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第43号法話「念仏申す」

カテゴリー:法話集    更新日:2008 年 1 月 1 日

會谷順雄(源信寺住職) 永代経にて
       2007年4月29日

Buddha=仏陀、インドの言葉で「ブッダハ」と言います。そして中国語の言葉に変えると、「仏陀」になるんです。これの意味は何かというと、「目覚めた人」というんです。では、何に目覚めたのか?「智慧」に目覚めたんです。「智慧」イコール私たちで言えば「教え」です。要は、これが分かると、仏教は合格です。
 じゃあ、この話をもっと分かりやすく話すと、先ほど総代さんがお話しされてましたけれども、「念仏」という言葉は良く使いますよね。この「念仏」の「念」て、「拠り処にする」ということなんです。ですから「念ずる」というのは、心に重く、堅く思うということですよね。ですからこの「智慧」というのは、「念じて拠り処にする」ということです。
 だから「念仏」、「ぶつ」というのはこれは「ほとけ(如来)」ですから。「ほとけが念ずる」でしょ?だからこれを言葉を換えると、「仏様が智慧を拠り処にする」ということが「念仏」ということなんです。念仏念仏というのは、私たちが「仏様に対して拠り処にしていますよ」ということを言うということになるわけですよね。
 ところが私たちは念仏ではなしに、私たちが拠り処としているのは「自我」なんですよ。「智慧」じゃないんですよ。自分の我を拠り処にして生きているでしょう?だからこういう言葉を言われました。「私たちは自我という洋服を着ている人」。そしてこの「自我」というのは、「知恵」。あちらも「智慧」こちらも「知恵」。この「知恵」というのは、自分の思い図ることが何でも可能だと思い込んでいるということです。そうじゃありませんか?何でも自分の思い通りになる。先ほどの私が思ったこともそうですね。お墓を作るというのは。要は、建前ではお寺のために、お墓を作るのだというけれど、その根っこにあるのはやはり、自分の思い通りにしたいということでしょう?自分の思い通りになって当り前。努力すれば、その気になれば、何でも思い通りになるということを前提にして私たちは生きていませんか?でもそう思っていると裏切られます。だから反対があったんですよ。ところがその反対の人達にも自我があるんですからね。自我で反対しているんでしょう?だから人生というのは、思い通りに生きられたら最高。でもならない。ね?
 よく年を取ってくると、「早くお迎えが来れば良いのに」という言葉が出てくるでしょう?または「なんで私はこんなに忘れっぽくなってしまったの」とか。だから私たちというのは健康で意欲を持って働いているうちは、いくらでも自分の体を大事にして生きていられるけれども、病気やなにかになったら挫折していくんでしょう?そして、この人なら、と思って信頼している人に裏切られると、救いようがなくなります。「なんであの人は私を裏切るのだろう」「私はこんなにあの人のことを思ってあげているのに」そうなると、「どうしてなの」「どうしよう」という言葉になってきちゃうでしょう?どんどんどんどん。先ほどの話と同じように、「お先真っ暗」ということでしょう?
 だから計算通りに自分の人生がいけば良いですけど、行かないとなると悩むことだけじゃないですか。しかし、計算通りにいかないことに対して、私たちはいつも何かにつけて計算を呼びかけているんです。だけど、阿弥陀様は「いつも思い通りにはいかないぞ」と言っているんです。それが聞こえないんです。だからいつも思い通りにはならないのだということが自分で思えれば、病気になろうと信じた人に裏切られようと、「そうか、そういうこともあり得るんだな」と思えるようになるんじゃないでしょうか。これが仏の智慧、「仏智」というものです。
 話を変えますと、ご本尊。皆さん方のお家の御仏壇の中を見るとあると思います。浄土真宗、というよりも、皆さんの御仏壇の中でご本尊が真ん中にあるのか、お位牌が真ん中にあるのか、これによって呼び方が違うのです。ご本尊があるのは「お仏壇」なんです。お位牌が真ん中にあるのは「位牌壇」なんです。だから浄土真宗はお仏壇を大事にするんです。「御内仏」と言うんです。阿弥陀様が内にあるから「御内仏」という言葉を使います。要はそれは絵像とか、お寺にある木像とか二種類ございますが、どちらかを置いておかないといけない。
 だからそれに向かって皆さん方は「南無阿弥陀仏」と唱えるでしょう?この「南無阿弥陀仏」というのが一番言葉が出しやすいですね。「なんまんだー、なんまんだー」と言えば良いんですから。「何枚だ」じゃないですよ?「なんまんだ」ですからね。
 そうすると自我を持っている私たちが「南無阿弥陀仏」を唱えるということは、仏様の智慧によって開かれる、ということなんですよ。これが念仏なんです。だから「なんまんだ」と申しなさいという、念仏を申しなさいというのはそういうことなんです。今まで気付かなかった、そしていつでも自分の思い通りになるとは限らないぞ、というのが「なんまんだ」と思えば良いし、思い通りにならなければ、「ああ、そうなのか、これも教えだね」というふうに取れるかどうか。病気になればなったで同じ。「ああ、私もこういう病気になるのだ」と納得するかどうかです。ガンになったからといってひがんでもしょうがないでしょう、なってしまったのだから。誰のせいでもないのだから。交通事故に遭ってもそうなんです。その時にたまたま交通事故に遭っちゃったんだから。もう一分遅ければならなかったかもしれない、そういうことでしょう。
 だからその事に怒っても自分に何の得もない。交通事故、交通違反をするかしないかは本人次第ですから。本人が、運転する人が気をつけなければいけないです。脇から子どもが出て来ちゃって交通事故に遭っちゃったからと、子どものせいにはできないですよね。いくらやっても今はやっぱり運転手さんのほうが悪いですから。そういうことだと思うんです。そういうとき、車を運転してるのだから交通事故は付き物だ、と思って運転できるかどうかです。そんなことを思って運転している人がいるか?というけど、そう思えば安全運転になるんです。
 もう一つの話をしましょう。皆さん、一月に成人式がありますよね?お孫さんや息子さん達が成人式を迎えたときにどういう話をしますか?お祝いの言葉。だいたいこういう言い方をするのではないでしょうか。「○○ちゃん、二十歳になったから、これからは好きなことをして良い。だが、責任を取らなくてはいけない。それだけではない。人に迷惑をかけないようにしないといけない」というふうに言いませんか?大多数の方がこういう言い方だと思います。「人に迷惑をかけては生きていけないのが人間なのだから」というのが第一にあるはずなのに、私たちは必ず、「人に迷惑をかけてはいけないよ」という言葉を使うはずなんですよ。
 ところが、浄土真宗の勉強会に来ていると、この言葉は間違えているな、と感じるはずです。人に迷惑をかけないなんて、皆さん、おこがましくないですか?私たちというのは人に迷惑をかけて生きているのではないでしょうか。その迷惑、迷惑の色が違うかもしれないけど、自分、私自身が生きていくということに、どれだけの人が私を影で支えてくれているか分からないでしょう?
 最近、私はこの話をよくするんですよ。皆さんよく考えてみてください。自分一人で生きていく、という言葉がよく使われるけれども、本当に自分一人で生きていけますか?何をもって生きていくのですか?私自身がどれだけの人に迷惑をかけて生きていくのか分からないと思ったら、その「生きる」ということはどれだけ大事になるか分からないはずです。そうしたら命もまったく同じでしょう?どれだけ大事にしなければいけないのか。今、自殺する人が非常に多いけれども、それを考えていないです。虐められたから自殺する。それは本人は虐められている苦…大変を背負っているから大変なのかも分からない。でも、本人が亡くなった後のお身内の人、周りの人、どれだけ大変かを分かってないでしょうね。自分さえ楽になれれば良いわけです。だから、自分さえ楽になれば良いと言って死んでいく人も楽かなと思うけれど、残されたほうは大変ですよね。そういうことと同じじゃないでしょうか。
 そうしたら、どんなことがあろうが、苦しみがあろうが、私がこんなことを言ってはいけないかもしれないけど、その思いというのは墓地反対の時に感じさせてもらったのです。本当に、それはたしかに死にたいという気持ちにはなります。気持ちが晴れないんですよ。いつでもどこかに残っているんです。「反対」ということが。これは極端な言い方で、車を運転していて涙が自然に出てくるんですよ。なぜおれはこんなことをされなきゃいけないのか、という思いで。ですからイジメとまったく同じです。だから僕から言わせれば、今家族には本当に感謝します。よく娘達も我慢できたな、と思います。でもそういう娘や家内がいるからこそ、私自身も自殺しなかったのだと感じるんです。そういうことだと思うんです、「いのち」というのは。
 だから、この言葉、成人式のときに息子さんやお孫さん達に言うのを、こういうふうに直さなければいけないんじゃないでしょうか。「どれだけ人に迷惑をかけているか分からない、どれだけの人にお世話になっているか分からない。そういうことの分かる人になりなさい」こういうふうにお話しができるかどうかですね。悩んでいる人に向かっても同じことだと思うんです。皆さん方もこの言葉をぜひ、お子さんですとか、ご相談のあった人達に向かって、話していただけるようになれば、その人はどこかで救われていくのではないかと感じるんです。
 もうこんな時間になっちゃった。早いなあ…。お話しのうちの半分言ったきりで終わっちゃうぞ、これ、十二時になっちゃった。(笑いあり)前置きが長すぎたかなあ?(笑いあり)やっぱり慣れていないからね。(笑い)時間配分が分からない。あまり遅くなってしまうと食事の時間がなくなります。なんて怒られちゃいますから…。
 一応皆さん、そういうことだと思うんです。だから皆さんどうか、この「自我」のお洋服を着ているんだな、と。一枚でもいいから脱げるようにしていただければ。その「脱ぐ」というのがお念仏を申しましょう、ということです。仏さんの智慧をお借りしましょうということです。どうか、皆さん方、今日はそれを一つ、頭に入れていただいて、お帰りになっていただければありがたいなと思います。またこの話の続きは次回。まだ半分ありますので。(笑い)続きということにしたいと思います。

どうも本日は、ありがとうございました。


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(2023 年 7 月 12 日)