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第56号 報恩講

カテゴリー:法話集    更新日:2011 年 4 月 1 日

 報恩講ということは、報恩のお勤めだということですけれども、そこに講と書いてあります。普通私どもがお寺にお参りしたり、お墓にお参りしたりするときは、講なんていう事はいいません。だいたい供養会(くようえ)とかいいますが。今日お寺に行っておやじのご法事を勤めた、供養をして来たと言いますが、ところがこの報恩講は報恩供養会ではないのですね。この講というのは講義を聴くとか、いわゆる亡くなった人を供養するための集まりではない、どこまでも私自身が法を聞いていくということ。私自身が親鸞聖人の教えを聞いて、ああ、そうだった、と私自身が念仏を申す身になった、初めてわが身がこの世に生かさせてもらっているありがたさを気付かせてもらう。
 そして、お墓にお参りをするときは供養のためにお参りをするのでなくて、私自身が念仏の教えにあって念仏させていただく、親鸞聖人の言葉で「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と。私自身がお助けにあったときに、初めて南無阿弥陀仏と、私自身がこの娑婆に生まれさせて頂いた喜びがいただけるわけです。その喜びでお墓にお参りするときに、わたしの父親のお墓、母親のお墓、お爺さんお婆さんのお墓の前に、皆さまのおかげでご縁があってこの娑婆に生まれさせて頂いて念仏を申す身にさせていただきました、ありがとうございましたと、報恩のお参りをする、それがお墓参りです。
 ところが私どもは普通、お墓参りというのは供養のためのお墓参りを考えている。では、なぜ供養するのかというと、わが身の災いを除くために供養すると、それが仏法ではなかろうか、それでお墓にお経をあげてほしい。お経というのは、死んだ人に聞かせるものだというふうに、どうも思い込んでしまっているようです。
 お経というのはお釈迦様が私どもに悟りの内容を説いてくださった、それが記されておるものです。ですからお経の一番最初の言葉は「如是我聞(にょうぜいがもん)」という言葉で始まっております。
 「如是」というのはこのようにという意味です。「我聞」このように我聞く、私はお釈迦様のお話をこのように私が聞きます。お経を読んで私がその教えを聞くのです。そしてそれを私が聴聞する、「聴」というのは耳で聞くことです。そこに聞という言葉が付いている、仏法聴聞の聞という言葉、これは聞こえたという事です。それでお経を私はこのように聴くことによって、私に聞こえた、それで親鸞聖人のお言葉では、「聞即信」、このように教えられた。聞こえたということは、すなわち、ご信心が聞こえたという事、私どもの宗旨で申しますと、「南無阿弥陀仏」と念仏をこういう声が私にいただけた、それがご聴聞です。
 だからそのことを聴くのが、実は、この報恩講の講という意味ですね。だから報恩供養会ではなくて、どこまでも私自身が仏法の教えを聴聞していくとい 報恩講ということは、報恩のお勤めだということですけれども、そこに講と書いてあります。普通私どもがお寺にお参りしたり、お墓にお参りしたりするときは、講なんていう事はいいません。だいたい供養会(くようえ)とかいいますが。今日お寺に行っておやじのご法事を勤めた、供養をして来たと言いますが、ところがこの報恩講は報恩供養会ではないのですね。この講というのは講義を聴くとか、いわゆる亡くなった人を供養するための集まりではない、どこまでも私自身が法を聞いていくということ。私自身が親鸞聖人の教えを聞いて、ああ、そうだった、と私自身が念仏を申す身になった、初めてわが身がこの世に生かさせてもらっているありがたさを気付かせてもらう。
 そして、お墓にお参りをするときは供養のためにお参りをするのでなくて、私自身が念仏の教えにあって念仏させていただく、親鸞聖人の言葉で「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と。私自身がお助けにあったときに、初めて南無阿弥陀仏と、私自身がこの娑婆に生まれさせて頂いた喜びがいただけるわけです。その喜びでお墓にお参りするときに、わたしの父親のお墓、母親のお墓、お爺さんお婆さんのお墓の前に、皆さまのおかげでご縁があってこの娑婆に生まれさせて頂いて念仏を申す身にさせていただきました、ありがとうございましたと、報恩のお参りをする、それがお墓参りです。
 ところが私どもは普通、お墓参りというのは供養のためのお墓参りを考えている。では、なぜ供養するのかというと、わが身の災いを除くために供養すると、それが仏法ではなかろうか、それでお墓にお経をあげてほしい。お経というのは、死んだ人に聞かせるものだというふうに、どうも思い込んでしまっているようです。
 お経というのはお釈迦様が私どもに悟りの内容を説いてくださった、それが記されておるものです。ですからお経の一番最初の言葉は「如是我聞(にょうぜいがもん)」という言葉で始まっております。
 「如是」というのはこのようにという意味です。「我聞」このように我聞く、私はお釈迦様のお話をこのように私が聞きます。お経を読んで私がその教えを聞くのです。そしてそれを私が聴聞する、「聴」というのは耳で聞くことです。そこに聞という言葉が付いている、仏法聴聞の聞という言葉、これは聞こえたという事です。それでお経を私はこのように聴くことによって、私に聞こえた、それで親鸞聖人のお言葉では、「聞即信」、このように教えられた。聞こえたということは、すなわち、ご信心が聞こえたという事、私どもの宗旨で申しますと、「南無阿弥陀仏」と念仏をこういう声が私にいただけた、それがご聴聞です。
 だからそのことを聴くのが、実は、この報恩講の講という意味ですね。だから報恩供養会ではなくて、どこまでも私自身が仏法の教えを聴聞していくとい初めて私が聴くことによって、仏法僧の三宝が成就する。
 来年の春に京都のご本山で親鸞聖人の七百五十回御遠忌法要がおこなわれることになります。源信寺さんからも京都までお参りになるようですけれども、亡くなられて750年たたれた方ですけれども、その教えがいまだに私どもが聴くことによって、私自身がなるほど、ご開山、親鸞聖人のおっしゃるとおりだったと、こう頂けていく、私の体の中に、教えが生きて働く。そういう今、私どものご縁にあっているわけなのですが、その親鸞聖人が人間の迷いにあったものが、迷いを覚ますことによって初めて生きていく力が生まれてくるんだということを、おっしゃった。
「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」
 これは、『歎異抄』という、この『歎異抄』というのは親鸞聖人が教えを聴いた唯円という方が、親鸞聖人が亡くなった折に、親鸞聖人の教えは、みんな間違った聞き方をしている、私唯円は、このように親鸞聖人から教えを聴聞いたしました。
「ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを嘆き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって、故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。」といって記したものです。この耳の底に残る、私の心に残っているとはいわないのです、ただ聴いたそのままを記したのだといわれている。その『歎異抄』の最後のところに出て参りますのが、「聖人の常におうせには」親鸞聖人が常々おっしゃっておったことは、
「弥陀の五劫思惟の願を、よくよくあんずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり、されば、束縛の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」、
「弥陀の五劫思惟の願」、阿弥陀さまの御本願念仏を申せという教えです。「されば束縛の業」とは、たくさんの宿業を抱え込んでいる。「ご本願」とは、南無阿弥陀仏は、そういう迷っておる苦悩しておる私を助けようとされた本願なのだと、そして、決して死んだ人間のために説かれたものでもなければ、人のために説かれたのではなくて、私自身が頂くために説かれた教えである。こういうふうに親鸞聖人自身がおっしゃっています。 
 蓮如上人の「白骨の文」には「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり」
 私は何で生まれてきたのだと言われたら、どう言いますか、初めは何で、出発点で私自身、何でこの世に生まれてきたかというと、まったく見えないでしょう。終わり、必ず一度は死にます、死んだらどうなるのだ、あの世へ行く、あの世ってどこなんだ。この頃はよくテレビや、放送関係の方が言われていることを聞いていると、死後の世界は天国という、天国って、いったいどこにあるんだ? 空の彼方。そんなところへ私どもは、飛んでいくのか、いや、そうじゃない、草葉の陰、草葉の陰に居るのか、どうもあいまいです。キリスト教の教えの中に天国とありますけれども、どうもキリスト教のおっしゃっている天国じゃない。死後の世界のことをこのごろは天国、天国、天の国とは。この間、日本が飛ばした、小さな惑星までいって7年もかかって帰ってきた、あそこは天国じゃない、返ってこられますから。そうすると、天国はもっと先か、わけがわからいでしょう、御文を読むと。始まりも分からないし、終わりも分からない、蓮如聖人はさらにもっと、中もわからんと、こういうのですね。みんな私たちは分かりきっているようなことをいっているけれども、お互いの連れ合いの腹の底、自分の子どもの腹の底、みたことないです。一体何を考えているのか、それなら現在でも、私どもは自分の思いで見ているけれども、思いを越えた事実そのものは見えていない。だから蓮如聖人がいう、始中終、幻のごとくなる一期、一生涯だと、こういっておられるのです。


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(2023 年 7 月 12 日)