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第44号法話「お念仏を申す」

カテゴリー:法話集    更新日:2008 年 4 月 1 日

北原了義師(西照寺住職) 報恩講にて
        2007年11月23日

「お経」は誰に
本日はご当山の報恩講にお招きいただきまして、これからしばらくお話をさせていただきたいと思います。
 こちらに寄せていただくようになってから、今日で三回目ぐらいになろうかと思います。東京のど真ん中で、ご開山聖人の報恩講が勤まるということは、大変大事なことでございます。これだけ大勢の方がお越しになっていることは、大変うれしく思うとともに、大変ありがたいことだと思います。と申しますのは、私ども真宗のご門徒さんは、まず自らが仏法を聴聞する。これに尽きるわけでございます。 聴聞するのは何かというと、わが身自身が救済される、お助けに合うということである。わが身がお念仏を申す。そのことをおいて、ほかに人間の生きる道はないということをいただいていく。それが、真宗門徒のお参りの姿でございます。
 ところが今日は、そのことが非常に疎まれていると申していいと思うのです。私ども自分自身がお助けに合うということは考えていない。逆に、私は寺で住職をしておりますと、ご門徒の方がお参りになります。お参りになって、私に願われることは、「お経をあげていただきたい」と言われる。住職のお仕事は何ですかと言われると、お経をあげるのがお仕事です。誰に、お経をあげるのか。亡くなった方に対して、お経をあげていただくというのが、寺の勤めであるというふうに理解されているようでございます。
 今年の夏を過ぎたころ、ご門徒のお一人が、私に「何日にお経をあげていただきたい」という電話が参りました。「お経をあげるというのは、何ですか」と聞いたら、「いや、お経をあげていただきたいのです」。「何のお経をあげるのですか」、「とにかくお経をあげていただきたい」と申しました。
 二~三年前に父親が亡くなっていますので、「お父さんの年忌法事を勤められるのですか」と聞くと、何の返事もないのです。「ご法事をお勤めになるのでしょう?」、「いや、お経をあげていただきたい」という返事でした。「分かりました」と言ってお受けしたのですけれども、ご法事をお勤めするということも分からない。寺の仕事、お参りしてお勤めすることは、亡くなった人へお経をあげる。私には関係ありませんという気持ちが非常に強いように思われます。亡くなった方にお経を聞かせてあげる。そのときは電話ですけれども、お経というのは死んだ人に聞かせるためではない。私どもがよりどころにしております浄土真宗のお経は、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経という浄土三部経と言われます。そのお経は、「如是我聞」という言葉で始まるのです。「如是」というのは、かくのごとく、このように。「我」というのは、われわれという意味、「聞」は聞く。「あるとき、お釈迦様のお説教を、私はこのようにお聞きいたしました」というのが、お経の最初の言葉です。
 そこに出てくるのは、「私が聞きました」ということです。「お釈迦様が、亡くなった人に聞かされました」であったら、「如是亡者聞」です。「亡くなった人に、このようにお説きになりました」だったら、死んだ人に聞かせるためにお説きになったということになりましょうけれども、お経はそうではない。「私がこのようにお聞きしました」という、「如是我聞」。仏法というのは、あくまで私が聞いてくるのです。
 このごろは、亡くなった人に対する道具に、お経を読んでくださいというふうな意味合いに取られている傾向が非常に強いのです。この門徒さんだけではないのです。恐らく、この中でもそのように思っておられる方もたくさんおいでになると思います。現代では、そういうようなかたちになってしまった。「そうでなかった」ということに気が付いていただくことが、ここでお話を聞いていただく一番大事な事柄です。
 私は二十日に東京に参りまして、町田に行ってきました。町田のメモリアルパークという大きな墓地がございます。私の高等学校からの同級生が、東京の大学の教授を長いことやっており、私と同年ですからもう定年退職して、現在は名誉教授して、さらにほかの女子大学の教授を勤めておりました。もう七十歳になりました。子どもがたった一人。この一人っ子も父親と同じになったのです。一生懸命勉強して、宇都宮のほうの大学の助教授になりました。
 三年ほど前の十一月三日の文化の日に、自分の車を運転して、宇都宮の交差点で赤信号なので停車していたときに後ろからトレーラーが突っ込んできて、交通事故に遭いました。潰れた車の中から何とか助け出しましたが、もう意識はありませんでした。大学病院に連れて行きましたけれども、大学の病院では、「いくらあなたが大学の名誉教授であっても、治療の見込みのない方を入院させるわけにはいきません」と断られてしまったのです。それで町田の近くの病院に入院させて、一月半ばに臓器不全症で亡くなりました。そのとき私のところに電話が来まして、「お葬式を出してほしい」ということでした。私は町田まで参り、お葬式を執り行いました。
 いろいろ話をしていると、そういった事態に遭ったのですから、どうにも娘が亡くなったということを認められないのです。どんなにいい頭の、いい理性で考えても、娘が死んだということをちっとも認められない。お葬式を済ませて、その後にお骨を拾い出しまして、中陰壇を設けておきました。その後も何回か手紙をいただいたりしておりまして、気持ちを聞いておりました。
 やがて、一周忌のご法事を勤められる。ご法事を勤めた後も、娘の死をまだ認めるわけにはいかない。「きっとどこかで生きていて、私と家内と娘の三人でこれからも日暮らしをしていきます」と。死んだということを否定してしまう。「まだ生きている」といいうふうに言うのです。
 いつもお骨に向かって、いろいろと話しかけている。三回忌も済みましたが、お骨はそのままにしておきました。やがて町田にお墓をつくって、今月の二十日に納骨をしました。丸三年が経ってから、ようやく納骨をしました。私に「来てくれ」ということで、町田のお墓に行きました。ご親類の人も来ており、そこでお骨を納めました。
 形は別にどうこうということはなく、お骨を納め、その前で私がお勤めをして、みんながご焼香をしました。終わってからお斉きで一杯ごちそうになって帰ってきました。
 お話をしていると、亡くなった人を供養するのです。自分自身が仏法を聞こうという姿勢はないのです。先ほど言ったように、「死んだ人にお経をあげてやってほしい」ということです。そういう気持ちでやっておられる。死者供養のための教えになってしまっている。
 これは今、例に挙げた校長先生と大学の先生という、立派な先生だけではないのです。みんながそういう気持ちを持っている。それが現代人なのです。結局、現代人というのは、私どもの人間の理性を立場にして日暮らしをしているのです。

「分別」って

私も処中である。朝、顔を洗って、本堂のお勤めを終わって、みんなで一緒に朝食を取る。「家族はみんな仲良く、円満にしなければならないな」と思いながら食事をして、食事が終わって、出かけなければと思っていると、私が置いたと思った財布が見当たらない。途端に、「俺の財布をどこにやった?」と怒鳴りつける。さっきまで、「みんな仲良く、円満にしましょう」と思っていたものが、自分の捜し物がなくなった途端に大声を張り上げて、たちまちのうちにそれが修羅場になってしまう。理性的に考えたら、「どこかに置いたのだから、もう一度探しなさい」と腹が立つ必要がないけれども、現実には理知・理性では効かないものがある。お互いにわーっとなってきますでしょう。
 いわゆるキレルということです。それも理性的にキレルのではないのです。キレルというのは、人間は理性だけでは生きられないということを証明しているのです。
 この間、本屋さんを見ていましたら、『女はなぜ突然怒り出すのか?』という本がありました。しかし、女性だけではないですよね。みんなが理性的に考えていたけれども、自分の思うようにいかないことになると、たちまち爆発してしまう、キレテしまう。
 みんなが理性的な生活ができれば、何もあんな修羅場になる必要はないのです。理知・理性のもとになっているのは、人間の分別です。私らはみんな、自分の分別の中に閉じこもっているのです。「ふんべつ」とはあまり読まないですね。一般的にはゴミの「ぶんべつ」と言いますね。もっというと、生きる人間の理性は全部分別です。「物事を分別して、生活しなさい」と、子どものころから言われてきました。「理性にきちんと考えて、生活しなさい」ということです。
 如来様の知恵というのは何か。分別を越えるということです。私どもは分別の中に居て。分別から一歩も出ていない。このごろの世相を見ていますと、このことが余計感じられます。非常に凄惨な事件が非常に多いですね。例えば母親が自分の子どもを殺したり、自分の兄弟を殺したり、新聞やニュースを聞いたり見たりしすると、毎日、毎日、次から次へと、「ここでも殺人だった」と。その殺人も、他人ではないのです。自分の身内を殺したりする。
 昨年の暮れから今年のお正月にかけて、新潟の中央高校を卒業して、東京の大学を卒業した人が結婚して生活していたが、自分の主人を殺して、のこぎりをひいて、体は新宿あたりに捨て、頭は町田の公園に捨てたという。この間、町田に言ったものですから、「そんな事件があったのだ」という話をしたら、「なかなかいい公園だ」ということでした。自分の夫を殺すわけですね。しかもそれをのこぎりでひいて、頭と体を別々に捨ててくるということでした。かっては考えられなかったことです。
 秋田で自分の子どもを殺して、川に放り込んだという事件。母親が自分の娘を殺すのです。それを隠すためか、お隣の男の子まで殺してしまった。自分の分別が行き詰まると、すぐにキレテしまう。
 私も人生そのもの、人のいのち、いのちそのままは行き詰まりがないのです。ところが、「人生に行き詰まって、自らいのちを絶つ」というようなことが、よく新聞に出ていますでしょう。学校で悲惨ないじめがあって、いじめられた子どもが「人生に行き詰まって、私は、これ以上生きていくことができません」と遺書を書いて死んでいったと、新聞に書かれていました。
 「これ以上、生きていくことができません」という分別したわけです。自分で考えて、いのちを絶ってしまうわけです。考えが行き詰まったのです。この一言を、今日は覚えていただきたいのです。「人生に行き詰まりはないのです」。人生に行き詰まりはなくて、分別に行き詰まりがある。そのことに気が付いてほしいと思います。
 仏法の教えを簡単にいうと、わが身の分別に気が付くのです。分別から一歩も出られないわが身の姿に、気が付くということが大事なのです。いのちは、私の思いを超えているのです。私どもは、「いのちを大切に」と言うのです。
 今年の7月ごろに、幾つかの事件が続きました。それは、女子高生が高校のトイレで赤ちゃんを産み落として、殺してしまった。たまたま、そのときにその学校の先生と一緒になりまして、「大変だったね」と言うと、「それは大変でした」と、頭を抱え込んでいました。自分が妊娠して、「どうしよう?」、「どうしよう?」と一生懸命考えたのです。親にも言えない、友達にも言えない。分別に全く行き詰まって、自分の分別ではどうしようもないということで、トイレで産み落として、殺してしまった。
 哀れというか。だから分別の行き詰まりに気付くということは、大事なことです。もっと言うと、わが身の分別の行き詰まりに、「そうだった」と気付くのが、仏教でいう救済です。「お助け」というのは、それだけでは尽きないのですけれども、分かりやすくお話しすると、そういうことです。やはり我に立っていたのでしょう。親には言えない、友達にも言えない。言ってもいいというか、言うほかないでしょう。「どうしよう?」ということを。
 そうしたら、そこで幾らでも答えは出てくるわけでしょう。しかし、「そんなことをしたら恥ずかしい」、「親に叱られたらどうなるのか」、「友達に、『そんなことをした』って、笑われる」、「こんな恥ずかしい思いをしたくない」。そういう人間の分別に行き詰まってしまうわけです。このごろ犯罪の面にあるものはみんな分別の行き詰まりです。新聞に、「いのちの重さ」という見出しで、特集の記事が載っていました。

次回につづく


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