツ男子というと、元横綱の大乃国。今、芝田山親方、大きな体しまして、ちっちゃいシュークリームを食べておりますよね。もしも現代、親鸞さんが生きていたら一緒にシュークリームを食べていたのでしょうね。何か目に浮かびますけれども。
 親鸞さん一行、翌朝、新しいわらじに履き替えまして、この大変な難所、愛発山を越えるのに、なんと役人も親鸞さんも、足から血を流しながら、登って下っていった。足から血を出してですよ、足から血を、足から血、で「愛発山」ってなったのだ、強引でございました。
 愛発山を越えますと、これからは木ノ芽峠でございます。木ノ芽峠を越えますと、この先がなんと、加賀の国(今の石川県)でございまして、海岸沿いをずっと行きまして、やがて加賀の国の国府でございます。安宅の関というところ、この安宅の関というのは大変に有名なところでございます。歌舞伎でも有名。源義経と弁慶が繰り広げました、あの勧進帳、皆さん、ご存じですね。勧進帳のあった舞台が、この安宅の関なのでございます。ちょうど親鸞さん一行がお通りになったときは、なんとこの勧進帳から丸20年目でございます。安宅の関を越えますと、すぐに米光町というところです。
【親鸞聖人手取川渡しの名号】
 ここに実は、仏屋敷という屋敷があり、なぜかというと、この先に手取川という川があるのでございます。手取川。ちょうど親鸞さん一行がお通りになりましたのが、3月半ば、ちょうど雪解けでございます。ですから、この手取川というのは大変に増水をしていた。増水ですよ。ふぐ雑炊、マツタケ雑炊、玉子雑炊、どうして食べもんにいくかな。
 春になりますと水が増えますから、実はこの川というのが、橋を架けることができなかった。ですが、渡しもなかった。ここにやってまいりまして、親鸞さん一行、船頭がいますね。「すいません、渡してもらいたいのでございますがね。」「ええ、いやあ、駄目だ駄目だ、ちょいと見てごらん、手取川ちょうど増水しているな。またご覧よ、風が強いので、今日、川荒れてるから、渡すことできねえ。」「いや、お願いいたします。急いでいるもので船を出してもらいたい。」「いま船を出してごらん、命いくらあったって足りんぞ。」「いや、大丈夫です、こちら、お坊さんですから、何かありましたら、お念仏あげてもらえます。」「ううん、駄目だよ、命一つしかねえだよ、駄目だ。」このときに親鸞さん、何を思いましたか、背負っている負い、ただ今でいうリュックサックみたいなもんでございます。負いを下ろしまして、筆を持ち紙に「南無阿弥陀仏」六字名号を書きまして手取川にすっと流したのです。今まで荒れていた手取川が、ぴたっと静かになっちゃった。船頭はこれを見て驚いた。「おいおい、何しただよ、驚いたな、今まであれだけ荒れていた川が、ぴたっと静かになっちゃっただよ。おめえは引田天功かマギー司郎か、おめえはマジシャンか、驚いたな、これだったら渡さねえことねえぞ。さあみんな、船に乗れ、一度きりだぞ、乗れ乗れというので。」船頭が船を出してくれたんだそうです。
 親鸞さん一行、手取川を渡ってまいります。船頭がその帰りの途中、親鸞さんが流しました六字名号、流れずにきれいに浮いていた。これをすっと船頭が取り上げますと、まだ黒々と六字名号が残っております。これを拾いまして、川原できれいに乾かしまして、この仏屋敷にずっと安置してあったのです。この名号のことを親鸞聖人手取川渡しの名号というんだそうで、現在は、すぐそばのお寺さんに名号が安置してあるのだそうでございます。
【親鸞聖人けさ懸けの松】
 親鸞さん一行、この手取川を渡りまして、やがて加賀の国と越中の国(富山県)の国境でございます、倶利伽羅峠というところ、越中富山の置き薬なんてこともいいますけれども、峠を抜けますと、国府でございます、伏木というところを通りまして、常願寺川を渡る。常願寺川を渡りますと、この先に町袋という所があるのです、そこに松があり、親鸞さんはこの松の下でご休憩をなさった。この松に、袈裟を懸けたのだそうでございます。親鸞聖人けさ懸けの松といわれて、有名だそうでございます。でも親鸞さん、このとき、袈裟でよかったですよ。旅も終盤です。背負っている負いの中にたくさん洗濯物が入っている。常願寺川で、じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶこれを洗いまして、この松にふんどし懸けてごらんなさい。親鸞聖人ふんどし懸けの松。だらしないでしょう、そんなことはない、やはり、袈裟でよかったんですね。
 さて、ここで問題でございます。親鸞さん、この松にけさを懸けたのは、いつごろか分かりますか。今朝。気が付きましたね。夜じゃないのです。昼間でもないのですよ、昼でもない、朝、今朝なのですね。どうもありがとうございました。
 このけさ懸けの松を過ぎますと、やがて流刑地でございます。越後の国に入ってまいります。越後の国に入りまして、一番、最初に出くわすのは、大変な難所でございます。ここは、親不知・子不知というところでございます。
【親不知・子不知を越え】
 実は、この辺り、大変な地形で、どういう地形かと申しますと、岩壁が切り立っておりまして、岩がいくつも穴がたくさん開いている。で、波がこの岩壁にザブンと打ちつけまして、引いた瞬間を狙って岩穴から岩穴へどんどん進んでいくという。ですからいつ波に、さらわれるか分からない。だから親は子を、子は親を振り返ることができないので、親不知・子不知という難所でございます。やはり、親鸞さん一行も、この親不知・子不知を越えたといわれておりまして、ただ親鸞さん、ここで一つ、伝説を残していきました。親鸞さん、役人とこの穴から穴へ抜けていったのでございますが、途中、親鸞さん、タイミングを間違えちょっと出遅れた。役人が、親鸞さん、危ないと大きな声を出し。頭を下げたのだそうでございます。ところが、岩壁にたたきつける波の音が聞こえてこなかった、役人が顔を上げると、海の中から黄金の竜が、出てまいりまして、親鸞さんを襲った波をこの竜が背中で受け止め、その瞬間に親鸞さん、次の岩へぴょんと行きまして、なんとこの難所、全員で越えられたといいます。親鸞さん、親不知・子不知で黄金の竜を出しちゃった。すごい方でございますね。
 やがて、姫川を渡りまして、木浦(このうら)というところ、この木浦から船に乗りまして、居多ケ浜という浜に上陸をいたしまして、越後の国の国府、五智国分寺の境内にございます、竹之内の草庵というところに、最初に親鸞さんはお入りになったと言われております。親鸞さんは流人でございますから、食料ですね、これは国から出たといわれています。流人というのはこの当時、1日、米一升、塩一勺(しゃく)でございます。
 米一升は随分あるような気がするでしょう。計算の仕方が違うらしく、調べてみると一升っていうのは、大体今でいう四合ぐらいと塩を一つまみ、これが1日に与えられる。これで、1日で食べるわけでございます。翌年になりますと米の種もみを渡されまして、親鸞さんも畑で米を自分で作ったといわれております。実は詳しいことよく分からない。というのも親鸞さん、新潟のことは、ほとんど書いて残していないのです。
 親鸞さん、はっきりしているのは、新潟で恵信尼さんと結婚したと。この前来たときに、玉日姫と結婚した、確かに京で九条兼実の娘と結婚したよと言ったでしょう。そういう話もあるのです。この当時の流人というのは、実は夫婦同伴で行くというのが規則で決まってたのだそうでございます。ですから、もしかしたら玉日姫と一緒に親鸞さんは越後の国に行って、玉日姫が得度をいたしまして、恵信尼になったという話もあります。いやそうじゃない、玉日姫というのは京都に残し、病死をしたんで、親鸞さんが越後の国に行って、三善為教(みよしためのり)という役人の、娘の恵信尼と一緒になったんだという説があり、どれが正解か分かりません。
【非僧非俗】
 親鸞さん、越後の国にて、非僧非俗の宣言をするのです。「非僧非俗」僧にあらず、俗にあらずというのです。僧侶とか俗人とかを超えた、真の仏道を求めるものですよ、という宣言をなさっています。このとき、自分の名前を、愚禿釈親鸞と書いて残しております。ぐ、愚か、とくというのは、禿という字です。はげ頭ですから、蓬髪(ほうはつ)の頭。釈というのは、お釈迦さまの弟子です。
 親鸞さん、この新潟で自分のことを書いて残していない。ため新潟では大変に謎なのです。謎だけれども、実はいっぱい伝説を新潟で残しているのです。
【越後の七不思議】(次号にて)
 越後の七不思議というのは、親鸞さん伝説のことでございまして、片葉葦(かたはのあし)、繋榧(つなぎがや)、逆竹(さかさだけ)、焼鮒(やきふな)、三度栗(さんどぐり)、八房梅(やつふさのうめ)、数珠掛桜(じゅずがけざくら)、この七つ。まあ親鸞さん、布教をいたしまして、6年、7年たちまして、新潟を出ることになります。これから関東に出てまいりまして、親鸞さんは、お弟子が一人もいないというので、名号、御同朋御同行ができていくということでございます。
 今日は、京都から流されまして新潟へ行ってまいりました。この先は、また来年、お話したいと思います。三遊亭右左喜でございました。どうもありがとうございました。        おわり


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(2023 年 7 月 12 日)