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第77号 正しい信心について

カテゴリー:法話集    更新日:2016 年 7 月 1 日

蓮華
 沼地に生えているハスの花は、早朝5時にはもう咲いて、午前10時には閉じ始めるとのこと。(午前2時に咲き始めるとも聞きました)そして、3日間開いたり閉じたりを繰り返し、4日目には散るそうです。
 短い命ですね。そう思って見ると、いとおしくなります。ところで、このハスの花は、仏教と関係が深いのですが皆さんはご存知だと思います。阿弥陀経という、お経には、蓮華と出てきます。
 極楽絵図には、チューリップやダリア、桜・水仙などは描かれていません。蓮華ばかり使われる理由は、何でしょう。蓮の花は、仏教で教えられる「正しい信心」の特徴を表しているからです。
 それは、泥沼の中より芽を出し水辺にきれいに花を咲かせる。これはドロドロした現代社会から仏法を聞いて素晴らしい花をさかせる。このことから・信心をえて素晴らしい人生を持つとゆうことからです。
 「信心」と聞くと、自分とは関係ないと思われる人がいるかもしれません?
信じる 
 「私は、無信心です」と言う人に、時々出会います。しかし、私たちは何も信じないで生きることはできません。信じるとは、言葉をかえれば、あてにする・頼みにする・心の支えやあきらかりにするということです。
 例えば、明日の予定を立てますが、明日も生きていると信じてのことでしょう。何の疑いもなく、明日も目が覚めると思っています。しかし、その確証はあるでしょうか?
 明日の命は、誰も保証できませんから、信じるよりほかにありません。無意識に、みな信じているのではないでしょうか。「あの人は、間違いない人だ」とか、「私の考えは正しいが、あの人はオカシイ」とか、よく聞こえてきますが、「そう断言する根拠は何ですか?」と聞いてみると、根拠がなかったりします。
 自分の思いや直観・考えを信じ切っているのでしょう。果たして、その直感とやらは、どのくらい確かなのでしょうか?
 お金や財産があるから安心、地位や名誉があるから大丈夫という人も、それらを頼みにし、あてにし、心の支えにしているのです。
 以前、ある門徒さんの話で、ある友人の家を尋ねた時のこと。玄関のチャイムを鳴らすと、セコム管理の門の扉が開いて、門の中に入れてもらい。玄関を開け、一歩踏み入れた足の下は大理石!!応接室に入ると、イタリア製のテーブル・レザーソファーの応接セット。その他、壺や絵画など、フランス製とか、イギリス製とか、ドイツ製とか、アフリカ製?とか。一通りご丁寧な説明を受けた後、「で、要件は何だっけ?」と本題に入り。 その後、再度脱線して、仏教の話になったのです。
 友人のNさんが、私に向かって。「なんで仏教なんか聞いているのだね? まだ若いのに」私は「この世のものは、今日あって明日なくなるかもしれません。財産も、地位も、この命も。だから、不安ですよ」と言うと、Nさん「ワシはぜ~んぜん不安じゃないぞ。あそこにもアパート持ってるし、そこにも、全部で20室のマンションがある、まだあるぞ、ここには、これから建物たてる土地があるんじゃ」全然、話を聞いてくれてないのですね。多分Nさん、どれか一つの不動産が、ダメになっても、あっちにもこっちにも持ってる、へーき ということを言いたかったのでしょう。
 それが、不安の証。一つでは不安だから 沢山かき集めるのでしょう。更に、私、見つけちゃったのです。 応接室の天井近くに大きな神棚が、神棚を指差して聞くと、Nさん「これは豊川稲荷、商売の神様や」毎日 手を合わせている。これって、不安の象徴ですよね。「オレは、何も不安じゃない」と胸を張るNさん、「頭隠して尻隠さず」とは、このことか?。大きな神棚見えてるよ~♪不安がっている自分に、気がつかないだけなのです。
 お金や財産を持つ人は、余計に何かを信じなければ、生きられない、分かりやすく教えてくれた人でしたと。話してくださいました。
 夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を頼りに、親は子供を明かりに生きています。神や仏、宗教を信じるだけが、信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の信心です。何を命として信じるかは、一人一人違うでしょうが、すべての人は何かの信心を持って生きています。生きるとは、信じることともいえるのです。
 ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時、苦しみ悩みます。病人の苦悩は、健康に裏切られたからであり、家庭の悲劇は、夫を信じ切っていた妻が、夫に裏切られたからです。子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。しかも、深く信じていれば、いるほど、裏切られた苦悩や悲しみ、怒りは大きくなります。
 私たちは決して、苦しみ悲しむために生まれてきたのではありません。生きているのでもありません。幸福を求めて生きているのです。では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。
 たとえ70年、80年、信じられるものがあったとしても、私たちは最後、死なねばなりません。いよいよ死んでいかねばならない時には、信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、この肉体さえも焼いていかなければならないのです。やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、苦しみ悩みが絶えないのです。本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない「正しい信心」を持ちなさいよ、と、教えられたのが、真宗を開かれた親鸞聖人という方です。
正しい信心
 子供でも口ずさみ、テレビでもよく流れる「きみょう むりょう じゅにょらい なむふかしぎこう」で始まる「正信偈」は、その正しい信心とは、どんな信心かを親鸞聖人が書き残されたものです。
 「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉があります。どんな意味なのでしょう。今でこそ鰯は、安くない魚ですが、昔はとれてとれてとれ過ぎて、食べずに畑の肥料にしたそうです。それくらい値(かち)のないものの代名詞が鰯だったのですが、更にその頭は食べられず、もっと値がないという意味で、どんなツマラナイものでも、その人がいいと思って信じていれば、尊く見えるという皮肉も込めた言葉なのです。
 他人には、何の値もない“鰯の頭”が、よいと思って信じている人には、値千金と思えるのです。
「何を信じようが、その人がよければいいじゃないか、他人の信じているものを、あれこれ言うな」という人もいます。信じているものは、惚(ほ)れ込んでいるもの、命にしているものですから、「そんなもの信じてたら、ダメだよ」と言われると、カチンとくる。「鰯の頭なんか、何の値もないじゃないか、そんなもの何で大事なんだ?」と言われても、信じている本人は「鰯の頭を失ったら、ボクハ シヌ!」というくらいなのです。惚れている人の悪口を言われたら、腹が立つのと同じです。もし、腹が立たないなら、あまり惚れていないのでしょう。ですから「あんな娘、どこがいいの?別れなさい」と言われるのと同じく、「あんたの信じているもの、何にもならんよ、捨てなさい」とか、「そんなの迷信だよ」と言おうものなら、人間関係悪くするだけでは済まないでしょう。しかし親鸞聖人は、正しい信心・真実信心という言葉をよく使われています。
 正しい信心があるということは、そうでない信心があるということです。
 それらを、邪信・偽信(ぎしん)・仮信(けしん)と言われ、主著『教行信証』に、信心について書き示されています。そして、そのエキスが有名な『正信偈』(正しい信心の偈:うた)です。
 人が命としている信心に、正邪(せいじゃ)がある、本物とニセモノがあると親鸞聖人は、信心について、よくよく教えられたので、悲しいかな四方八方から、恨まれ、憎まれ、総攻撃されました。殺しにくるものもありました。そうなることは、重々承知でしたが、正しい信心でなければ、真の安心・満足はなく、やがて裏切られて苦しむので、知らん顔していられなかったのです。けれど、なかなか理解されないので、親鸞聖人は孤独な人生を歩まれたと言われます。「そんな絶対的に正しいものなんて、あるか!!」と、腹を立てて仏教を聞こうとしない人が多いと説かれています。お釈迦様や親鸞聖人が、正しい信心・真実信心を教えられても、自分の考えの方が正しいと思う人が多いのは、今も昔も変わりません。なかなか、聞き難いものが仏教だと、知らされるばかりです。    終わり


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(2023 年 7 月 12 日)