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第46号法話「聞法にめざめる」

カテゴリー:法話集    更新日:2008 年 10 月 1 日

會谷順雄(源信寺住職) 永代法要にて
       2008年4月29日

昨年に続いて今回も私の法話ということで、一年が経つのは、早いものですね。ご門徒の皆様方のお顔も随分顔なじみになりましたね。昨年に続き、話したいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 昨年皆様方にお話ししたことを、思い出して下さい。昨年は「目覚める」についてお話ししたと思います。
 仏陀=「目覚めた人」という話。
何に目覚めたのかということを話ししました。
仏の智慧、法に目覚めた人、ということでお話ししたと思うのです。仏陀というのはお釈迦様の名前ではなく、法に目覚めた方ということです。そして、「念仏というのはどういうものか」と云うことを皆さんにお伝えしたと思います。
 それは仏様の智慧を拠りどころにして、私たちが「念仏を申す」ということでございます。私たちは、いつも自分たちの拠りどころをどこに求めているのかというのが多々あると思うのです。仏の言われる念仏に、拠りどころを求められるということは少ないと思います。皆さんもそうでしょう。私もそうですけれども、私たちにとって拠りどころにされているのは、自分の「我」に拠りどころを求めているのではないでしょうか。その「我」に気が付いてもらえれば一番ありがたいと思うわけです。
 自分の「我」に気が付かれたのが親鸞聖人です。法然上人のところに行かれて、南無阿弥陀仏の教えを聞いて、仏さまの「まなこ」を親鸞聖人もまた受け止められたのです。南無阿弥陀仏に出会われたということが親鸞聖人さんと私たちのちょっと違うところです。私たちは「南無阿弥陀仏」という言葉を知っているけれども、その言葉自体だけで、何を求めているかということをなかなか気付かないのです。それを親鸞聖人は気付かれて、私たちに、いろいろなことを教えてくださっています。また、私たちは、お話をそのまま聞くということではなく、勉強することではなく、自分の「我」で聞いてしまって、何も答えを出せないということが私たちではないかと思うわけです。
 真宗においては、よく皆さん方に私も話をするのですが。「聞法をしなさい」と言います。お他宗さんでは、「お説教」という言葉を使いますね。浄土真宗では聞法、法を聞くということですね。「聞法をしなさいよ」というのが、今言われた、「よりどころを自分に求めなさい。そして、よりどころを探しなさい」ということで、「聞法をしなさい」と言われるのです。浄土真宗のお坊さん方、どこのお寺さんに行かれても大体ご法話をされます。ご法事やお葬式というときに、お話をします。そのお話が法話です、これを聞くのが聞法です。
 法話というのは、大体1時間近くお話しするのですが。そういうふうな長い時間を法事やお通夜の席で話せるわけではないですから、短い話をして、私たちにいろいろなことを、お話しをし、皆さん方に「気が付いてくださいよ」とお話しするのが法話です。そういうことをして、皆さん方と一緒になって、自分たちのよりどころを見つけていくのが一番大事なことです。
 私たちが、「聞法をしなさい」と言われてもまだ気が付かない。いろいろないいお話を聞くけれども、自分のまなこを全部ふさいでしまっている、聞き耳持たずということですね。それが往々にして多いのでしょう。だから、「繰り返し、繰り返し、聞法をしなさい」。
 うちのご門徒さんの中にも、今日、司会をされている渡辺さんや、最後に閉会のあいさつをする長谷川さんもやはりそうだったのです。聞法をやっていくと癖になるのです。なぜかというと、自分の心の痛いところを突かれるからです。それが目覚めるということです。今までは、自分が痛いところを突かれても何も感じなかった。ただ、他人から話されるとむかっとするだけで、そのほかは聞き流してしまうというのが多いのです。
 聞法、教えに沿った話をされると、「ああ、そうだったな」と気が付かされるのです。そうなると、のめり込んでいくのです。お話を聞くのが大好きになっていくのです。それが身に付く、付かないの話ではないのです。聞いていると、「あっ」と気が付かされる気持ちが非常にうれしくなるのです。
 いろいろな先生が話されますけれども、お話自体はそれほど変わった話はしていません。基本は同じことを話しているのです。いろいろな枝葉が付くから違った話に聞こえるのです。けれども、そこが私たちにとって一番ありがたいことです。
 私自身もこうやって皆さんの前でお話しするということは、最初のころはしなかったです。住職になりたてのころは、お話をするということがなかなかできなかったのです。なぜか。やはり自分の自我の中にあるからです。「私の話なんか、してもしょうがない」、「しても、聞いてくれない」というのが本音です。
 自分で、自分を判断してしまうのです。ところが、自分が本当の自分の気持ちで話したならば、聞いてくれる方がいっぱいおられるということを聞法会に行って気付かせてもらったのです。
 蓮光寺の本多御住職さんが源信寺に来寺され、永代法要を始めた頃、御法話をして頂きましたが。最初は自坊でしか御法話をしなかったのです。私が知っている範囲では私が住職になった頃から、いろいろなお寺さんに行って法話すようになった記憶があります。彼も話せば話すほど楽しくなるし、また勉強もするし、そして皆さん方の顔を見ながら話すというのが大変うれしくなるのです。
 先日も、本多御住職さんが私に言ったのです。「源信寺さん、最近話すのが楽しいみたいで、私たちを呼んでくれないね」。蓮光寺さんは、年4回程、いろいろな講師を呼ばれて聞法会をされています。非常に多くの方が聴聞にみえられます。お年寄りから若い方まで、ほとんど来られています。先ほど言ったように、お話を聞く楽しさが分かったから来られるのだと思うのです。このお話を聞法として聞くか、お説教として聞くかの違いがありますが。
 お説教として聞いたならば、私自身も、「あんな話を聞いたってしょうがない」になるのです。皆さんもそうではないかと思います。真宗なりのお話を聞いて初めて、「ああ、私と同じ思いを住職もしているのだ」と、気が付かれるかどうかだと思います。その辺のことを気が付いていただければ、ありがたいと思うのです。
 皆さん方は、「どういうことでお寺に来られるのですか」と質問をすると、今日、ここにお見えになられている方もそうですけれども、大体は「お寺にお墓があるから。お墓参りかたがた、来るのです」というのが、非常に多いのではないでしょうか。お寺というのは、お墓参りに来るところだけではないのです。
 ある方が、「お寺というのは、私が私に生まれた意味を聞いていく場所である」と言われたことがあるのです。「私が、私に生まれた意味を聞く」ということです。「私たちは、ただ生まれてきているだけではないのです」ということだと思うのです。「お文」の中にも出てきます。

この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり

「生まれてから死ぬまで、いっさい何も分からないで、無我夢中で生きているのではないですか」という言葉が出てくるのです。それと同じで、私たちは今生きていること自体の意味を感じていますかということだと思います。世間体、常識などに惑わされて、常識が全部正しいことであると思いながら生きているというのが、私たちではないでしょうか。その常識というのは誰が作っているのですか。間違った常識であっても、それが常識であれば皆さんはそのとおりにするのではないでしょうか。それと同じことだと思うのです。その中で、皆さん方がよく使う言葉です。私もよく使います。「世間体」という言葉を使いませんか。この言葉は常識とまったく同じです。
 こういう話があります。あるご門徒さんのおじいさんのところで、お嫁さんがおじいさんに向かって、「孫に自転車を買ってやらないと、世間体が悪いです」と言われたときに、皆さんはどうしますか。私も孫がいます。娘からそう言われると、「分かった、分かった。自転車を買ってあげりゃいいんだろう」と言って、反対に喜びながら買うのではないですか。でも、そこのおじいさんはこういったのです。「ここに世間体を持っていらっしゃい」。お嫁さんは、「そんなのはあるわけがないでしょう」。「だって、今、あなたは『世間体が悪い』と言ったではないか」。
 どういう意味だと思いますか。この世間体というのは、自分が作った自我の世界ではないですか。どこにもあるはずがないのです。そういうことだと思うのですよね。「世間体なんて常識でしょう」、「世間一般的なことでしょう」と言われるけれども、世間一般的なことというのは各自各自が行っている自我の中に成り立っているのでしょう。「その自我を早く取りなさい」ということだと思うのです。
 今の言葉を聞いたときに、私自身初めは気が付かなかったのです。でもしばらくして言葉を聞き直してみた途端に、「この方は教えにのっとって、目覚めた人だな」と気が付かせてもらえているのは私自身です。使う、使わないではないのです。教えにのっとったものを探し出すということも、私たちは必要なのではないでしょうか。
 自分の知恵だけで世間体を作ってしまう、一番使いやすい言葉です。確かに言われると、言われたほうも気が付かずに、「はい、はい」ということではないでしょうか。そういう言葉に私たちは振り回されて、一生を生きているのではないですか。そういうことが目覚めていない、自分でまなこをふさいでしまって、その教えにのっとって生きていないということを気が付いてくださいということだと思うのです。
 もうひとつ、例えて話すと、皆さん「妙好人(みょうこうにん)」という言葉をご存じですか。浄土真宗では、この「妙好人」とゆう言葉をよく使うのです。阿弥陀様のご慈悲を喜び、お念仏を申す人を「妙好人」と呼ぶのです。妙好人の本がいっぱい出ています。私も買ってあるのですけれども、何処にしまってしまったのかずっと探しているのですけれども見つからないので、今日はお見せできないですいません。
 その中の一人に、讃岐の庄松さんという方がおられました。江戸の末期から明治初めにかけて、生きた方です。その人の、いろいろなエピソードがあります。その中の一つに、こういうエピソードがあるのです。ある年、何人かのご同行の人と本山にお参りに行き、その帰りに船で播磨灘辺りに来たときに強い風が吹いて、木の葉のように船が揺れた。そうしたら、乗っている人々は、あわてふためいたというのです。
 ところが庄松さんは、どんなに揺れようが高いびきで寝ていたというのです。ご同行の人たちがびっくりして、庄松さんを起こしにいき、目が覚めた庄松さんは、「ここはまだ娑婆かいな?」。と言ったそうです。これはどういう意味でしょうね?
 この言葉は、「如来様が必ず救ってやるぞ。この如来に任せておけよ」ということです。「娑婆の縁尽きたところがどこであっても、ご浄土ですよ」ということを表しているのです。目を覚まされたときに、ご浄土に行っているかもしれない。そこで起こされたら「ああ、ご浄土かい?」と言われるけど、起きた途端に、「まだ、娑婆かいな?」ということは、「何もそんなに慌てることはないだろう。死ぬときは死ぬ。生きるときは生きる」。そういうことではないですかということを、庄松さんがお話になられているのです。
 こうやって、阿弥陀様のありがたさを感じている人を「妙好人」と。私たちはお呼びするのです。例え話も、聞法会でよく出ます。それほど阿弥陀様を信頼しているということでしょう。そして、自分のありのままの生き方をしているということだと思うのです。そのように、なれるかどうかです。
 こういう話を聞いていると、「うん、うん」と気が付かれるのではないかと思うのです。聞法というのは私たち自身、私自身の事実が明らかにされるということだと思うのです。今のような気持ちになれるかどうかということが、ふと自分の心に残れば、「ああ、そうかな」と思うし、「そんなことを言っても」と思えば、まだ心に残らないということだと思うのです。
 聞法会に来られて、私に次のように言われるご門徒さんが多いのです。「住職、お寺を一歩出ると、みんな忘れてしまうのです」と言う方がいます。けれども、一回聞いたら忘れる。私自身だって、忘れてしまうのは当たり前のことです。何回も何回も聞いているうちに、「あの方も同じことを話している」と思うと、だんだん分かってきているということでしょう。
 「あの方は、あの人と似たようなことを話しているな」ということは、どこかに残っているということでしょう。そういうことだと思うのです。一回で覚えられれば一番いいのでしょうけれども、そうそう覚えられるものではないし、気が付くものでもない。そういうことだと思うのです。

次回に続く


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(2023 年 7 月 12 日)