« »

第76号 「阿弥陀如来の本願に」ついて

カテゴリー:法話集    更新日:2016 年 4 月 1 日

「阿弥陀仏」とは
 「如来(にょらい)」と「仏」は、同じ意味ですから、「阿弥陀如来」といっても、「阿弥陀仏」といっても同じ仏さまのことです。「阿弥陀仏」といわれる仏は、地球上で仏教を説かれたお釈迦さまが「本師本仏(ほんしほんぶつ)」と言われている最尊の仏です。
 「仏」の境界のことは、仏智を諦得(たいとく)された「仏」でなければ分かりません。「阿弥陀仏」と「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」との関係について、蓮如上人は、『御文』に次のように「ここに弥陀如来と申すは、三世十方(さんぜじっぽう)の諸仏の本師本仏なり」(阿弥陀如来とは、大宇宙の無数の仏の師であり先生である)と仰っています。
 大宇宙には、数え切れないほどの仏がまします、それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。よく知られているのは、大日如来、薬師如来、奈良の大仏は、ビルシャナ如来といわれる仏で、それらの仏も、みな「三世十方の諸仏」の一人です。
 この地球上で「仏」の悟りを得られた方は、お釈迦さまの他にはありません。「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれるとおりです。
 約2600年前、お釈迦さまが35歳の12月8日に「仏」の悟りを開かれて、80歳の2月15日お亡くなりになるまでの45年間に説かれた、一切経(いっさいきょう)には、大宇宙にまします多くの仏さまの名前が出ていますが、その中で一番多いのが「阿弥陀仏」のお名前です。「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と天台宗の荊渓(けいけい)でさえ、驚嘆しているほどです。「諸仏の中の王なり・最尊第一の仏・諸仏の中の極尊なり」などと、大宇宙の仏の中で無上の仏が「阿弥陀仏」であることが、説かれています。大日如来や、薬師如来、釈迦如来など、十方諸仏が、「本師本仏」と仰ぐ仏が、「阿弥陀仏」なのです。「本師本仏」とは、本師も、本仏も、先生ということですから、この大宇宙の仏の先生だということです。これは、お釈迦さまが明らかにされていることですので、親鸞聖人も、蓮如上人も、このように教えておられるのです。「阿弥陀仏」は「十方諸仏」の先生である、ということは、大宇宙の仏方は、みな「阿弥陀仏」のお弟子ということであります。
 地球に現れた お釈迦さまも、「十方諸仏」の一人ですから、「阿弥陀仏」と「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」の関係は、師匠と弟子です。「お釈迦さま」だけでなく大宇宙の、すべての仏が、「偉大な仏さまだ、尊い仏さまだ、我らの先生だ・・・」とほめたたえて、手を合わせ拝まれる仏が、「阿弥陀仏」という仏さまなのです。
「阿弥陀仏の本願」とは 
 「阿弥陀仏の本願」の「本願」とは、どういうことでしょう。「本願」とは「誓願(せいがん)」ともいわれ誓い・約束ということです。「阿弥陀仏のなされているお約束」ということです。約束には、必ず相手があります。「阿弥陀仏の本願」の相手は誰なのか、その相手を阿弥陀仏は、どんな者と見抜いて、どんな約束をされているのでしょう・・
 大宇宙に、仏多しといえども、「十方衆生(すべての人)」と約束されている仏さまは、阿弥陀仏、ただ一仏です!
皆さんも、日常生活の中で、約束をされることあります。いや約束の連続が、私たちの人生といっても過言ではないでしょう。そして、大事な約束ほど相手を見極めることが重要となってきます。
 誰にでも彼にでも大金を貸すことはできません。必ず返しますという約束を守る人かどうか慎重に考えるでしょう。では、十方衆生と約束をなされている阿弥陀仏は「すべての人」を、どのようなものと見極められて、約束されているのでしょうか。
 阿弥陀仏が 見極められた「すべての人」の、本当のすがたについて親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそく の ぼんぶ)」と教えておられます。「煩悩」とは、私たちを煩わせ悩ませるもの。
 すべての人に、108の煩悩があるといわれます。年末に除夜の鐘を突くのは煩悩の数からきているといわれます。煩悩の中でも、とりわけ恐ろしい欲・怒り・ネタミソネミの愚痴の3つを「三毒の煩悩」といわれます。ひとくちに「欲」といっても、いろいろあります。
 仏教では「五欲」と教えられています。珍しいものが食べたい、美味しい酒が飲みたいと、飲食に力が入るのは、「食欲」です。
 金や財を、どれだけ手に入れても満たされず、他人が持っているものでも欲しくなり、キリもキワもなく、追い求めるのは、「財欲」です。
 男は女を女は男をいくつになっても求めてやまない、それは「色欲」。
 人から褒められたい、嫌われたくないと、ひと目や、世間体ばかり気にしているのは、「名誉欲」です。
 すこしでも楽したい、ヒマがあったら寝ていたい、と思うのは「睡眠欲」。
これら「五欲」に、朝から晩まで、振り回されているのが、わたくしたちの実態です。一瞬でも、この「五欲」から、離れて呼吸している時が、あるでしょうか・・・
 そして、「欲」を満たそうとして、邪魔されるとカッと腹が立つ。これが「怒り」の心です。ジワジワ怒る人もいれば、瞬間湯沸かし器のように、すぐにキレてしまう人も、いったん、腹が立つと、理性を失い、知識も教養も吹き飛んで、言ってはならないことを言い、やってはならぬことをやる。何もかも焼き尽くし、ひとりぼっちの焼け野原で、後悔している人も たくさんいます。怒りを、ぶつけられない相手には、恨み、妬み、憎む・・・みにくい「愚痴の心」が動きます。こんな「欲」「怒り」「愚痴」いっぱいな「煩悩の塊」の私のすがたを、「煩悩具足の凡夫」と、いわれるのです。
 私たちは、自惚れて、我が身知らずな状態でありますが、仏さまの眼(まなこ)から、ご覧になれば、死ぬまで悪を造り通しでおりますから、「一生造悪」とも「極重の悪人」とも、親鸞聖人は『正信偈』に、教えておられます。
 阿弥陀仏は、私たち十方衆生(すべての人)を、「煩悩具足の凡夫」「一生造悪」「極重の悪人」と見抜かれた上で、そんな私たち、十方衆生(すべての人)を相手に、約束をされている、それが「阿弥陀仏の本願」であるということです。
 「阿弥陀仏に救われる」とか「阿弥陀仏の救い」などと聞かれたこと、あるでしょう。この場合、「救われる」「救い」とは、ひとくちに「救われた」「助かった」といっても、いろいろあります。喉が カラカラに乾いて、倒れそうになっていた時に、美味しい清水を頂いたら「ああーっ 救われた!」と喜ぶでしょう。あるいは、突然、激しい腹痛に襲われ、いろいろな医師にみてもらっても、原因が分からず、死ぬのではなかろうかと思うほど苦しみ抜いていた時、知人から紹介された名医の腕によって、腹痛がコロっと、おさまったら、「ああーっ、よかった。助かった」と、感泣せずにおれません。
このように「救われた」「助けられた」といってもいろいろな場合があります。では阿弥陀仏は、わたくしたちの「何を」救ってくださるのでしょう?
 そのことについて蓮如上人は、お釈迦さま、親鸞聖人の教えられているとおり、「無明業障(むみょうごうしょう)の恐ろしき病」を治してくださるのだと、『御文』に教えておられます。
「無明業障の恐ろしき病」実は、これは、すべての人が、かかっている病です。私たちが、何を手に入れても、心の底から喜べないのは、なぜなのか。お金さえ、あれば幸せというと、そうではないことは、何十億円という宝くじの当選者が、不幸に転落している実例からも、分かります。
 有っても苦、無くても苦、それは、お金や財産だけでのことではありません。既婚者も、独身者も、それぞれに、孤独感に、さいなまれているのでは、ないでしょうか。子供が、居れば居るで苦しみ、子供が、無ければ、無いことで、悩んでいる。地位や名誉も、同様です。「楽は下にあり」とも言われるように、立場が上になればなるほど、責任を果たさねばならぬという重圧でストレスに押しつぶされそうな毎日を闘っているのではないでしょうか。毎日にようにテレビに出ているタレントや女優さんを見ると、自分も、有名になって活躍したい!と、憧れる若者も多いでしょう。しかし、有名人になったらなったで、人気が落ちてファンが離れていったら、どうしよう、若手の芸人が増えてきたな。追い抜かれないようにしなければ!などと、戦々恐々の不安な日々を過ごしている人も、少なくないようです。
 有る人は、金の鎖で無い人は鉄の鎖で、縛られているようなものです。「苦しんでいる」ということは、有る人も無い人も同じなのです。誰もが、幸せを求めながら、なぜ、本当の幸せを味わえないのか。それは「無明業障の恐ろしき病」という、心の重い病にかかっているからなのだよと、お釈迦さまは、仏典に明らかにされているのです。
「心の病」といいましても、心療内科などで診断されるような病のことではありません。
治療する精神科医も自覚なしに皆かかっている病です。今日ならば世界の70億の人々この病にかかっていない人は一人もありません。これは、仏法を聞かなければ毛頭わからない病です。
「仏教を聞く」とは、「心の精密検査を受ける」ということなのです。     おわり


法話集の一覧に戻る    トップページに戻る

源信寺について

五明山源信寺について

東京都足立区千住大川町40-6(地図

お問合せはこちらから

TEL : 03-3881-7506    FAX : 03-3881-7694

真宗大谷派 五明山 「源信寺」(北千住)