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第34号法話「真宗の永代経」 三回目

カテゴリー:法話集    更新日:2006 年 1 月 1 日

八田裕生師(常福寺住職)

2005年4月29日  永代経にて

私達の都合

当日、遠足だった高校生がいらっしゃったそうです。たまたま、この日に遠足があって、集合時間から逆算すれば、この時間のこの電車に乗っていくのがベストだということで、その電車に乗った。縁です、境遇です。あるいは、女性の方で、初めての海外旅行に行かれるということで、前から楽しみに計画をして、お友達と一緒にその電車にたまたま乗って事故に遭われた。因縁でいえば、その日の飛行機に乗る旅行を選び、飛行機の時間に合わせて電車に乗る。 選んだのは誰ですか。ほかの人が選んだわけではないですね。自分で決定したわけです。ですから、縁ということも運命ではないのです。たまたまということもありますけれども、結局、自分で選びとってきた事実によって、縁が成り立っています。
 私は、肩身の狭い喫煙者です。肺がんの心配があります。ところが、タバコを吸っていても肺がんにならない方はたくさんいらっしゃいます。僕が肺がんになったら、「何で、俺だけが肺がんになるのか」と思います。吸っていても肺がんにならない方も居るわけです。 それもやはり縁ですね。肺がんになるような生き方をしてきた。タバコの量、自分の体質もあるでしょう。一つ一つ、原因があるのです。がんの原因は、なかなか分からないそうでございますけれども、ものには必ず原因がある。因縁果。肺がんになるということは、なるような生活を今までずっと積み重ねてきたということによって、肺がんになっていくわけです。命の道理にしても、死ということは、生まれた時点でいただいている原因です。さまざまな、複雑に絡み合ったご縁によって、結果として死があります。全部、命の道理によって、われわれが成り立っています。死因は、病気やけがではなくて、むしろもっと前に、命の根っこが死の原因であったということを、仏教では押さえるわけです。
 先ほどのお話に戻します。自分の都合によって、亡くなった方や、あるいはご先祖を見ていきますと、迷信という言葉がありますが、そうやって亡き人を供養する、鎮めるということは、やはり自分の信心が定まっていない、ふらふらしている。ですから、迷うわけですね。
 私たちの都合によって、亡き人を見ていくと、結局、そうやって亡き人をおとしめていく。つまり、亡き人が迷っているのではなくて、私たち生きている側の心が迷っている。それを「迷信」という言葉で表します。私たちは、迷信をやめられないわけです。やめようと思ってもやめられない。ところが、やめる必要がなくて、迷信を破っていくといいますか、迷信というものは、われわれから切って取り出すわけにはいかないものです。常に、私たちに働いてくるのが迷信だと思います。ところが、その迷信を、迷信と知るということはできると思います。迷信をやめられないけれども、決して抜けないけれども、迷信であると気付いていくことは、真実の教えに尋ねて、できるわけでございます。

『正信偈』て

その迷信を、迷信と知るということが、このあと、皆さんとご一緒にお勤めをさせていただきますけれども、『正信偈』という、いつも蓮光寺の本多ご住職が、お話しすることです。「決して、迷信をやめて、正しい信に変えようということではなくて、正信ということは、迷信を迷信と気付いていく。迷信をやめる必要もないし、もちろんやめられないけれども、それに気付いていくことが、正信の生活である」。『正信偈』というのは、前半はお念仏の働きをお説きくださって、後半の部分は、先ほど申しました、親鸞聖人が選ばれた7高僧のお念仏を伝えてきた歴史をずっとほめたたえているのが、「正信偈」です。ですから、「正信」ということは迷信に惑うことなく、しっかり迷信と気付いていく生活であるのを謳ったのが、『正信偈』というものでございます。
 『正信偈』の中に、「本願名号正定業」という句があります。南無阿弥陀仏というお名前は、正しく定まった業である。今、言いました迷信ということは、正しく定まっていないわけですね。それを正定聚という人たちの位になる。これが本願のお念仏の働きである、名号の働きです。ですから、正定業ということは、迷信でふらふらしているのではなく、ぴったりと正しく定まった。迷信を迷信と知ることで、しっかりと自分の信心が定まったという人たちであり、そういう生き方をするというのが、「本願名号正定業」という言葉で、『正信偈』の中に書かれています。これは、資料の一番下です。高僧和讃の

生死の苦海ほとりなし 
  ひさしくしづめるわれらをば
   弥陀弘誓のふねのみぞ
    のせてかならずわたしける

「果てしない生死の苦海に常に沈んでいる私たちを、弥陀の本願、これはすべての命を救う慈悲、大悲の心。その船だけが海から救いとって、必ず向こう岸へ渡してくださいます」という詩です。弥陀の本願、大悲の心の働きがお念仏でございます。お念仏申すということは、その苦しみの中にしっかりと立って、向こう岸へ渡っていく。迷信を迷信として気付き、その迷信から立ち上がって、正信という生活を生きていく。迷信を迷信と知り、それがそのまま正信の生活となっていく。これがお念仏の働きではないかと思います。

「お経」とは

ここまでお話をして参りまして、永代経というご法要ですね。永代供養ではないということがお分かりいただけましたでしょうか。では、永代経は何なのかと言いますと、経といいますのは、これは前回、本多ご住職が恐らくお話をしたと思うのです。経というのは何かと言いますと、縦糸です。皆さんはご存じのとおり、反物は、横糸だけでは反物にはなりません。横糸だけでは布生地にならないわけでございまして、必ず縦糸があってそこに横糸を編んでいきます。経典もそうです。縦の糸。お釈迦様が説かれた言葉を、お弟子さんたちが忘れないようにと、後に書きとどめたのがお経でございます。お経というのは、お釈迦様の説法が書いてあります。お釈迦様の法が書いてあるということは、お釈迦様は「縁起の法」ということを悟りとして開かれました。先ほどお話ししましたご縁ということと通じます。「よって立つ」。縁起の法。物には、必ず原因があり、縁があり、結果となる。結果が原因になって展開していったり、ご縁が原因になって展開していったり、すべてが複雑に絡み合ってきている。ただ、物事の結果にかかわらず、必ず原因の種があるということを表されたのが、「縁起の法」です。縁起というのは物が存在する理由、道理を表したものでございます。われわれ人間も同じようにこの世に存在しているものですので、例外ではなく、この縁起の法によって、因縁果の法則の中に道理によって、今、こうして生きていると言ってもいいと思います。これは、われわれの生きる問題となってきているのではないかと思います。縁起の法の中に生きているということは、すべて因縁果という法則の中によって生きているので、やはりわれわれの日常生活、生きていること自体が問題ではないかと思います。
 今日、お釈迦様が説かれたことを記されたお経というのは、実は、私たちの人生の問題であります。縁起の法、経典です。私たちの人生の問題、人生の縦糸。横糸は、皆さん、それぞれいろいろな境遇があって、右往左往しながらしっかりと生きてこられていると思います。先ほど申しましたように、横糸だけでは人生という反物はできません。しっかり縦糸が入っていないと、人生にならない。その縦糸というのが経典です。お釈迦様の説法を書き留めた経典が、われわれの人生の縦糸になってきます。「経は鏡のごとし」という言葉があります。お経は鏡である。皆さん、いろいろな所で聞く言葉だと思います。経典というのは、われわれのすべてを映し出す鏡である。経典によって、私たちは自分の姿を見ることができます。
「永代経」の「経」ということは、永代にわたってご先祖という先輩たち、先達たちが伝えてきてくださった大事な、ご先祖それぞれの縦糸、経を、改めて、今ここに、生きている私たちがいただいていく。決して、亡くなった方をただ供養するのではなく、ご先祖さまがずっと伝えてきてくださった大事な経典、名もなきご先祖さまも居るでしょうし、もちろん私たちのご先祖さまもその中に入っています。
 そういうご先祖が伝えてきてくださった大事な縦糸を、今、ここに私たちが、改めていただき直すというのが、永代経法要の内容になっています。その喜びを表すのがお勤め、法要です。縦糸を残してくださって、その縦糸の内容を私たちがいただく。その喜びを表す方法として讃嘆する、ほめたたえていくというのが、法要になってきます。儀式です。
 年回法要も同じことだと思います。一番身近で亡くなった方をご縁として集まるのが年回法要でございます。三回忌、七回忌、といったような年忌法要です。 この場合も、亡くなった方をご縁として、私たちが縦糸、経、仏教の教え、仏法を聞き取っていく。訪問して聞き取っていく、弔いという言葉がありましたけれども、法要、法事の場に足を運んでいって、私たちの人生の問題である経、教えを訪ねていくのが、年回のご法要ではないかと思います。最初に、亡くなった方を仏さまと申しましたけれども、亡くなった人=仏様ということではありませんが、「諸仏」という、たくさん居る仏さまのお一人になられたと頂くことです。 皆様方のご先祖も、諸仏という存在として改めて頂き直し、いわゆる供養していく必要もないし、供養していくこちらからの方向でもない。仏さまです。いわゆる供養ではなく、いただいてほめたたえていく存在の方です。ですからこの諸仏を縁として教えに出会っていくというのが年回のご法要であります。永代経法要といいますのは、そういったかたちで、個人のご先祖ということではなく、命をつないで経を伝えてきてくださったすべての命にお返しをする、御礼を申し上げるというのが、永代経法要です。一番身近な仏さま、諸仏をご縁として、教えを聞いていくのが、それぞれの年回法要です。
 本日はつたない話ではございますけれども、永代経と永代供養ということで、お話をさせていただきました。ともすると、除災招福ということで、嫌なことが起きると、その原因が分からないとき、もしかしたらご先祖さまがどこかで迷っているのではないかという思いが、ふっとわく方もいらっしゃると思います。そういうときには、ご先祖さまが迷っているのではなく、もっと言いますと、私たちがしっかりしていない、ふらふらしているから、ご先祖さまを迷わせているということもあると思います。ひとつ、供養という方向、われわれから一方的に差し向けるのではなく、亡き人が伝えてきてくださった教えに耳を傾ける。供養ということであれば、一方的に供養をするのではなく、伝えてきてくださった教えに耳を傾けていく。これが、せめて私たちにできる、そういう意味では、本来の供養、讃嘆供養ということではないかと思います。
 長時間にわたり、失礼いたしました。以上で終わりとさせていただきます。

南無阿弥陀仏  (終了)


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