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第60号 聖人750回御遠忌に出遇う

カテゴリー:法話集    更新日:2012 年 4 月 1 日

「今 いのちがあなたを生きている」  
   西照寺住職 北原了義師
 私なりに今年親鸞聖人の七百五十回忌にお会いすることを思いながら、しばらくお話をさせていただきたいと思うことでございます。
 今日、こうしてかけております袈裟、これはご本山から下付されたものです。これは、住職50年の記念袈裟です。ということは50年前、七百回御遠忌にもお会いしているわけです。それから、50年経ったのです。ところがしみじみと、このごろ、「おまえ、この50年間何をやっていたのか」という忸怩(じくじ)たる思いがいたしまして、本当にお恥ずかしい限りで、御開山聖人の七百回に遇い、また七百五十回にも遇わせていただきながら、「本当に、おまえは念仏者としてそこに立つことができるのか」と深く問われておりまして、それが七百五十回の御遠忌を迎える気持ちだと申してもよろしいかと思うことでございます。
 50年前の七百回御遠忌のときは、私は大学を卒業して住職になったばかりのころだったので、それは毎日毎日聞法活動に走り回り、おまいりになってくる方も御影堂におまいりすることはもちろんですけども、それ以上に各宿舎であったり、そのころはバスで地方からおまいりになる方よりも列車で参詣される方が多く、もちろん、バスの方もたくさん来ていました、それらの方がみんな京都の周辺の詰め所に宿泊される。そこに行って、おまいりになった人に、夜法話をするのです。それに若い住職たちが使われるのですけども、住職たちがそういった聞法活動の手助けをするために、昭和36年が七百回忌だったのですけど、昭和31年のころから宗門で伝道講習会が開かれまして、当時の先生たち、教学研究所の先生が主でございましたけれども、教えをいただいて、研修をさせられたのです。
 そこに大勢の人が集まりまして、伝道講習を終わった人たちが非常にたくさんになったのです。その人たちが御影堂の前にテントを張り、そこに一端みんな休憩で集まりますから、その人たちに向かって法話をする。同時に、そのころマイクを肩に担ぎまして、電車で、私は米原駅まで毎朝行くのです。米原駅に行きますと北陸線から、あるいは東海道線から大勢のご門徒の方たちが団体列車でおいでになるのです。その列車に乗って、米原から京都の間に、マイクを持って電車の中で法話をするのです。とにかく仏法を聞いて、念仏者になってほしい。それが御遠忌だということを1週間通してやったのです。
 今、50年前を思い返してみると、あのときは若かったからだけども、よくやったものだし、宗門全体がそういう方向で走っておったなとしみじみと感じております。50年経ってみたら、それが時代から離されてしまって、あのころの気風がもうなくなってしまった。今度は、そういうなくなってしまった状況の中で、私たちは七百五十回御遠忌をどう迎えたらいいんだろうかということを改めて感じさせられます。
 私たちがこの御遠忌をお迎えするということは、御遠忌そのものは、親鸞聖人の御遠忌ですね、亡くなられてから750年経った。ただ、親鸞聖人が鎌倉時代に偉い人だった。念仏の教えを説かれた人だった、そういう立派な人のご法事だということから、ただ親鸞聖人を讃仰するだけのものなのかというと、そうではないと思うのですね。
 御遠忌法要は何かといったら、報恩講です。これは、報恩のお務めです。恩に報いる。最初、ここでていねいな報恩講のお務めがありましたけども、最後のご和讃が、
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨をくだきても謝すべし」 親鸞聖人が、私どもに教えてくださった、親鸞聖人のお言葉です。親鸞聖人が、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」、恩に報いなさいという報恩、これが一番の眼目です。そのことから思いますと、声明の本に載っていました。ご和讃の中でも、最初のほうです。「弥陀(みだ)の名号(みょうごう)となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念(おくねん)の心(しん)つねにして 仏恩(ぶっとん)報ずるおもひあり」。(弥陀の名号:南無阿弥陀仏です)
南無阿弥陀仏を唱えつつ、その信心を誠に得る人は、いつでもそのことを、仏様のご恩を思う思いがあります。
問題ははっきりと、お念仏をして常に憶念の心に立つときに、仏恩を報ずる思いがあります。これが、報恩講にしろ、御遠忌にしろ、お迎えする基本の姿勢です。
 まず、お念仏を申すということが大変です。今日もここで私がお話しいたしますのは、何かといったら、お念仏を申す身になっていただきたい。それが御遠忌です。「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」と私自身がお念仏を申す身になってほしい。そのことを、しばらく考えてみたいと思うのです。
 仏事は何かというと、念仏をいただいた報恩講であって、念仏をすることによって、私どもは苦悩から救済されるのです。お助けにあうのです。「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と、阿弥陀様に助けていただくんだと、誰が救済されるかというと、私自身が救済されるんです。普通思っている人は、仏事というのは死んだ人を救済されると理解されている人が多いんじゃないかと思うんです。こんにちの大体の様子は、そういう状況になっていますね。「私が救われる」なんていうと、「いや、とんでもない。私は結構満足して生活していますから、まあ、死んだ人が迷わないように、死んだ人を助けてやってください」。そういう考えになっておられる。
 ほとんどが、お墓におまいりになるのです。皆さん、お墓におまいりになるとき、どう言っておまいりになりますか。親のお墓や、おじいさんおばあさんのお墓やら、ことによると子どもさんを亡くしたら子どもさんのお墓におまいりされる。そのとき、どういうふうにおまいりになります? 気持ちは? 「迷わんでください」、「地獄へ行かないでください」、「化けて出られたら、私は困ります」、「何とか、収まってください」、死んだ人が助かるようにお願いするのがお寺参りであり、お墓参りになっているのではないでしょうか。
 仏教の教えと親鸞聖人の教えは、死者供養ではございません。私自身が救われるかどうかということです。親鸞聖人は、
「親鸞におきてはただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」。 私が救われる、お念仏をして。私が救われると、初めて救われたということは、この人間として生まれてきたことの初めての喜び、「ああ、よかった」と。よく、人として今生かさせてもらっておるということが喜べる。その喜べるご縁をいただいた人が父親であり、母親であり、今お墓の中に入っておるお父さん、お母さんのお骨に「ありがとうございました」と、報恩のお礼参りをするのがお墓参りです。死んだ人が、どうこうということではないのです。私自身が、「おかげさまで、今ここに楽々と生かさせていただきました。ありがとうございました」と、お墓にお礼参りをする。それが、お墓参りの基本でございます。死者供養じゃない。死者の救済を願うのではないのです。仏教の教えは何かといったら、私自身が救われるということです。
 これを抜きにしてしまったら御遠忌を務めるかたちも、この報恩講も実はそういうことです。
 仏法は聴聞することです。教えの中にも出てまいりました。仏法を聴聞する。誰が聞くのか。私が聞くのです。死んだ人が聞くのではないのです。私が聞いて、私が助かる。そのときに、初めて親鸞聖人が拝めるのです。また、私の親が拝めるのです。「おかげさまで」。死んだ子供が拝めるのです。死んだおじいさん、おばあさんが拝めるのです。 私が仏法を聴聞することによって、そのことが成り立ってくる。それが大事です。それを抜いてしまうと、死んだ人を供養するというふうに思い込んでしまって、死者のためになってしまっている。私には関係ないと思っているけども、そうじゃないのです。
 御遠忌を迎えるに当たって私どもの宗門は、1つの方向を示してくださいました。いわゆる、御遠忌のテーマを定められました。御遠忌テーマはどういうことか。どういう言葉がテーマになったのかというと。「今、いのちがあなたを生きている」。難しいことは一つもないのですけども。常識で考えるとおかしいじゃないですか。普通考えてみると、「今、私のいのちは生きている」。これだったら、大体分かる。わしは今ここで生きているのだから。状況はよかったり悪かったりするけれども、今、私のいのちがここに生きています。こういうのが、普通の常識ですけれども、宗門が決めた今年の御遠忌のテーマは、「今、いのちがあなたを生きている」。「いのち」が、先に来ているのです。
 さあ、これは一体どういうことを教えているのでしょう? 「いのち」と言いますけども、生命とも言います。いのちそのものは、私がつくったものじゃないのです。みんな、親がつくってくれたと言う。親がつくってくれたというけども、あなたは親に頼んだのかというと、「別に、親に頼んだわけではない」。親は、「おまえなんか、生むつもりはなかった」と言われるのですね。そういう話であって、いのちというものは人間の思いでつくるものじゃないのです。
 思いのことを仏教では「有為」というのです。人間の行為が入ったもの。思いという行為が入っている。それを「有為」という。ところが、いのちそのものは有為ではなくて、「無為」になるんです。人間行為が一切入っておられない。それがいのちです。生まれた後はいろいろと人間の行為が入ってきますけど、いのちそのものは人間の思いを入れない。「もっと、頭をよく生んでもらえればよかった」、「もっと、器量よく生んでもらえればよかった」といくら思っても、そうなることはできないんです。いただいたものです、いのちというのは。
 いのちというのは、いただいたものです。いただき物です。みんなに共通しているのは、考えは一人一人違うけども、いのちそのものはみんな如来様からいただいたものです。もっというと、生きとし生けるものの、いのちはすべて一如より賜ったもの、いただいたものです。いただきものです。そのことを、私どもは全く忘れておる。世の中の愛情というものは、有為で考えたらすべてが行き詰まります。有為と無為というのはあまり聞いたことがない言葉だとお思いでしょうけども、これは去年もここでお話をしているのです。
 有為というのは、
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえてあさきゆめみし えひもせす」有為を超えて無為の世界に目を開くならば、あさきゆめもみないであんのんに生きていくことができるんです。「いろは」は、それを教えているのです。咲いたと思ったら、「何で、散るのだ?」と思っても、花は散ってしまう。一瞬一瞬、変わっていくのです。「私の思いのようにはいかない。有為を超えて無為の世界に眼を開いたら、楽々と生きていく道が開けていく」。いろは歌が教えてくださっている。有為と無為。
 ところが、親鸞聖人はいろは歌をあまり使っておられないのです。どうしたら有為の道を破って、無為の世界に眼を開くことができるかということを、いろは48文字の歌は教えてくださる。ただ、「有為を超えろ」と言うけども、親鸞聖人はこれを持ってきて、初めて有為を超える道をあきらかにされたのです。それを言葉によって教えられた。私どもにも、親鸞聖人の有為を超える道を教えていただくんです。そのときに初めて、「親鸞聖人の言葉によって救われた」というのです。報恩の気持ちが、そこで初めて生まれてくるのです。
 いのちは決して自分のつくったものではない。みんな、人生はこうありたいということをいろいろ考えています。自分の考えで、はからいで人生を考えているけど、これは全部有為で考えたことであって、いのちそのものはそれを超えて与えられた自然の働きであって、それを他力という。有為を自力という。私たちは、他力のいのちの中に今生かされておる。無為のいのちの中に生かされておる。無為、自然の浄土の力の中に生かされている。その中で、勝手に自分のはからいで地獄をつくり出しているということを、親鸞聖人が教えてくださったのです。
 そういう私が、「ああ、そうだったな」と気がついたときが、それが南無阿弥陀仏の「南無」ということです。「南無」というのは、自分の気づきです。私は「南無」という言葉を、「ああ、そうだった」という言葉に置き換えております。自分自身が「ああ、そうだった」と気がついたときに、その私が既に自分の思いを超えて、阿弥陀のいのちの中に生かされておった。「南無阿弥陀仏」といただいたときに、私は既にそこに立ち上がるべき場所が明らかに見えてくる。「南無阿弥陀仏」で助かるのです。これが救済です。私が、「南無阿弥陀仏」といただくことによって助かるんです。その道を教えてくださったのが、親鸞聖人です。
 死んだ人のために、「南無阿弥陀仏」と唱えるのではないのです。私が、「南無阿弥陀仏」といただいたときに、今、こうして生かさせてもらっておってありがたかったという思いが、そこにいただけてくる。それが、御遠忌を迎える、あるいは報恩講を迎える私どもの報恩の心になるわけです。「南無阿弥陀仏」といただいたことで、親鸞聖人に「成仏してください」と頼むのではないのです。そうではなくて、親鸞聖人に私どもが「南無阿弥陀仏」で満足していける道を教えていただいた。そこに親鸞聖人がおっしゃった、「ただねんぶつよきひと」というのは法然上人ですね、法然上人の教えをいただいて、よき人の仰せをこうむりて、
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」 ただ念仏、念仏することです。面倒なことをいろいろ考えるのではないのです。「南無阿弥陀仏」と、お念仏を申すことです。
 念仏を申すことが、私どもの救いである、救済です。決して、死んだ人が救済されるのではない。私自身が救済される。嘘だと思ったら、これから毎日お念仏を申してください。
 「われ、他力の救済を念ずるとき、世に処するの道が開く」、これが清沢満之の言葉です。お念仏をすると、私は生きていく道が開けてくる。お念仏を忘れると、私は世の中を生きていく道が閉じてしまう。これは清沢満之の亡くなられる直前の言葉です。「われ、他力の救済を念ずるときに、世に処するの道を開く」。確かに「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すときに、苦悩と平安を超えることができる。だから、別に面倒な話ではないのです。「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」            おわり


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