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第84号 「親鸞聖人一代記」

カテゴリー:法話集    更新日:2018 年 4 月 1 日

前号から
 親鸞聖人は、承安三年お生まれで、平安時代末期でございました。幼い頃に両親と死に別れして、九歳の時に比叡山延暦寺に僧侶として二〇年間修業をいたしました。二十九歳の時に比叡山を下り、京都の吉水(よしみず)で、法然上人の草庵に行き、弟子となりました。「綽空(しゃくくう)」の名前を名乗ります。またすぐに、九条兼実・摂政・関白も務めた方の娘・玉日姫と結婚しました。公然と僧侶が肉・魚を口にし、女性と結婚をするということは、世間でも仏教界でも、大変な大問題でございます。親鸞聖人は、雑言、悪口というのを浴びました。親鸞聖人は、この法然上人の居る草庵の時は、大変に幸せな時期で多くの教えを頂き、仲間と諍論(じょうろん)を交わしたと話が残っております。(諍論とは、どっちが正しい仏の教えかと論議をすること)有名なのが、信行両座の諍論と云うのです。
 これは、専修念仏は、お念仏も大切ですが、信心が大切ですよという話が残っております。また、親鸞聖人の信心も法然上人の信心も、これ、みな同じでございますと、もしも、これが違うのであれば、それは自力の信心であり、他力の信心ではない。みな同じお浄土には行けません。との話も残っております。
 親鸞さん、法然さんのとこで過ごして、あっという間に四年という歳月が過ぎまして。ある時、師匠に呼びつけられ、「師匠、お呼びでございますか」「綽空か、まあこっちにお入り」「何でございますか」「綽空、おまえ、ここに来てどれくらいたつ」「早いものでございますね、あっという間に四年たちました」「そうか、四年か、もうおまえならよかろう」というので、親鸞さんの前に一冊の本を出されたそうでございます。この本は、九条兼実さまが、法然さんに向かい、専修念仏、阿弥陀仏の教えというものを詳しく書いてください、「選択本願念仏集」という本を書いてくれと、こう願いまして、これを書いた本でございます。ところが、あまりにも内容が過激なものでございまして、最後のページに法然さんが筆を取りまして、この本を読んだらどうぞ、壁奥深くに塗り込んでくださいというふうに書いた本でございます。あまりにも危険なものでございました。「さあ綽空、この「選択集」だがな、おまえに書写を許す」「師匠、これ私、写してもよろしいのでございますか。ありがとうございます」それはうれしいわけです。なんとこの本、今までに書写ができましたのは、弟子が300人程いる中で今まで五人。なんと親鸞さんが六人目。兄弟子さんを抑えまして書写を許されたのです。これはうれしいのは当たり前でございます。この時、実を申しますと、親鸞さんは一緒に法然さんの真影、絵姿を写すことも許されたのだそうでございます。これは仏教界にとって、印可(いんか)に等しいのだそうでございまして。印可は分かります。分かんないよね。そんなこと聞いて分かんないんか。印可というのは、「すいません、宅急便です、ここに一つお願いいたします」「それ、印鑑」です。この辺のことはまともに聞かないようにしてくださいね。印可とは国語辞典を調べたら、弟子の僧が悟りを開いたと認めたということなのです。だから親鸞さん、法然さんに認められたと同じことでございまして、これはうれしかったことでしょうね。親鸞さん、すぐに「選択本願念仏集」を小脇に抱えまして、四条西通りをスキップして帰ったのでございます。あまりうれしいもので。うちへ戻りました。
これを一生懸命、写し終えますと、すぐに師匠のところに、法然さんが筆を取りまして、この表紙に、南無阿弥陀仏、往生之業(おうじょうしごう)念仏為本(ねんぶついほん)と書いたのだそうです。どういう意味かと申しますと、南無阿弥陀仏は私に、人生を念仏に育てられ初めて生まれると、名前に、綽空と法然さんも入れてくれて。また親鸞さん、法然さんの真影を写しまして、絵師に頼みまして、やはりこれにも法然さん、筆を取りまして、南無阿弥陀仏と書いてこれに善信(ぜんしん)と。実は、親鸞さんは夢のお告げを見まして。まあ訳を、師匠に話しますと、許してくれて、綽空から善信に、この時に変わったと言われております。
 まあ本当に、親鸞さん、この法然さんのとこで幸せに過ごしていた。この幸せな時間が長く続けばよろしかったのでございますが、そうは問屋がおろさない。というのも、比叡山延暦寺とか奈良の伝統仏教団というものが、この法然さんの教え、あまり面白く思っていない。それはそうでしょうね。お念仏さえ唱えれば、その人が、阿弥陀仏が西方浄土に救ってくれるという教えでございます。
 元久元年でございます。1201年。比叡山延暦寺の僧侶がその当時の座主、一番上の方でございます。真性(しんしょう)の下に集まりまして、念仏停止を願い出たんでございます。実を申しますと、法然さんのところには、お念仏さえ唱えれば悪いこともしてもいいなんてんで、お念仏唱えながら悪いことするやからも集まって来たのだそうでございます。
私、一年前に血液検査をいたしまして、「尿酸値ですが」「ああ、プリン体ですね。魚卵、玉子、モツ、ビールなんていうのはね、たくさん含んでおりますから尿酸値が上がるのです」「5.9あります。」「一体どれ以上あったら駄目なのですか。」「5以上。」「あなた痛風になりますよ」「痛風って、確か治らないんですよね、」「薬を出しますから、尿酸を下げる薬、飲んでごらん」。二カ月後です。血液検査、「数値4.4まで下がりました。あとは養生して、とにかく薬を出しておきますから、しっかり治してください」それからすっかり安心をいたしまして、痛風の薬を飲みながら毎日ビールをガバガバ飲むという、悪いことをしながら念仏唱えるのと一緒でございます。
 また、一生懸命修行している人を軽視したりなんかする。これに対して法然さんは逆らいません、これから従順にしていきますよという「七箇条起請文」というのを書き上げまして。この時、最後に法然さんが名前を書きまして、お弟子の名前も書いて、六十何番目かに、僧綽空といって親鸞さんも名前を入れたと言われております。これを比叡山に出しますと、分かりましたと言うんので、この年、比叡山とは何となく収まっていきました。
 翌年、元久二(1202)年でございます。奈良の興福寺が「興福寺奏状」というものを書いたのです。専修念仏に対しまして、九つの間違いというものを書き出しまして、これを朝廷に出しました。朝廷のほうから、念仏停止を願い出たのです。朝廷は弱りまして、九条兼実さんに、興福寺からこの書状がきた。
また、鹿ケ谷(ししがたに)というところ、京の左京区の辺りでございますが、ここに法然さんの弟子の住蓮、安楽という2人のお弟子さんがいた。草庵があったのです。実を申しますと、この住蓮、安楽というのが大変にいいお念仏、節がつきまして、大変にいい声で朗々と念仏を唱える。またついてこの2人が、いい男なのです。今のタレントでいえば、木村拓哉さん、福山雅治さん、TOKIOの長瀬君、お母さんに合わせましょう。大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川雷蔵、古すぎた。三船敏郎。橋幸夫、まあこの時代でございます。声がいい、顔はいいから、もう女の子、きゃあきゃあ言われまして、すぐにファンクラブができまして。年に四回、会報が出る。マルベル堂からブロマイド出すと飛ぶように売れる。声がいいですから、レコード会社が目を付けましてCD発売。三枚セット、浄土三部経。無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、これを録音いたしまして発売すると、オリコンチャートは、一位、なんと住蓮、安楽にがばがば印税が入ってくるという、そんなことありませんけれども。声がいい、顔がいいと大変に有名になったのだそうでございます。 二人が、念仏の会を開いたのです。そこに参加いたしましたのが、後鳥羽上皇の宮廷女房、鈴虫、松虫という二人。美人だったと言われておりますが、ちょうどこの時、後鳥羽上皇が熊野詣でに出かけて京の町を留守にしていたのです。そんな時に参加したのです。この鈴虫、松虫という二人が、いたく感激をいたしまして、なんとその晩、帰らなかったのです。別にそれよかったのですが、実はこの会場に、あの悪名高き「週刊文春」の記者がいたんです。住蓮、安楽、鈴虫、松虫、二人の写真を激写いたしまして。翌週、京の町「週刊文春」が発売されますと一面ですよ。住蓮、安楽、鈴虫、松虫、密通あり。ドーンと出ちゃったのです。もう京の町が騒然といたしまして、鈴虫、松虫がこれは申し訳ないというので、何と黒髪をぷっつり切りまして、尼になっちゃった。その後に帰ってきた、後鳥羽上皇がどうも何か、京の様子が、おかしい、何かあったのかな、どうしたのかなと思って落ちている「週刊文春」を見たら、えらいことが書いてある。何、鈴虫、松虫をすぐ呼んでこいと、いや、二人は尼さんになり出ていきました。 後鳥羽上皇が怒ってしまいまして。なんとすぐにこの「興福寺奏状」というのを取り上げまして、翌年でございます。法然さんの弟子を逮捕、また拷問というものが始まりまして。翌月でございます。住蓮、安楽、他二人が打ち首、獄門。また法然、親鸞以下八名が、流罪。実は最初、この親鸞さんは、打ち首のほうに名前が入っていた。ところが九条兼実さんの娘婿でございますから、九条兼実さんが一生懸命に力を尽くしたといわれているのですが流罪にしたというふうに言われているのです、これははっきりしたことは分かりません。そういう話もあるということです。よほどの殺人鬼でないかぎり、この打ち首がなかった時代に、一遍に四人も、これ異常でございました。法然さんの流罪の先が、土佐でございます。ただ今の高知県でございます。これが実を申しますと讃岐、香川県でございますが、ここが九条兼実さんの領地があったというので、ここに移ったといわれております。親鸞さんが越後の国でございます。ただ今の新潟県に流罪ということになります。また名前のほうを俗名に戻されてしまいます。法然さんが藤井元彦、親鸞さんが藤井善信(よしざね)。元彦です、善信です、二人でアミダーズって漫才師じゃありませんけどね。俗名に戻されてしまいます。二人は、最後に会いまして、京の町で別れを惜しんだと、このとき最後に、親鸞さんと法然さんが、和歌をうたって別れたといわれています。親鸞さんが、
「会者定離、ありてわかれて聞きしかど、昨日今日と思わざる日を」と詠んだ。これに対して法然さんが、
「別れゆく、道はるかに隔てとも、心は同じ花のうてなぞ」と。
別れゆく道は違うけれども、いつも心は同じですよと、どこの国に行っても、専修念仏の教えを広めるのですよ。かしこまりましたと親鸞さんが頭を下げまして、別れたといわれています。           つづく


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(2023 年 7 月 12 日)