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第64号 私にとってのお寺とは 前編

カテゴリー:法話集    更新日:2013 年 4 月 1 日

「私たちにとってお寺とは」
西照寺前住職  北原了義師
 実は、「困ったな。どんなお話をすればいいのか」と思うのですけれども、これは大事なことでございます。お寺で報恩講が務まるというのは、確か昨年か一昨年の日程表の中には「報恩講法要」と書いてありました。今年の日程表によると、「報恩講」とだけ記されております。このほうがよろしいと思うのです。
 現在、私どものご本山の京都の東本願寺でも、20日から28日までの1週間報恩講が務まっております。そこでも、「報恩講法要」とは言いません。ただ、「報恩講」と言います。
 そのことから、まず考えてみていただきたいと思います。「報恩講法要」だったら、お寺でお経が、あがって亡くなられた方、あるいは親鸞聖人を供養する仏事が行われると思われるかもしれません。それを、「報恩講」となっているでしょう。「講」というのは古い言葉で、殊に仏教関係では法華八講という「講」という言葉が盛んに使われております。
 それが一般化しまして、団体で講を結んで団体参拝するときには「講中」と言います。ほかに「講」を使うのは、「講習会」。このごろは、講習会という言葉を使わずに研修会という言葉を使います。「講」というのは「講習」ですね。そこで学ぶという意味です。
 殊に真宗の場合は親鸞聖人が教えられた教えを知識として学習するのではなく、教えを聴聞する。皆さんはあまり聞かれなかったと思いますけれども、私の若いころは、お寺にお参りされるおじいさんおばあさんたちは、皆「仏法聴聞」と言っておりました。ただ法要にお参りするのではなく、仏法を聴聞する。
 「聴聞」の「聴」は耳で聞くことです。聴診器。お医者様でしょう。一般聴衆といったら、話を聞きにきた人。「聴」というのは耳で聞くという意味です。これも「聞く」ですわね。しかし、本来の意味でいうと、こちらは耳で一生懸命自分に聞くけれども、耳を通して聞いたことが響いてくる、きこえてくるというのが「聴聞」です。もっと言うと、聞こえたということはすなわち信心だと。こういうふうに。もっと言うと、信心でもこういうのをお助けだというのです。聞こえてきて、教えがわが身に響いて、私自身が救われる。
 親鸞聖人には、たくさんの著作がありますけれども、主要な著作というのは、『教行信証』という書物です。これは大変なものです。全部で6冊になっています。親鸞聖人が直接書かれたものが、いまだに残っています。元々は、浅草の報恩寺にありました。関東大震災のときに災害に遭って、表紙がちょっと焼けたのです。中は残っていました。それが、今は国宝に指定にされております。
 一カ月ほど前、京都の大谷大学で直接本物を拝見してきました。それは大変なものです。それと同時に、親鸞聖人は鎌倉時代の人でしょう。鎌倉時代のこの書物もいろいろな紙を使っているのです。今みたいに、大量に買うようなことはできなかったわけで苦労して集めて、そこに書かれたわけです。だから折ってあったところなどがあるのです。とにかく鎌倉時代の紙、いわゆる和紙に筆で書かれた文字は全然変わっていません。 
 親鸞聖人が鎌倉時代に和紙に筆で書かれたものは、ちゃんとしている。全く、質が違うのです。そういうことで、日本の和紙と墨というのはたいしたものだと改めて感じています。
 親鸞聖人が書かれた主要な著作が『教行信証』です。冒頭に、「苦悩の衆生を救済し」と書いてあります。『教行信証』の教えておられていることは仏法の教えは何かといったら、苦しんで苦悩しておる衆生を救済する。それが働きです。お寺とは何か。お寺というのは、私が救済される道を聞く場所です。それが寺です。
 このごろ、寺で仏法を聞こうというのは、私のところを見ておりますと、寺で仏法を聞くという人はちっともいないです。寺に何をしに来るかというと、お墓にはお参りに来る。私の寺は新潟ですけれども、新潟から東京のほうに来ておいでになって、東京で生活をしているけど、お墓だけは新潟にあるという方がいらっしゃいます。その方は、1年に1度のお墓参りもされません。父親のお骨と母親のお骨がお墓に収められております。年末になると、現金封筒で「寸志」と書いた志が送られてくるのです。何のことはない、墓地管理料です。私のところは墓地管理料を請求しませんので、管理料というものはありません。お寺によっては、墓地管理料として決めておかれるところがあります。それは、それぞれのお寺の都合ですけども。
 東京から私のところに送ってくるのは、お寺にお参りして住職のお話を聞こうという人はまずいません。大体、お墓にはお参りには来ています。お墓が置いてあるので、「管理料をお納めします」と。管理料とは書いてないけれども、「寸志」と書いて送ってこられます。突っ返すことは、ほとんどないので、「そうですか」といただいております。お寺というのは、墓地の管理所、管理する場所という理解しかありません。そうではなく、お寺というのは仏法聴聞の場所です。なぜ仏法を聴聞するかというと、苦悩の衆生を救済するということは、私の苦悩が救済されるということです。
 私どもはたいてい先祖を供養するというのは何で供養するかというと、「先祖は迷っておられると悪いから、先祖にお経をあげてください。先祖を助けてあげてください」と言う。「おまえは?」と聞くと、「私は迷っていません」と。先祖は迷っているのではないかと思うことが、その人の迷いです。死んだ人が迷っているのではない。「私は先祖を供養しないので、こんな病気になったと思うので、お寺さま、何とか死んだ親にお経をあげてやってください」と頼みに来るのです。それがお寺であるというふうに理解されていることが多いのですけれども、そうではないのです。「親が迷っておると思っているのは、誰が思っているのか」、「私が思っている」。それが迷い心です。
 死んだ人が迷っているのではなく、生きているあなたが今迷っているのです。その迷いが解消するならば、初めて「ああ、助かった」と。「誰が?」、「私です」。私が助かったというときに、現在ここに生かされてありがたかったという喜びが私に出てくるのです。出たときに、初めて、この私が、ここに今生かさせてもらっているのは、父親の縁、母親の縁、じいさんの縁、ばあさんの縁があればこそ、私はこの娑婆に身を置かさせてもらうことができるのです。初めて、お墓の前に行って、親に「ありがとうございました」とお礼を申し上げる場所がお墓です。
 わが身がお寺で苦悩から救済されて、初めて生きている値打ちに目覚めさせていただいて、「生きていてよかった」と自分が喜べたときに、その私をこんにちあらしめたご縁に対して「ありがとうございました」と頭が下がるのです。それが報恩のお参りです。
 報恩講では、直接には親鸞聖人の教えをいただいて、わが身が救済されて、親鸞聖人の前に「ありがとうございました」と頭が下がるのです。それが、報恩講の本来の意味でございます。
 お寺というのは、本来はそういう意味です。私自身が救済される場所。私が救済される場所といって、おまえはどういう人間かということが自分ではなかなか分からない。
 東大教授の戸塚洋二先生は科学者ですから、「生物学的に人間が死ぬというのは当たり前の話である。おれが死んだらどうなるのか。それは分からん」と言うのです。そして、夜布団に入た途端、「死んだらどうなるのか」ということが頭に出てきて、とても寝ていられなくて起き上がってしまうことがある」と。「おれが死んでも、世の中は動くのか」。
 以前、流行った「千の風」という歌がありました。ある人は、「あの歌は大嫌いである」と言いました。「死んだ人間が言っているならいいけれども、死んだ人間でなく、生きた人間が空想として話をしているだけだ。風になるとか鳥になるとか、生きている人間の空想でしかないのではないか。そんなものは死後の世界ではない。あんな歌を歌ってもらいたくない」とおっしゃっていました。「死んだ先が分からん。おれの葬式を見ることができない。一体、どんな葬式になるのか。おれ自身の葬式が分からない」。 仮にも、ノーベル賞の候補者と言われる戸塚さんにも先が見えないのです。
 それを、実は親鸞聖人の教えの中では、その姿を「無明」とおっしゃった。明かりがない。死ぬことは、結局闇ということです。真っ暗闇。先が見えないのです。それは戸塚先生だけではないのです。私どももそうです。偉そうなことをいろいろ言っているけれども、「おまえ、死んだらどうなるか」と聞かれたら、「さあね」と。「天国へ行きます」と言ったら、「天国はどこにあるのか」と。「天国なんかに行かないで、地下に眠ります」。「お墓の中に入っているのか」、「あそこには骨がるけども」。
 私どもの寺にお墓がありまして、新潟のお墓というのはみんな一緒に入れるのです。このごろは、嫁さんが「嫌だ」と言っている。「あのお母さんと一緒のところには入りたくない」と。そういう方が多くなってきました。「そうだろうな」と思う。墓の中で喧嘩していたら大変だし、地下の同じところに眠らなければならないということですが、地下で本当に眠っているのか。地下で喧嘩しているのか。
 このごろは、死後の世界は「天国」ということになってしまったけれども、天国というのは一体どこにあるのか。今の人工衛星に乗って、「あそこにありました」と言って、降りたら「いろいろ集まりました」と言ってそういう世界があるのかといったら、そういうのはどこを探してもないですね。
 仏教では、「天国」という言葉は使いません。主として、キリスト教が使う言葉ですね。いのちが終わって天国に行くまでの間、死んだことを永眠と言っているのです。永く眠る。どういうことかと言ったら、人間は死んだ後、この地上が終わるまでずっと眠り続ける。地球が破滅するときに、神様が最後の審判を下して、「おまえは、生きているときは悪いことをしたから地獄に行きなさい」、「おまえはいいことをしたから天国に行きなさい」と、そこでもって、より分けをされるのです。それまで眠り続けるのが永眠であるというのです。
 仏教では、「永眠」という言葉は使いません。このごろ、人間の死を表す言葉として永眠が当たり前になっている。永眠して天国に行くと言っているけれども、キリスト教的に理解はしないで、勝手に空想しているだけの話です。どこかに、飛んでいく。何が飛んでいくかといったら魂が飛んでいく。「魂はどこにあるのか、出してください」と。魂を出すよりないんでしょう。そのものがふわふわと飛んでいけるのか。全く、明かりが見えないのです。真っ暗闇の中にいて、そこで一人自分の大いに生き悩んでいるわけです。
 人間の苦悩というのは何かといったら、人間の自分の考えの行き詰まりです。「ああなりたい」、「こうなりたい」といろいろあるけれども、それが思うようにいかないときに「私の生活はままならん」、「苦しい」と言うのです。自分の思うようにいくと、「幸せである」と言うのです。
 幸とか不幸といっているけれども、その区別はどこにあるかといったら、自分の思うようにいったときは幸せ、思うようにいかないのは不幸せというだけの話でしかないでしょう。自分の思いでしかないのです。
 そういうわが身の姿が見えないのです。それを親鸞聖人は「無明」と教えてくださった。その「無明」という言葉を押さえておきましょう。
 親鸞聖人の言葉として、「凡夫というは、無明煩悩、我らが身に充ちみて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、めたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河(しいかにが)のたとえにあらわれたり」。 これは親鸞聖人の「一念他念文意」という文意に書かれた言葉です。私たちは凡夫だと言うでしょう。凡夫とはどういうことかといと、無明煩悩に充ちみちていると。全く明かりがない、闇の中で自分の煩悩で生きているということです。「無明煩悩が充ちみちて、だから欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、嫉むこころ多く、ひまなくして」、そっちを置きっぱなしだというのです。親鸞聖人は、約800年前に書かれた言葉だけど、今の私たちも変わっていないでしょう。800年経ったけども、ちっとも変わっていない。「われら身に充ちみちて、欲も多く」と。「私は、欲はありません」というのは嘘ですね。年を取ってくると、だんだんと欲が深くなってくるのです。自分の思うようにしたいという気持ちがだんだん強くなってきます。「娑婆が悪い」と世間になすりつけておるけれども、そうではなくて、自分の欲に目を向けないのですね。「欲も多く」、自分の欲が思いどおりにいかないと、それが怒りになってくるのです。「腹立ち、そねみ、ねたむこころ多く、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず」。いのちが絶えるまでそれが続くと、それが親鸞聖人の言葉です。途中でもってそういう悪いこころを捨ててしまいなさいとは、親鸞聖人は教えてくださらないのです。逆にいうと、親鸞聖人は「なおそうといっても、臨終の一念に至るまでなくなりはしない」と。これが800年前に私たちに教えてくださった言葉です。
 「臨終のいちねんにいたるまでとどまらず、消えず、絶えずと、水火二河のたとえにあらわたり」。絶えないということを、どうしてそういうことを言うかというと、それは水火二河のたとえ話から知ることができるということを親鸞聖人は教えてくださったのです。          つづく


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(2015 年 4 月 22 日)