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第67号 「御内仏・御本尊・御荘厳」 前編   

カテゴリー:法話集    更新日:2014 年 1 月 1 日

「御内仏・御本尊・御荘厳」について
                 西照寺前住職 北原了義師
 今年もまた源信寺様の報恩講に寄せていただきました。こうして大勢の方が報恩講にお参りになられまして、感心しているほどでございます。私どもの方では「お取り越し」と申しますが、その報恩講へのお参りがだんだん減ってきています。それは私の寺だけではなく周辺の寺にもそういう傾向がございます。私は新潟県の丁度真ん中辺にあります長岡というところにおりますが、長岡の町の中にも浄土真宗のお寺が何ヵ寺もございます。4~5年前からお西のお寺で、やはりこの報恩講に来てご法話をしてほしいという依頼を受けまして、毎年10月20日頃、そのお西のお寺の報恩講にお参りをするのです。お西の報恩講のお勤めというのはこういうものなのかと思ってお参りをして、法話については私なりにお話をしてくるわけですが、やはりお参りが非常に少なくなってきております。非常に寂しく思っていることでございます。
 お寺にはいろいろな行事がございますけれども、この報恩講にお参りして頂くということがやはり一番大事なのです。今、ご本山でも21日のお逮夜から28日の御満座まで、1週間の報恩講が勤まっております。これが一番本山にとりまして大事なことなのです。
 なぜかと申しますと、やはり私どもの宗門というものは仏法報謝で成り立っているからです。親鸞聖人の教えの恩徳を報謝するという、これによって宗門が成り立っているわけなのです。親鸞聖人自身が『御和讃』に謳っておいでになるのです。『報恩講』とは、「報恩は信心によって成り立つ」と。報恩というのはどういうことかというと、信心の表れなのだということです。
 今回は、源信寺のご住職から講題として「御内仏・御本尊・御荘厳」というちょっと変わった講題をいただきました。大変な題をいただいたなあと思ったのですけれども、その講題を説明するのではなくて、なぜご住職がこの講題を選ばれたか、その心持ちに従ってお話し出来ればと思っております。
 『御和讃』に「弥陀の名号を称えつつ信心まことに得る人は憶念の心つねにして、仏恩報ずる思いあり」と。
「弥陀の名号を称えつつ」の、南無阿弥陀仏とお念仏を申すということです。 そのお念仏を称えることがまことの信心なのだと云うことです。「その信心まことに得る人は」ご信心をいただく人には必ず「憶念の心がつねにして、仏恩を報ずる思いあり」報恩の思いが必ず出てくるのだということです。ですから信心を頂けば必ずそこに報恩ということが出てくるのだということです。もっと言ってみれば、私どもにとってその信心を頂くということが何よりも大事なのだということなのです。  信心を頂くというのはどういうことかと言うと、「弥陀の名号を称える」ということです。そのことを私どもは、しっかりと頂いていかなきゃならない、このように思うわけでございます。
 親鸞聖人の報恩講なのだ、報恩のお勤めなのだ、報恩のお勤めというのは親鸞聖人にいろいろ供養してあげる、それが報恩じゃないかと、こういうふうに受け取る向きがあると思うのですが、そうではないのです。
 また、仏事を勤めるとき、どうしても亡くなった人に対してお勤めする、それが報恩だ、功徳なのだというふうに受け取られているようでございます。ところが私どもの宗旨の教えというのは、こうしたお勤めというのは親鸞聖人の教えを聞くということなのです。
仏法聴聞という言葉をお聞きになったことはありますか? 仏法を聴聞する、仏様の教え、仏法を聴聞する、こう申しますけど、この頃はあまりお聞きになっていないと思うのです。
 聴聞というのは「聴く」「聞く」このように「きく」という言葉が2つ重ねてあります。この意味が違うのです。「聴」というのは何かということですが、たいてい普通使う言葉としては例えば「大勢の聴衆が集まった」というような場合、話を「聴く人」聴衆ですね。それからお医者さんに行って診察して頂く時、お医者さんは「聴診器」で診てくださったという、そうでしょう?だから耳で聞くこと、それが「聴」なんです。だから仏法の話を耳で一生懸命「聴く」それが第一です。
 ところがそれだけだったら仏法の話が知識として頭に入ってくるだけです。それは本当の信心にならないのです。そうではなく、仏法を聴くことによって親鸞聖人の教えがそうだったということに気が付くときに、なるほどわが身がその教えに背いていたなあということが「聞こえてくる」んです。だんだんとその教えが私に聞こえてくる、仏法を「聞いて」そして必ずそこに仏法の教えが響いてくる、「聞こえた」ということがすなわち信心なのだという、これが親鸞聖人のお言葉です。「聞即信」親鸞聖人が『教行信証』に記されたお言葉です。聞くことによって教えが、わが身に響いてきた、それが即ち信心なのだということです。どう響いたのかというと、「なるほどそうだった――南無」と頂いたとき、そこに阿弥陀様の働きの中に生かされた、このように仏法聴聞が私どものお参りする姿勢なのです。
 ところが、私自身が御門徒の方から「きょうは先祖の命日だからお経を上げてください」というご依頼を受けますと「はいはい」と言って出かけてお勤めをするわけですが、その場合,大抵は「死んだ親父の命日だから死んだ親父にお経を上げてください」と、こういう頼み方をされるんです。そうじゃないですか?今日は誰々の命日だからお経を上げてくださいと言われる、そうでしょう?自分で聞く気はないのです。死んだ人間に聞かせるという、そういうのが私たちの仏法の聞き方なのです。どうも私の脳からはそれが離れないんです。そこで私どもはお経を解読しました。「ご院さん、きょうは親父の命日なので、死んだ親父にお経を上げてください」「はいはい」と行って、それでお内仏(仏壇)の前に行って「仏説阿弥陀経 如是我聞 一時仏在」とお経を読み始めます。そのお経の最初の言葉がどういう言葉かと申しますと……「如是我聞」。「如是」というのは「このように」ということです。このように私は聞く「我聞く」ということで、私が聞いたのです。お釈迦さまのお話をこのように聞きましたという、それが「如是我聞」です。「我聞く」なんです。ところが「お経を上げてください」となると、こうなります。このように「亡者に聞かせて謳ってください」と、こうなるんです。亡者に聞かせるお経は一切ございません。これは私ども浄土真宗だけではございません。あらゆる宗旨、仏教と名の付くものの教えの中では、死んだ人間に聞かせてくださいなどというお経はひとつもないんです。「如是亡者聞」などというお経は一切ございません。どこまでも「如是我聞」です。『無量義経』のほうでは「我聞如是」となっていますけれども、必ずそこにあるのは「我聞く」なんです。「私がいただく」ということなんです。「私」がいただいて、「私」がご信心をいただいたときに、「私」が初めて喜びをいただくことができる。それを親鸞聖人は「信心歓喜」とおっしゃっています。「私」は本当の信心を頂いた時には必ず大きな喜びを得たということです。そしていま「私」がここにこうして生かされていることが初めていただけてくるとき、南無阿弥陀仏というときに「私」はそこに喜びの心を持つということです。その「私」がいまここに生まれてくるには、いろいろな因縁――父親の縁、母親の縁、祖父の縁、祖母の縁、その先の諸々のご縁があって初めてわが身がこの娑婆に生まれてきた、その「私」を成り立たせてくれた諸々のご縁に対して、「ありがとうございます」とお礼のお参りをする。それがお墓でしょう。お墓に参って、お墓の中に入っている人にお経を聞かせるのではなく、「私」がご信心をいただいたときに「私」を、こんにちあらしめてくださった諸々のご縁に対して、お墓の中に入っておられるお骨、それは諸々のご縁の証でございます。その前に行って、「ありがとうございました」とお礼を申し上げるのがお墓参りなのです。自分でも聞かないで死んだ人間にお経を聞け、お経を聞けと言っても聞くはずがないのです。そうではないですか?ちゃんと耳を持ち、脳の働きがあったときにも一度も寺参りをしたこともない親父だから、何とかお経を聞かせてやってくれと言っても、聞く耳を持たないでしょう。そうではなくて、お経を「私」が聞いて「私」が助かるということなのです。
 次号につづく


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(2015 年 4 月 22 日)