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第55号 「生老病死」て

カテゴリー:法話集    更新日:2011 年 1 月 1 日

お釈迦様の教えである、私たちには四つの苦(生老病死)を持って生きていかなければならないとの、話を進めていきたいと思います。
 さて、ご門徒の皆様に「御法話を聞いてみませんか?」と、声をかけると、「忙しい」「具合が悪い」と言う方が非常に多いのに驚きます。「仕事が忙しい」「勉強が忙しい」「家事が忙しい」「遊びが忙しい」みんな忙しく、世間中が てんてこまいしている今日この頃です。自分自身を忘れ去り、刻々に起きる一般社会の状況に流され無我夢中の内に一生を終えてしまうのではもったいないことです。このような生き方なら、仮に、百年生きたとしても、生まれたと同時に死んだのと、どこが異なるのでしょうか。私が生きる、という「私」が何者であるか、判らなければ、人生の目的を本当に生きたとは言えないのではないかと思います。 私たちは「自分のことは、自分が一番よく知っている」と思っていますが、本当でしょうか?
 実は最も分からないのが、「私」なのではないでしょうか?
「無くて七癖」という言葉があります。クセが無いと思われる人にも、七つぐらいはあるそうです。他人のクセや欠点は、いくらでもあげられますが、「では、あなたの欠点は?」と聞かれると、なかなか出てきません。しばらく考えた挙句、「しいていえば、よく笑うことかな?」と、長所らしきものをあげられます。こんな話があります。盗賊仲間が大勢集まって、山中で宴会を開いていました。もちろん、そこにあるのは、盗品でないものは、なに一つありません。その中に金盃が一箇あり、当然仲間と金杯でお酒の廻し飲みしていましたが、やがて宴たけなわとなった頃、金盃が見えなくなっておりました。すると、頭領が腹を立て、「どうも怪しからぬ。今まであった金盃が、ないとあっては、この中に泥棒がいるに違いない!」といったそうです。盗人の親分が、己が盗人であることを忘れている様に、私達は自己を見失ってはいないでしょうか。源信僧都がおしゃっておられます。「よもすがら、仏の道を求むれば、わがこころにぞ、たずね入りぬる」 仏教の第一歩は、今の「自分自身を見つめる」ことを出発点とするところから始まります。
「私」とは、如何なるものか。
これがわからないと、私は 一体なんのために生まれてきたのか、なんのために生きているのか、苦しくとも、なぜ生きねばならないのか、という、最も大事な人生の目的も、わかりません。「私」を知ることが極めて大事なのですが、非常に分からないのが「私」であります。私たちの眼は、いろいろなものを見ることができますが、あまりに遠いものや、近すぎるものは見ることができません。「一生に一度、他人の顔を見るように鏡の中ではなく、自分の顔を見てみたい」などと思うこともありますが、これは不可能なことです。顔や肉体は「私」でしょうか。一度皆さま考えて見てください。頭のてっぺんから、つま先まで私ですと考えると、床屋で髪を切ってもらうと、髪と生き別れすることになるでしょう。髪は私ではなく、私の持ち物です。では、手は、私でしょうか。これも私の持ち物です。私ではありません。医学では、さまざまな臓器の移植が行なれてるのは皆様ご存知だと思いますが、今話題の人工細胞で、人工の腕や足、皮膚や血管も開発されていますし、今後、いろいろな臓器が作られるようになるかもしれません。身体のあらゆる部分が、移植が出来き、人工のもので置き換えることができるようになるかもしれません。そうなったら、私は、一体、どこへ行くのでしょうか?
 私たちは、都合でころころ変わる他人の言葉や、自惚れ一杯の心で、自己を見ているときは、「他人よりも善人だろう」と思っています。
 お釈迦様は、私たちの真実の姿を述べておられます。
「心常念悪(しんじょうねんあく)、 口常言悪(くじょうごんあく)、身常行悪(しんじょうぎょうあく)、曽無一善(ぞうむいちぜん)」
「心は常に悪を念じ、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、かつて一善も無し」と読みます。
 仏教では私たちを、「心」と「口」と「身(からだ)」の三方面から眺め、その中で、心を最も重要視しています。日常生活でも、心が重んじられる場面によく出会います。「ネクタイが曲がっていますよ」と言われれば、素直になおせますが、「根性が曲がってますよ」と言われると、「ああそうですか、有難うございます」とは、なかなか言えません。ネクタイが曲がっているのも、根性が曲がっているのも、同じようなものですが、後者のほうが傷つくのは、人格を侮辱(ぶしょく)された、と思うからでしょうね。外にあらわれる体や口の行いよりも、見えない心が大事にされるのは、なぜでしょうか。体や口の行いは、心の指示によるからです。心が命じないことを、体や口が勝手に行ったり、言ったりすることはないでしょう。体が悪いことをしたのは、心が命じたからであり、責任は心にあるのです。口が悪いことを言ったならば、責任は、言わせた心にあるのではないでしょうか。あらゆる悪い行為の根元であり、悪い考えを起こすのは、「心」です。ですから、自己の真実とは、「心の真実」が問われているのです。
 その心について、お釈迦様は、「心常念悪」と仰せですね。
 心は常に悪を念じている、と仰っていますが、どんな悪を念じ続けているのでしょうか。
 仏教では、悪の源を、煩悩と教えられています。「煩」は、わずらわせる、「悩」は、悩ませる、ということです。煩悩の中でも、貪欲、瞋恚(しんに)、愚痴は、とりわけ我々を悩ませる三つの毒です。
「貪欲」は、底の知れない欲の心のことです。なければないで欲しい、あればあるでもっと欲しい、と人間の欲にはキリがありません。金が欲しい、ものが欲しい、誉められたい、認められたい、もっともっとという限りない欲に、私たちは、どれだけ恐ろしいことを思い続けていることでしょう。遺産相続で、兄弟や親戚どうし、骨肉相食む争いは、この欲の心が引き起こす惨劇です。
「瞋恚」とは怒りの炎です。「怒」という字は、心の上に奴と書きます。あいつのせいで、儲け損なった、こいつのせいで、恥かかせられたと、怒りの心が燃え上がります。炎に燃え上がったときの心は、教養も、学問も焼き払い、前後を見失い、怒りの衝動のままに動きます。仏教では、「殺すよりも、劣らぬものは、思う罪」といわれ、口や体で犯す罪よりも、心で思う罪のほうが、最も恐ろしいといわれます。
「愚痴」とは、「愚」は、おろか、という字であり、「痴」も、知恵が病気にかかっている因果の道理が判らぬ馬鹿な心を言います。
自身の蒔いたタネを忘れて、不幸や災難という結果が返ってきて驚き、「こんなはずではなかった」と不平を言い、世の中を呪い、ネタミとウラミで何度でも同じことを繰り返しているから、感謝することを知りません。相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、そねみ、相手の不幸をよろこぶ悪魔の心が出てきます。災難にあって苦しんでいる人に、「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤリとする、恐ろしい心のことです。立派に成功したのも、貧乏が続くのも、みな自業自得なのですが、その因果の道理がわからないから、自分がこんな不幸なのは、あいつのせいだ、こいつのせいだ、夫のせい、妻のせい、親が悪い、子供が悪い、上司が悪い、部下が悪い、会社が悪い、はては、社会が悪い、世の中が悪いと、とんでもないところに原因を求めます。これらの、欲、怒り、愚痴の心を持っているのが人間の本当の姿なのだと思います。
この様な私たちに、法然上人(親鸞聖人の御師)は
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」とのべられ、
これは、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀如来に帰依します」という意味の言葉であります。「帰依します」とは本願に帰るということです。私が自発的に言う言葉ではなく、阿弥陀如来が「我が名(南無阿弥陀仏)」の中に含めて下さっている。そして、「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」とは、救いの真理そのもの(法)であります。「帰依します(南無)」という心と、「必ず救う(阿弥陀仏)」という真理がそなわった「南無阿弥陀仏」を称えることは、そのまま救いが成就し、如来からのよび声と聞くことなのです。


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