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第47号法話「聞法にめざめる」

カテゴリー:法話集    更新日:2009 年 1 月 1 日

會谷順雄(源信寺住職) 永代法要にて
     2008年4月29日

浄土真宗は、「お念仏をしなさい」とよく言われます。なぜ、「お念仏をしなさい」と言うのでしょうか。念仏を申すということは、ふと感じたとき、「私はまた世間体に悩まされて生きている」と気が付かせてくださることが、「念仏を申す」ということだと思うのです。そこが一番大事なことだと思うのです。「南無阿弥陀仏は、私が帰る場所ですよ」。
 庄松さんが言われたとおり、「阿弥陀様のご慈悲によって私たちは生かされている。南無阿弥陀仏を唱えることによって、私はそこへ帰っていく」ということを教えてもらっているということで話されるわけですから、「昔も今も、浄土というのは私たちの故郷ですよ」ということだと思うのです。
 皆さん方もそうだと思うのです。故郷を持っているほど、いいものはない。皆さん方が旅行に行かれて、帰る場所があるからこそ旅行が楽しいのではないですか。帰ってきて、「ああ、よかった」と思えるから、行ってきた旅行が非常に楽しく感じるようになるのではないでしょうか。それが大事なことだと思うのです。
 私たちが、いのちを終えたあとの故郷といったらどこかと言ったら、ご浄土でしょう。南無阿弥陀仏が唱えられるご浄土に帰れると思えば、そこが、「私の故郷だな」と思えるかどうかが一番大事なことだと思うのです。
 南無阿弥陀仏というのは、たった六文字です。お寺さんに来られれば、お寺さんの住職が法事などでいつも「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と言っているけれども、「何だろう?」ということがよくあるのではないでしょうか。私が法事で話したと思うし、昨年も話したと思うのですが。「南無阿弥陀仏」と声を出して唱えられる方は非常に少ないでしょう。「南無阿弥陀仏」と声を出すというのは、大変な努力が必要です。「所はばからず」です。それも一つの妙好人なのです。
 うちの檀家の中にも熱心な方がおられます。私自身が伺って顔を見せるだけで「なんまんだぶつ」と唱えるのです。「私は、阿弥陀様ではないのに」と思うけれども、「なんまんだぶつ」「なんまんだぶつ」と言うのです。そういう言葉を聞くと、私自身もはっと気が付かされて、「うれしいことだな」。二人で「なんまんだぶつ」と自然に言っているのです。皆さん、そういう光景を、眼に浮かべてみてください。できるものではないですよ。先ほどから言っているように、「南無阿弥陀仏」というのは、仏様の知恵の言葉です。それを蓮如上人さんは、「聞法は六字のいわれを聞くことです」と言われています。
 本堂に集まって聞法する、聞法の勘所は「南無阿弥陀仏」のいわれを聞くこと。仏様をよりどころにするということは、「あなたは何をよりどころにしているのですか」ということを聞いていくということでしょう。それが「南無阿弥陀仏」です。簡単に言えば、ご先祖に対しての感謝の気持ち、それが「南無阿弥陀仏」です。ご先祖があればこそ、私自身がここにいられるのです。そのご先祖がいる私たちも、将来に必ず行く場所が「南無阿弥陀仏」のところでしょう。そう思えるかどうかです。そういうふうに思えれば、「南無阿弥陀仏」という言葉も答えられるのではないでしょうか。それが私たちの帰る故郷ではないでしょうか。そのように思えるかどうかです。
 ところが、私たちは何かにつけて自分の思いどおりにしたいのでしょう。私もそうです。一番思いどおりにしたいところは、夫婦喧嘩がそうです。奥さんと旦那さんの喧嘩。自分の思いどおりに奥さんをしたいから、文句を言うのでしょう。ところが、奥さんは一生懸命やっているから、奥さんも言われると怒るのでしょう。両方で怒り合うのです。「私がこんなにやっているのに、あんたは分かってくれない」、「そんなことを言ったって、俺の思うとおりにおまえはやっていないだろう」となるのです。それが夫婦喧嘩ではないですか。
 「夫婦喧嘩は犬も食わず」という言葉がありますね。そんなところに他人が入ろうものなら、大変なことになってしまうのです。夫婦喧嘩をやっているときは知らん顔をしているのが一番いいのです。それが愛情の表現になるときもあります。何とも言えません。夫婦喧嘩は一番簡単ですね。そういうことだと思うのです。奥さんを自分の思いどおりにしたい。奥さんは奥さんで、旦那を自分の思いどおりにしたい。お茶の上げ下げ、お菓子の出し入れ、ご飯の出し入れについても文句を言いたくなるということでしょう。
 今日こられているご門徒さんも、ご夫婦でおられる方も、だんだん少なくなっているのではないかと思うのです。お一人になられると、今になって気が付くのではないでしょうか。「いればよかったな」と思われるのが、今日このごろでしょう。夫婦というのはそういうものです。いればいたで嫌だし、片方がいなくなると、「いてくれればよかった」と思うのが夫婦です。
 ご主人が先に亡くなっていれば、ご主人が阿弥陀様のところに行っていると思えるから、皆さんはお参りに来るのではないかと思っているのです。「自分もあとから行きますから」と。
 最近は、「うちの人と、一緒のお墓に入りたくない」という方もおられます。「あんな人とは絶対入りたくない。住職、どうしましょう?」と相談にされても、答えようがないのです。死んでからも夫婦喧嘩をしてもしょうがないと思うのです。そういう方が非常に増えてきているのです。笑いごとではないのです。私も笑いごとですましたいと思うのですけれども、これは自我の世界です。相手のありがたみも分からず。
 気にしないでくださいね。どんなひどい旦那であっても、いろいろなことを教えてくれたのでしょう。
 だから一緒にいたのでしょう。そういうことではないですか。どんなに手が掛かる旦那であろうが一緒にいたということは、一緒にいたことによって、「自分もいろいろ勉強させてもらった」と思えるかどうかです。 私たちは、今度はそれを自分たちの後に残る者に教えなければいけない。今は、それをやらない。ここにおられる方も、息子さんたちと一緒に生活されている方が半分ぐらいではないでしょうか。
 昨日か一昨日の読売新聞に載っていました。「家族の絆を大事にします」というのが、今は37%です。家族の絆がそんなに薄れてしまったら、もう個人個人でしょう。自分のお子さんたちに誰が教えるのですか。 誰も教えてくれる人がいなければ、自己流に走るしかないでしょう。それが正しいと思いこんでいるから。自分の生き方が正しいということになります。誰も注意をするわけでもない。
 先日、娘から聞いたのですが、会社の同僚が、ため口を使うと言うのです。上司であろうが、お得意さんであろうが、ため口を使う。「その話し方やめた方がいいはよ?」、「なんで」「それため口とゆうの」「ほんと、でも、誰も教えてくれない」。そうなるのです。私たちはそれなりの年を取っていれば、後に残る者に何かしら残していかなければいけないのではないかと思うのです。そこが一番大事なのではないでしょうか。ところが、自分が嫌われ者になりたくないから、目をつぶってしまうということでしょう。
 お子さんに向かって「あの子は、あの子の人生」と思えば、何も言えないのではないでしょうか。その家の家風が、今はほとんどなくなっています。昔でしたら、「うちは、うちのやり方があるよ」と、お父さんやお母さんから教わってきたと思うのです。今はほとんどないですよね。「家風」という言葉は、今は死語になっています。
 日本人は、戦後の平等精神の使い過ぎですね。昨日、テレビでやっていました。他国から、「日本人は平和過ぎる。平和ボケしている」と言われています。ほかの国の方からこんなことを言われればいいなと思うけれども、反対に言えば、「アホかいな」と言われているのと同じでしょう。だから私たち自身、お年寄りが、がんばってやっていかない限り、時代は変わらないですよ。時代を変えようと思うのだったら、私たちが少しでもいいから教えることだと思うのです。皆さん方も、その辺をちょっと気付いてもらえればありがたいと思います。
 もうひとつ、例え話があります。「不自由と不幸は違う」言葉で言われると、すぐに気が付くでしょう。今の日本人ならこういう考え方が成り立ってくると思います。私の友人に目が見えない方がおられます。その方に質問をしたことがあるのです。「あなた、目が見えたら最初に何を見たいですか」。その方が私に向かって、「目が見えたら、いっぺんお母さんの顔が見たい。でも」、この後に「でも」が続くのです。「でも、見えたら、あれも見たい、これも見たいということになって、気が散ってしまうね」。私たち、目が見えている者は、あれもこれもみんな見えているのです。それに気が散っているのです。そういうことと同じでしょう? 目の見えない人からそんなことを言われるとは思わなかった。
 最後に、「見えなくても、別にどういうこともないよ。不自由と不幸は違うよ」と言われたのです。この方は僕が言った質問に対して、感じていたのでしょうね。「目が見えないということは、不幸である」という思いが、私の心の中にあるのです。それをずばり言われたのです。「不自由と不幸は違う」。その言葉を聞いたときに、「失礼な質問をした」と感じさせてもらったのです。非常にいい言葉を教えてもらったと思うのです。
 私たちは頭の中で事実や解釈、評価を一瞬の間にやっているでしょう。事実は「目が見えない」ということでしょう。解釈は「不自由である」。評価は、「不幸である」と、頭で感じているのです。「目の見えない人は不自由で、不幸である」。ところが、目が見えない方は一瞬でも思っていないということです。
 ここが一番大事なことではないでしょうか。この言葉の中で私自身が一番気付かせてくれたのは、「不自由と不幸は違う」ということと同時に、「見えなくても、別にどうっていうことはない。見えたって、あなたは私と同じように目が見えないことと同じでしょう」と言われているのと同じです。「私にとって目が見えるということは自由で幸せだと思うかもしれないけれども、あちこちを見え過ぎてしまって、何も見えないのと同じです」ということでしょう。
そういうことを感じられた方は、非常にたくさんおられるのではないかと感じさせてもらっているのです。皆さんもいかがでしょうか。
 阿弥陀経の中に出てくる経文と同じです。「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉が出てきます。「青い色は青く光り、黄色い色は黄色く光り、赤い色は赤く光り、白い色は白く光る」という言葉が、お経の中に出てくるのです。「そのように、あなた方は見ていますか」ということです。「役に立つか立たないかということだけで判断してしまっている。全部光を失っているのが私たちではないですか」ということだと思うのです。
 私の身の上に起こっている一つ一つの人生を、どのように感じられるのかということだと思うのです。その一つ一つを、感じさせてくれるのが聞法です。先ほども言ったように、そういう話を一つ一つ聞いたときに、「そうだった」、「そうだよね」と自分がうなずいたとき、それが聞法でしょう。そして、念仏を申すということが同じことではないでしょうか。
 私は、わが思いという先入観を絶対視して、それによって人と人が争いを起こし、人を傷付けていることを、私たちは気付いていないのですね。皆さん方も自分の自我のお洋服を1枚、1枚脱げるかどうかです。この自我というのは大変奥深いものです。私たち自身もそうです。しかし、その自我に気付いたときに、「いけなかった」と思えたときが悟ったことではないでしょうか。
 皆さん方も自我を感じながら、世間体という言葉に悩まされながら、これからも生きなければいけないのです。その言葉を使うときに、何を感じられるかどうか。皆さん方もそのように感じてもらえればありがたいと思います。

ありがとうございました。


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