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第32号法話「真宗の永代経」 一回目

カテゴリー:法話集    更新日:2005 年 9 月 1 日

八田裕生師(常福寺住職)

2005年4月29日 永代経にて

皆様、こんにちは。本日、お話をさせていただきますのは、常福寺住職の八田と申します。よろしくお願い致します。本来ですと、いつも牡丹会法要のお話は、亀有・蓮光寺ご住職の本多先生がお話をすることになっているのですけれども、どうしてもご都合がつかないということで、急遽、私がお話をさせていただくことになりました。楽しみにしておられた方は大変残念でございますけれども、怒って帰らないで、私の話を聞いていただければと思います。
 私のお寺は、源信寺さんと同じ足立区の竹の塚にあります。六年前に住職になりまして、、先ほどお話に出ました亀有の蓮光寺のご住職や、こちらの源信寺のご住職をはじめ、いろいろな先輩方に支えられて、どうにかこうにかやっております。
 私も、この牡丹法要会には、法中と申しまして、一緒にお勤めをするお坊さんとしてお参りをさせていただいております。最近、いろいろな門徒会等で、こちら源信寺のご門徒さんの中にもだいぶ顔見知りの方が増えて参りまして、心強いことでございます。そういう中で、本日は私がお話をさせていただくとになりました。
 今日のテーマは、「真宗にとって供養とは」というお話をさせていただきます。私たちにとって、牡丹会法要は永代経法要でございます。ところが、われわれの受け止めとしては、永代供養ということがよく聞かれる言葉ではないかと思います。永代経法要が、永代供養の法要であるということで、お参りをされている方も、中にはおられるのではないかと思います。実は、永代経と永代供養のご法要は別物でございます。短い時間ではございますけれども、その辺のところを、少しお話をさせていただこうと思っています。

「永代供養とは」

「永代供養」と聞きますと、皆さんはどういうことをイメージされますか。例えば、今までのご先祖さまを全部まとめて、いっきに法要を勤めるということが、「永代供養法要」と思われている方もいらっしゃると思います。「私も年だから、この辺でご先祖さまみんなの供養をして、この後は法事等を勤めなくていいように」ということで、今後、法要をしなくてもいいように、ここでいっきに永代供養ということで法要をしてしまおうということを、世間では「永代供養」と一般的に言われることではないかと思います。その永代ということが、どこまでが永代供養と言えるのかということも問題になってくると思います。
 永代とは、どこまで永代か。私たちには、莫大な数のご先祖さまが居ります。例えば、ここに私がおりますけれども、私にはそれぞれ両親が居て、その両親には、それぞれ両親が居ます。その両親にも、それぞれ両親が居るわけです。一般的に言われる永代供養といいますと、先祖代々のご供養ですけれども、その場合、日本は家長制度がありましたので、父方のご先祖のみを「何々家、第何代当主」というかたちで、供養することが多いのではないかと思います。ところが、ご先祖という方はいっぱい居ます。十代前まで遡りますと、千二十二人ぐらいのご先祖になってきます。二十代前に遡りますと、百万人を超えてしまいます。三十代を遡りますと、十億人を超えるご先祖によって、今の私が成り立っています。皆さん、永代と言ったときに、どこまでのご先祖のことを思っておられるのでしょうか。
一部のご先祖だけ供養すれば、永代の先祖のご供養と言えるのか。たった三十代で、十億を超えるご先祖で、これが五十代六十代をさかのぼりますと数え切れないご先祖がおられるわけです。
 それこそ、本当に膨大な数のご先祖さまによって、私の命が、今、ここにこうして成り立っているということを考えますと、永代供養といっても、どこまでを供養していくのか。計り知れない数になります。供養ということが、生きている私たちから亡くなった方へ向けての供養ということに関しましては、自分の家の過去帳に載っているご先祖さまだけではとても補えない、本当にたくさんのご先祖さまによって成り立っている。永代供養でいえば、すべてのご先祖さまを供養していかないと、本当に供養したことにはならないのではないでしょうか。かといって、すべてのご先祖さまをどれだけ把握されて、どれだけ供養するお気持ちで、永代供養法要をやられるのかということも、一方ではあります。そういうかたちで、たくさんのご先祖さまを供養する。本当に、今、私たちが分かっているご先祖さまは、ほんの一握りのご先祖さましか居ません。そうなると供養が供養になっていない現実があるではないでしょうか。永代というのは、こういうかたちで、非常にたくさんのご先祖さまが居ますから、お一人一人まではとても思いが及ばない、限界があるということです。

「供養って」

「供養」のほうはどうなのか。供養といっても、昨今はいろいろな供養の種類があります。代表的なのは水子供養がありますね。針供養ということをお聞きになったことがありますか。人形を集めて供養する人形供養。ニュースでよくやりますけれども、普段、漁師さんが漁をしていますので、鰯の霊を供養するということもあります。何を持って供養と言っているのかが、問題になってくると思います。
 今、申し上げました供養も全部そうですけれども、いずれもお坊さんがお経をあげて、あるいは神主さんが祝詞をあげて、たたられないようにするというのが、供養の第一義の趣旨となってきております。よくテレビに出てきます細木数子さん、お好きな方もいらっしゃるのではないかと思います。昨年ごろからテレビにお出になって、いろいろな毒舌を言われて、面白い方だと思います。実は、この細木さんが発言されたことで、よく問い合わせをいただくようになりました。いくつかあるのですけれども、例えば、ご家庭のお仏壇の上に、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんとか、ご先祖の写真を飾る。よくある光景ですね 細木さんがおっしゃるには、「お仏壇の上に写真を飾ると、ご先祖さまから見下されているので、ご先祖さま以上に出世できない」ということをテレビで言ったそうです。早速、電話でお問い合わせをいただきまして、「住職さん、本当に写真を上に飾ってはいけないのでしょうか」と言われました。写真を飾ろうが飾るまいが、よくないことは起こるわけでございまして、いいことばかりではないというのが私たちの人生です。良い、悪いというのは、われわれの思いを超えてやってくることですから、写真を飾ったから、悪い事が起きるという因果関係ではありません。ところが、やはり心配になられる方が多い。あるいは、「お墓に家紋を入れるとよくない」とテレビで言われたそうです。これもいくつか問い合わせがありました。中には、「石屋さんに言って、削ってもらった方がいいでしょうか」という方もいらっしゃったのです。非常に、不安に陥っています。また、「お墓をお参りするときに、墓石にお水をかけてはいけないと言われた」、「ご主人を亡くされた奥さんがお墓を立てると、子孫が絶えるとテレビで言われたけれども、住職さん、これはどうですか」ということです。つまり何が言いたいかと言いますと、細木数子さんがテレビでおっしゃることを、お茶の間でご飯を食べながら見ている分は何の問題もないです。笑って見ていられる。ところが、細木数子さんがおっしゃったことが、自分で何か心当たりがあるときには、もう悪いことが自分の身に降りかかるのではないかと、血相を変えるわけです。普通に考えれば、何の根拠もないとわかることですが、自分自身が不安になってくる。言われたことに対して、自分の身に覚えがあれば、仏壇の上にお写真を飾っていたり、お墓に家紋を入れていたり、ご主人を亡くされてお墓を立てたりした方は、そういうことに対して非常に不安になります。どうしていいか分からないということで、お問い合わせをいただいたと思います。
 資料を見ていただきたいのですけれども、テーマ「真宗にとって供養とは」の下に書いてございます。ちょっと読ませていただきます。
 「宗教のかたちで言えば、供養ほど私たちの身近なものはないでしょう。法事、法要にお墓参り、先祖供養に水子供養、更には針供養に人形供養。全部ひっくるめて、「供養」という名で、私たちの宗教的行為が語られています。それだけはなく、若い人たちまでもが、テレビの影響なのでしょうか、心霊写真などと称した霊のたたりに恐怖して、「供養してもらわないと」と、思わず口に出す今日このごろの状態です。一体全体、供養とは何でしょうか。もともと、供養とは食物や衣服を仏法僧の三宝に供給することを意味しています。決して、亡くなった人から祟られたりすることがないようにと願って供養するなどということはないのです。それがいつの間にか、供養が祟りと災いから自分の身を守るための道具にされてきたのです。それは、私たち自身が仏教を利用して、自分の欲望を満足させようとしてきた結果であります。供養は仏さまの大いなる世界を、私がいただいたことの表現です。それが、死者を供養しないと私が祟られる、私に災いが起こる。だから、供養しなければならないと、供養が自分の欲望を満足させる道具になっていることが問題なのです。そうではなく、供養とは、仏法僧の三宝として表されている現実の世界に対してなされるものです。
本当に尊敬されるべき世界、本当に大切にされるべき世界を見いだすことです。それは、自分を中心にして生きている者が、自他平等の命を現す仏さまの世界に、われも人も、共に生きることができる世界を見いだすことです。その感動が、供養の形を取るのです」。   同朋大学教授 尾畑文正
 ここで先生が言われているのは、「供養ということが、自分の欲望を満足させる道具になって居ないか」。言い換えますと、つまり供養が「取引」になっているということではないかと思います。「除災紹福」と言いまして、災いを除き、福を招く。「鬼は外、福は内」の世界でございます。どういうことかと言いますと、ご先祖さまに祟られないようにするためには、供養する。供養すれば、祟られない。つまり、「供養する代わりに祟らないでください」といって取引関係になってしまっているのが、現状の、「供養」という言葉ではないかと思うのです。そういう意味では、われわれの欲望からすれば、自分自身の生活が順風満帆で何も悪いことがなく、いいことがどんどんやってくれば素晴らしい人生ですね。ところが、現実の人生は、そうそう素晴らしいことばかりではありません。お釈迦様も、「人生は楽より、苦悩の方がより多い」とおっしゃっておられます。私の思いを超えて、良い悪いはやってくる。決して、何をしたから悪くなるということではないと思います。つまり、私たちの欲望ですね。何か悪いことがないように、いいことを招き入れるためには供養しないといいことがやってこないから、供養というのは、先祖の祟りをそこでチャラにしたいという話です。私たちの生活に何か悪いことが起きる。その原因がどこにあるか分からないから、起こった悪いことはご先祖のせいにして、ご先祖の供養をするということでチャラにできるのではないかというのが、今、現在、言われている「供養」ということの内実ではないでしょうか。供養ということで、どこまで行っても私たちの欲望によってでしか、亡くなった方を見ていないという、われわれ生きている側の現実もあるのではないかと思います。
 先ほどから、ご先祖の供養と申し上げておりますけれども、決してご先祖を供養することがいけないと申し上げているわけではありません。ご先祖を供養するということは、大変美しい姿でありますし、当然するべきものだと思います。ところが、美しいとか、当然であるということで、実は、供養の内実が見えにくくなっているということも、事実ではないかと思います。結局、美しい心、供養するのは当然であるという心が、自分の都合以外の何ものでもなかった。自分の生活にいいことばかりが起こるようにという都合です。自分の勝手、都合。この都合の心でしかなかった。結局、自分の都合であれば、それは迷信につながってくるわけです。「迷信」といいますのは、迷った信心ですから、今の自分がぴたっと収まっていないということです。ふらふらしているのを、迷信といいます。ここで、ご本の文章を紹介させていただきます。先祖供養といいますのは、言い換えれば先祖崇拝といいますか、ご先祖さまをあがめ、拝んでいく。ご紹介する文章は、ご先祖さまが残した遺産を崇拝するというお話です。池田勇諦先生と言いまして、私ども真宗大谷派の東京二組というブロックがありまして、京都東本願寺に上山致しまして、九月に研修会が二泊三日であります。そこに講師としてお呼びする先生です。その先生のご本の中から、「遺産を崇拝する」というところを読ませていただきます。ここに出ている方は、「先祖を大切にする気持ちを失ったら、もう人間ではないと思います」と最初に言われた言葉を、池田先生がその場に居てお聞きして、そのやりとりのお話です。
 「その方が、あまり先祖、先祖と言われるので、私は聞いたのです」、池田先生がその方にお聞きしたということです。「あなたにお聞きしますけれども、あなたはどうしてそこまでご先祖を大切に敬うと強調なさるのですか」とお聞きしましたら、その人は黙り込んでしまって、しばらくしてから、「私らはそんな難しいことは分からないのですけれども、自分の生活実感として言わせてもらいますが」と前置きをして、「別に自慢するのではないけれども、自分たちは御殿のような家で、毎日生活をさせてもらっています。文化生活を謳歌して、結構な生活をしておりますが、それは別に私が額に汗してこしらえた家ではありません。先祖伝来の田んぼに道路がかかって」、地方の方です。「どうでも売らなければならないということになって、手放しました。そうしたら大金が入りました。どうするか。家でも建てるかというわけで、先祖伝来の田んぼが家に化けたのです。ご先祖が知らないような結構な生活を送らせてもらっているので、本当に先祖のご恩を忘れたらバチが当たる。だから、私は先祖を敬う心だけは失ってはいけない。ご住職さんにも来てもらって、お経も読んでもらい、お墓参りも年に何遍かしています」と言われたそうです。大変、率直で本当のことを言われるので、聞いていてこちらもうずうずしてくるのです。「そうですか、あなたの気持ちはよく分かりました。それではちょっとお尋ねします。お宅のご先祖は、本当に素晴らしい方ですね。子孫がそういう結構な生活ができるように遺産を伝えてくださっている。もしも、お宅のご先祖がこういう結構な目に遭う財産を何も残さなくて、ないばかりでなくて、借金やら無理難題をいっぱい残して死んでいかれて、そのためにあなた方が毎日四苦八苦して、苦労しなくてはならないような境遇だったら、あなたは今のように、先祖を敬うと言われるでしょうか」。こういうことをお話しされたのです。こう聞いたら、ご先祖を敬っているという方が、反射的にこう答えたそうです。「それなら、恨むやろうね」。これが、生きている私たちの本音といいますか、私たちの心の根っこではないかと思います。つまり、ご先祖を大切にする、供養すると言いますけれども、その根っこは自分の都合といいますか、計算する心ですね。いいことを残してくれたご先祖には感謝し供養する。悪いことを残していったご先祖には愚痴をこぼす。その心でご先祖さまを見るということがあって、先祖供養、ご先祖さまを供養する、ということを言っているのではないかと思います。

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