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第33号法話「真宗の永代経」 二回目

カテゴリー:法話集    更新日:2005 年 10 月 12 日

八田裕生師(常福寺住職)

2005年4月29日  永代経にて

讃嘆供養とは

何が本当にご先祖を敬うということになってくるのか。供養するということになってくるのか。今までお話しした供養は、やはり方向が違うのです。供養ということで、浄土真宗には七高僧と言われる、親鸞聖人が選ばれた、お念仏の教えを伝えてきてくださった大事な先輩方が7人おられます。インドに二人、中国に三人、日本に二人で、親鸞聖人は、この七人を「七高僧」ということで選ばれております。その中のお一人である、中国の善導大師という方がおられます。この方が書かれたものの中に、『五正行』というものがありまして、これは浄土往生のための五種類の修行ということです。一読誦(どくじゅ)声を出して、経典を読む。自分が読んでいる経典を、自分の耳で聞法する。聞いていくという行。
二観察(かんざつ)浄土を自分の中で憶念する。思い浮かべるという行。
三礼拝(らいはい)阿弥陀如来に合掌礼拝して敬っていくという行。
四称名(しょうみょう)名号を唱える。お念仏を申すという行。
五讃嘆供養(さんだんくよう)というものが載っております。先ほど、ご住職の資料をお読み致しました。仏法僧の三宝。食物や衣服を仏法僧の三宝に供給することが、この讃嘆供養の内容になっている。三宝に敬意を払う。三宝といいますのは、一番最初に、皆さんとご一緒にお唱えしました三帰依文の仏法僧ということです。これが三つの宝ということで表されます。五正行の中の一つである讃嘆供養が供養の内容であると、ここではっきりと親鸞聖人が選ばれた、中国の善導大師という方が言われています。
 讃嘆供養はどういうことかと言いますと、「讃嘆」という字は、どちらも「ほめる」という字です。ほめたたえる。例えば、皆さんが人をほめるとき、あるいは自分がほめられるということでもいいのですが、何もしていないのにいきなりほめられたら、皆さんはどう思われますか。「この人、何か怪しい」と思いませんか。急に、「奥さん、今日はきれいですね。ものすごい美人でびっくりしました」。ちょっと、「あれ?」 と思いますよね。そういうことで、ほめたたえるということも、ただご先祖をほめたたえるということではないのです。ほめたたえるということであれば、昔、太鼓持ちという方が居たそうです。人をほめて、ほめて、おだてて、その場を和やかにするという太鼓持ちです。供養と称して、ただほめたたえるのであれば、太鼓持ちに過ぎないわけです。
 ほめたたえる前に、ひとつ大事なことがあります。自分がほめられるときも、人をほめるときもそうですけれども、何かする、何かしてもらったときに、その人の行動に感じることがあって、始めてほめるということがあると思います。急にほめるのではなくて。何かあったことに感じて、ほめたたえる。讃嘆供養ということも、ご先祖さまのほうから何かをいただいたうえで、ほめたたえていく、お返しをしていく。これが本来の讃嘆供養と言われる、ほめたたえて供養するということの方向性です。
 今までお話ししてきた供養と言いますのは、私たちのほうから、「どうぞ、いいことが起こりますように」、「亡くなった方が成仏しますように」と、一方的にやる供養であります。これが一般的に言われている供養の内実だと思います。そうではなくて、向こうから一度いただいたことに対してお返しをしていく。「ありがとうございます。とても、私の日頃の生き方からでは得られない大切なことを教えていただきました」と言ってお返しをしていくのが、本来の供養の方向性です。一方的な供養ではなく、大事なものをいただいたことに対して、「ありがとうございます」と言って、ほめたたえ御礼申し上げるのが、本来の供養の方向性であります。いただいて返していくという、往復といいますか、感じて動くといいますか。これが本来の供養の方向性であります。
 最初にお話をしておりました供養という方向性、一方的な、私たち生きている側から亡くなった方を供養をするという方向性は、ある意味では生から死を見ていく方向性であります。生から死を見ていく方向性は、霊をなぐさめる、鎮める、封印する、清める、お祓いをするという、ある種、死に対して生きている私たちの傲慢な方向性です。ところが、仏教の方向性は、今、お話ししましたように、讃嘆供養、ほめたたえるということは、いただいたうえに返していく。生から死を見ているけれども、逆に死からも、今、生きている私たちの生の方向を見させていただく。生きている私たちは、いっぺん死んで、自分自身を見ることなどできませんけれども、生きている私たちが死を見ると同時に、亡くなった方の視点からも、生きている私たちを見てみる。こうなってくると、亡き人からの視点をいただくということで、普段考えもしない生きている私たちの「生」が、より問題となってくるのではないかと思います。
 少し前の話ですが、お通夜に行きましたところ、かなり早く会場に着きまして、納棺からご一緒させていただきました。ご遺体をお棺に移すのは、葬儀屋さんとご親族が一緒にされました。ご遺体を移すときに、葬儀屋の方がこう言われたのです。、「長い間の闘病生活、ご苦労さまでございました。どうぞ、安らかにお眠りください」とおっしゃって、ご遺族がみんなで、ご遺体をお布団ごと、お棺の中に移したのです。お棺のふたを閉めるときに、葬儀屋さんがもう一度、こう言われました。「いつまでも、ご家族の皆様を見守っていてください」と言って、お棺のふたを閉めた。私も、前からこの言葉にはちょっと違和感を持っていたのですが、このときにはっきりと、「おかしなことを言っている」と実感しました。何がおかしいかというと、「安らかにお眠りください」と、寝かしているのです。その舌の根も乾かぬうちに、今度は、「見守っていろ」と、寝た人をたたき起こしているのです。「いつまでも見ていてください」と。寝たり起こしたり。亡くなった人は大変です。 これはやはりおかしいことです。もっと言いますと、「長い間の闘病生活、ご苦労さまでございました」という言葉は、非常に亡くなった方のご苦労が分かる、いい言葉だと思ったのです。その方が病気をされて入退院を繰り返し、もちろん、その方もそうですけれども、周りのご家族の方も大変な生活をされていたということがしのばれる、いい言葉だと思ったのですけれども、「安らかにお眠りください」と言ったときに、命の現実、命の道理、命の最期の姿を私たちに見せてくださったという意味で、大切な仏さまとして扱うのですが、「安らかにお眠りください」という言葉は、やはり仏さまとしては扱っていない言葉だと思います。つまり、亡き人にかける言葉として、安らかに眠ってもらわないと困るのではないでしょうか。苦しんで寝ていてもらったら困るでしょう。安らかに起きてきてもらっても困るでしょう。安らかに眠ってもらわないと困る。誰が困るのでしょうか。生きている私たちです。出てこられたら、困るのではないですか。これは、先ほどのお話のとおりです。出てこられたら困る。だから封印したり、清めたり、お祓いをしたり、鎮めたりする。
 資料の、「法語ポスター」に「霊魂が迷っているのではない。あなたが迷っているのだ」という言葉があります。つまり、亡くなった方を供養する、鎮めるとか、お祓いをする、慰める、封印するということは、あらかじめ亡くなった人が迷った存在だという前提で、供養と称して私たち生きている者の都合を押し付けているのです。
 ところが、今、申しましたように、仏さまとして扱っているので、迷っている存在ではないのです。ところが、生きている私たちの都合によって、迷っている存在にしている。亡き人が迷っていることではなくて、生きている私たちが、亡くなった方を迷わせているということが、本当に恐ろしいことではないかと思うのです。生きている私たちの心のほうが、よほど恐ろしいことをしている。亡くなった方を、本来であれば臨終という大事なことを私たちに教えてくださった、命の先生、大先輩です。ですから仏さまです。私たちに教えを説いてくださる方を仏さまとお呼びするわけですから、そういう意味で言いますと、本当に大事なことを私たちに教えてくださった。それが亡き人であり、諸仏という存在であろうと思います。そういう方を「迷っている」として供養していくことは、生きている私たちのほうが、本当に恐ろしい心を持っていると、思わざるを得ないわけでございます。

生死(しょうじ)とは

もうひとつ、ご紹介したい言葉があります。先ほどの生死(しょうじ)の関係です。生きている私たちが、死を見ていくだけの方向ではなくて、死のほうから、今、自分が生きているということを見てみると、どうなるのか。亡き人から大事なことをいただくということがあると思います。大事なことというのは何か。これは、先ほどご紹介致しました七高僧、親鸞聖人が選ばれた高僧のお一人で、善導大師よりちょっと古い、道綽という方がおられます。この方の『安楽集』というお書き物の中に、「先に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は先を弔へ。連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」。資料には載っていない言葉です。「後に生まれた人は、先に生まれた人の教えを訪ねて、どこまでも聞いていく。そういうことを絶やすことがないようにしたい」というのがこの文章です。この中で、「後に生まれん者は先を弔へ」という表現が出てくるのです。「お弔い」という字でございます。この文章の中では、こういう字が書かれています。訪問の「訪」です。言偏に方角の「方」。どういうことかと言いますと、文字通り、訪ねていくのです。お弔いというのは、足を運んで訪ねていって、耳で聞く。これが意味らしいのです。ですから、お葬式という場所はそうだと思います。何となくご縁があったから、お焼香に行く。もちろん、それでいいのですけれども、このお弔いをするということの意味には、「自分自身で足を使って、そこまで訪ねていって、そして亡き人に大事なことを問い尋ねる」ということが、「お弔い」ということの字の意味らしいです。そうしますと、供養ということが、ただ供養するのではなくて、亡き人から大事なことをいただけなければならない。この意味からしても訪ねていって聞くぐらいですから、それほど私たちが生きている中で、大問題であったことではないかと思います。身を運んで聞いていくというのが、訪問の「訪」という字です。つまり、問い尋ねる内容は、私の方向性、これからどうやって、どこへ向かっていけばいいのですかという、ひとつの方向性を亡き人に尋ねていく。亡き人は、何も言葉を話しませんけれども、亡き人が生きてこられた状況、境遇から、声なき声を聞き取っていくというのが、本来のお弔いの内容ではないかと思います。
 亡くなった方を訪ねていって聞く内容と致しまして、もうひとつ大事なのが、命の道理を聞くということではないかと思います。命の道理といいますと、仏教では「生老病死」という言葉があります。私たちの命、いただいて生きている命、これは最初に命が生まれ、少しずつ年を取っていく。「老」ですね。老いていく。病気あるいは怪我というご縁をいただいて、死んでいくというのが、私たちの命の道理でございます。命の事実と言い換えてもいいと思います。ところが、私たちは何かがあって死ぬ。この間も、電車の大変な事故がございました。皆さんは、死の原因は何だと思われますか。普通でいったら病気ですね。この間のことで言えば、列車の事故があった。だから亡くなった。死ということを言うのですけれども、仏教では、病気や事故を死の原因としてはとらえないのです。縁としてとらえるわけです。ご縁にあって、私たちは死んでいくのです。何が死ぬ原因か。仏教で、「命はなぜ死んでいくのですか」と尋ねられますと、「命が生まれたから、死んでいくのです」という答えを致します。「死ぬ原因というのは、命が生まれたから」です。私たちが、今、命をこうしていただいて生きているということは、生まれた時点で死ぬということが決まって生まれてきます。もっというと、死ということも一緒にいただいて生まれてきている。今、ここにこうして居る最中も、生きているのですけれども、同時に、ここに居る皆さんは、一緒に死も抱えて生きているのです。必ず、死が決まっています。どんなにお金があって、権力があって、地位や名誉があっても、やはり死んでいかなければいけない命を生きているわけでございます。死なない人がいたら怖いです。「私、もう二千年も生きているのですよ」という人は、居ないのです。必ず、死んでいかなければいけない命を生きている。そういうことで言いますと、もう生まれた時点で、死をいただいて生まれてくる。原因は、生まれたところにいただく死の種です。死の種がいつ花開くかということは、それぞれの状況によって違います。例えば、植物の種を蒔いたとすると、土の中の栄養分、水のやり具合、日の当たり具合、気温の関係などで、同じようには咲きません。ちょっとずつ違って花が咲いていく。ですから、命もそうです。死の種がどこで花開くかということは、それぞれの境遇が違いますから、それとおなじように、いつどこで亡くなるか?ということは違うわけです。その中で、縁ということは、年を取って病気あるいは怪我をして死んでいく。これが、日の当たり具合、水をやったり、栄養分であったりということになってきます。つまり、境遇、縁によって、われわれは死んでいく。ただ、死の種を持っているだけでは死なないわけでございます。そこに縁が絡んでくる。電車に乗っていても、事故に遭うとは限りません。ところが、いろいろな境遇があって、たまたま、あの日、あの時間の、あの列車に乗った。これも、いろいろな背景、境遇が絡んでいます。

つづく


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(2023 年 7 月 12 日)