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第68号 「御内仏・御本尊・御荘厳」 中編

カテゴリー:法話集    更新日:2014 年 4 月 1 日

 【前号より】
 自分でも聞かないで死んだ人間にお経を聞け、お経を聞けと言っても聞くはずがないのです。お経は「私」が聞いて「私」が助かるということなのです。
 それがさかさまになっているでしょう?私自身もいまさかさまになっていまして、だからご門徒の方に「親父のためにお経をあげてください」と言われて「それは間違いだ。お経は親父さんにあげるものではない」などという説教はしたことないです。これは私自身がさかさまになっているということなのです。皆さんもさかさまだし、そのさかさまに気が付くということが大事なのです。
「南無阿弥陀仏」の「南無」というのは、「ああそうだった」と、自分がさかさまだったということに気が付いたときに、「南無阿弥陀仏」ととなえられるのです。
 正信偈の「帰命無量寿如来」その次が「南無不可思議光」。それはそれは大事な言葉なのですよ。
 それで「南無不可思議光」。不可思議の光に南無する。誰が?「私」がするのです。何に南無したのかというと、「不可思議光」の光にです。
 普通「不可思議」とある場合、何か不可思議なことが起こったというような、そういう場合に「不可」という言葉を使っていますが、この「不可思議光」というのはどういう言葉かと申しますと、この「思議」というのは「私の意識」ということです。「思」は思慮、人間の考え、「議」は、いろいろ協議する、会議する。「思議」するのが「不可能」だということ、これが大事なんです。「思議不可能」のものに、「光」ということ、「思議不可能を私に知らしめた光」つまり智慧です。真の働きに「南無」するということです。それが「南無不可思議光」です。
 私どもの宗旨の御本尊は「南無不可思議光」なんです。「私」がお念仏するということが阿弥陀仏、いち仏に頭が下がるという。親鸞聖人は「帰命」というふうに翻訳しておられます。「南無」という言葉が「帰命」となります。「帰命」いのちに帰る、そこに頭が下がるということです。頭を「下げた」のではなく「下がった」ということなのです。「私」が「何とか私に御利益をください」と頭を下げるのではなく、「私」が本当はさかさまになっていた、そのわが身の姿に「ああ、そうだった」と頭が下がったということ、それが「帰命」であり、「南無」なんです。
 そして「帰命無量寿」です。「無量」ということは「無限」ということです。限りないということです。「寿」というのは「寿命」のこと、「いのち」です。無量のいのちにより、ひとつのいのち、一如より来たものに頭が下がるということです。
 では「無量寿」というのはどういう言葉かと申しますと、まず「無量寿如来」のことを「阿弥陀如来」と申します。「限りなき私の思慮を超えたいのちに頭が下がった」というのです。「南無阿弥陀仏」とはそういうことなのです。いろいろなものにお願いをかけるのではないのです。
 だから親鸞聖人は元々「阿弥陀仏」には形も何もないのだ、言葉なのだと。どうしても形あるものをそこに置きたいとの思いから「帰命無量寿如来」と書いた「詞」とか、あるいは御木像とかを通して、それを超えた世界に触れていこうという、これが大事なことなのです。だからそれを御本尊にしているわけです。
 話を元に戻しますが、私どもは自分自身がさかさまになっているということになかなか気が付かないのです。さかさまになっているということを別の言葉で言いますと、「倒懸(とうけん)」と言います。さかさまに懸(か)かっているということです。ではなぜさかさまになっているということに気が付かなかったか、お盆のことを普通どう言っているかというと、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言うでしょう?
「盂蘭盆会」というのはどういう意味か、サンスクリット語で「ウランバーナ」という言葉なのです。「ウ」に「盂」、「ラン」に「蘭」、それから「バーナ」に「盆会」という字を充ててあるのです。
「ウランバーナ」を翻訳すると「倒懸」になるのです。
 お盆の始まりというのは、まだお釈迦さまのおいでの頃ですからもう2500年も昔の話ですけれども、『盂蘭盆経』という経典がありまして、これに記されています。
 お釈迦様のお弟子に目蓮尊者という方が、いろいろな修行をして神通力を得て、そして自分の母親の姿を見たら、その母親が餓鬼道に落ちていたという。そこで目蓮尊者は慌てて母親に、いろいろな食物を与えるのですが、どうしてもその餓鬼道から救うことができませんでした。それで目蓮尊者は困って、お釈迦様に相談しました。「私の母が餓鬼道に落ちているようですが、どうしたら救うことができるでしょうか」と、するとお釈迦様は「母親にご飯をいっぱいやりなさい」とはおっしゃいませんでした。目蓮尊者はびっくりしたと思うのですが……。
 インドには、やはり日本と同じように雨季があります。雨季の間、お釈迦さまの、お話を聞いている仏弟子達は、外へ出て働くことができませんから、お釈迦様のもとに集まって、お釈迦様からいろいろなお話を聞く、学習期間です。その「安居(あんごう)」が終わる日に、大勢の衆僧が、みんなそれぞれ国に帰るので、その帰る前に衆僧に対して、ご馳走してやりなさい、供養してやりなさいという、「衆僧供養」をお釈迦様から勧められたのです。そして目蓮尊者は、お釈迦様のおっしゃるとおりに衆僧を供養しました。ということは、目蓮尊者も、その安居で仏法を聞いたということです。母親がどうこうではなく、目蓮自身が、お釈迦様のお説教を聞いた、仏法を聞いたのです。そして目蓮尊者自身が、ああ、そうだったという「南無」に気が付いたのです。目蓮尊者は母親を助けようと思っていましたが、それは実は、母親が迷っていたのではなく、「私」のほうが迷っていたということに、お釈迦様のお説教を聞いて分かったのです。その時、目蓮尊者が「さかさまだった」ということに気が付いたのです。昔から、よく言うでしょう?「地獄に堕ちるときには、さかさまに落ちる」と、こう言いますが、そのことなのです。実は地獄に堕ちて、いたのは母親ではなく、「私」のほうだったということ、「さかさまに落ちていた」ということに、目蓮尊者が気付いた、それが「盂蘭盆会」なんです。
 ですから「衆僧供養」、仏法を聞いて衆僧を供養するということ、それが安居の意味であり、「盂蘭盆会」の意味なのです。それが日本にも伝わってきて、今度は衆僧ではなく、亡くなった人、死んだ人達の霊魂を家に招いて、そこにお寺様からお経をあげてもらって供養をする。例えば京都の大文字山では火を焚いて、それらの霊魂が迷わずに、帰れるように送り火をするというような、日本ではそういう風習になってしまったのです。ですから大事なのは、精霊を呼んで供養するのではなく、その前に、やはりお寺にお参りして、住職の話を聞き、「私」自身の倒懸に、気付かせていただくということで、それがお盆なのです。そして「なるほど、そうだった」ということに「私」が気付いたときに、「私」は親鸞聖人の「信心によって歓喜する」という。死んだ人間が歓喜するのではなく、「私」自身が仏法を聞き、「私」自身が、「ああ、そうだ」と言って、本当に、この世に生きているという、値打ちに気付かせていただく、それを親鸞聖人は「信心歓喜する」と言われました。信心によって「私」自身が、よかった、ありがたかったという大きな喜びの、心をいただけるというのです。その場所、「南無阿弥陀仏」と死んだ人が、お墓の中でお参りされるというのではなく、「私」自身がその前で「ありがとうございました」とお念仏を申す場所、それが「お内仏」なのです。そして「お内仏」は決して「位牌壇(いはいだん)」ではございません。 この頃は皆さん「お内仏とは何か」というとお位牌がいっぱい置いてあるところだという。それは死んだ人間に供養してあげるわけでしょう?
 そうではなくて、私どもの宗旨の教えはどこまでも、「南無阿弥陀仏」という「阿弥陀様」のお姿をそこに安置してあるわけです。そこから「南無阿弥陀仏」というお名号を「私」がいただくのです。「南無阿弥陀仏」といただいたときに、「南無阿弥陀仏」という声が戻ってくる、ですからその両脇に「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじゅっぽうむげこうにょらい)」「南無不可思議光」とありますが、あの「帰命尽十方無碍光如来」というのはこの仏法の念仏の教えをいただかれた天親菩薩(てんじんぼさつ)です。
 正信偈で「天親菩薩造論説(てんじんぼさぞうろんせ)」とありますけれども、あの天親菩薩のお言葉が「帰命尽十方無碍光如来」なんです。
 それから『浄土論』をお作りになった曇鸞大師(どんらんたいし)が「南無不可思議光」という言葉で答えられたのです。だから真ん中の阿弥陀様から「南無阿弥陀仏」の呼びかけをいただいて、「私」が「南無阿弥陀仏」とお念仏するときに、その両脇に「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」という答で応えてあげるという、そういう念仏の応答の場所が「お内仏」なのです。位牌壇ではないのです。
 最近は死後の世界を「天国」にしているのです。じゃあ天国というのは、どこにあるのか、どんなところなのか、これはみんな、それぞれ空想で話をするのですが、決して天国で、仲の悪かった人と、一緒になっているなんていうことは誰も考えません。天国へ行って、かって一緒に生活した、懐かしい人に喜んで会っていることでしょう、という。嫌いな人間は、みんなどこへというと地獄だという。自分が、かって好きだった人だけ天国にいって、仲良く暮らしている。それを「冥福を祈る」と言うのでしょう。「冥」は冥土の冥、「福」は幸せ、冥土あの世で幸せにやってください、と言ってるわけです。それじゃあの世で、どのようにすれば幸せになれるのでしょう。
 私どもの宗旨(浄土真宗)はというと、「浄土」という言葉、この頃あまり聞かれませんが、いまの若い人達に、お前は死んだらお浄土に行くのだというようなことは、誰もあまり話さないでしょう?
 親鸞聖人が私どもに教えておられる「浄土」というのは、空想の世界をおっしゃっているのではないのです。「娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期(ご)すること 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし」。ここでも「慈恩を報ずべし」報恩をしなさいと言われています。これも親鸞聖人の御和讃です。『高僧和讃』の善導讃なんですけれども、ここには「私」が、この娑婆の長い間の苦を捨てて、そして浄土無為を期することは、お釈迦様のお智慧なのだと、いつでも報恩のお勤めをしなさい、このように親鸞聖人は私どもに教えてくださったのです。
 この「娑婆永劫の苦をすてて」、ここに「娑婆」という言葉が出てきます。この世の中に生きるものの姿を、親鸞聖人は「娑婆」というふうに教えてくださったのです。この「娑婆」というのは「サーハ」というサンスクリット語なのです。翻訳すると「堪忍土」ということになります。「堪忍」というのは何かというと、ならぬ堪忍するが堪忍の堪忍で、「我慢する」ということです。ですから「堪忍しなければ生きられない、我慢しなければ生きられない世の中」という意味なのです。
 世のなかが決して自分の思うようにはいかない、どうしてもそれを我慢しなきゃならない。この頃の世相として、みんな一生懸命考えて自分の思いに行き詰まっているのですよ。あれがどうなる、これがどうなる、いろいろ考えてみると、このままではとても生きていられない、そんな苦しみをするのだったら、いっそ死んだほうがいいというように、自殺の原因は何かというと自分の思いの行き詰まりでしょう。
 先ほど言った「思議」の行き詰まりが自殺です。
 その行き詰まることを我慢するという「堪忍土」、それを「娑婆」と言うのです。この世の中というのは決して私どもの思うようにはいかない、どうしても思うようにいかないことに腹を立てる、それで親鸞聖人は「娑婆永劫の苦をすてて」と言われました。
 世の中を生きていて自分の思うようにはいかないという、その世の中を、すてて、「浄土無為を期する」という。ご浄土というのは無為な世界のことをいうのです。「浄土は無為自然の浄土」
 また、『歎異抄』の第16章の言葉
 「わがはからわざるを自然ともうすなり。これ即ち他力にてまします」。「自然」、これは「しぜん」とは読まないで「じねん」と読みます。自然科学とかそういった意味ではなく、「自ずから然らしむる」、そういう意味なのです。
 親鸞聖人は「自然」という言葉を盛んに使われています。「自」は「自ずから」、「然」は「然(しか)らしむる」を表わしていて、自ずから然らしめられた世界、それを「自然」と呼びます。 つまりご浄土というのは「わがはからわざる」――「私」が考えないことを「自然ともうすなり。これ即ち他力にてまします」という。これはですね、分かるようで分からない言葉なんです。

      次号に続く


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