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第42号法話「念仏申す」

カテゴリー:法話集    更新日:2007 年 9 月 15 日

會谷順雄(源信寺住職)永代経にて
      2007年4月29日

本日は永代経ということでございますが、まあ皆さんとは法事や何かのときに少し私がお話しするということで、その話の時間も十分か十五分ぐらいのお話の時間ですが、こうやって一時間という時間をいただいて、皆さんの前でお話しするというのは、今日が初めてでございます。実はいろいろと原稿を作ってあったのですが、それを覚えるまでにはいきませんので、今日は何を喋り出すか分かりませんけれども、最後まで聞いていただければありがたいと思います。
 また、昨年落慶法要のときには皆さんご出席いただきまして、蓮光寺さんのご住職がお話ししたとおり、これからの源信寺というのは、やはり皆さん方と私とで一緒になって盛りたてていくということが一番大事なことだと思います。その一つとして、私もこうやって下手な話ですけれども、皆さんと話をするようにして…。浄土真宗のことについて勉強していければよろしいのではないかなと思います。そういうことでございますので、今日はとちるところが多々あると思いますので、その辺はご勘弁願いたいなと思います。
 さて皆さん方は、源信寺の歴史というと、昨年源信寺の記念誌の中に一部箇条書きで掲載されていたと思いますが、今は知っている方というのはほとんど少ないのではないかと思います。今日ここにお見えの御門徒の皆さんもだいたいが、この室内墓所に入っておられる方がほとんどでございます。前住職の頃は八柱の霊園のほうへ入られている門徒の方がほとんどでしたが、そのご門徒は今日は出席が少ないと思います。新しくなられたご門徒さんに真宗のことについて一緒になって勉強が出来ればうれしいことです。
 父は明治三十六年に千住中居町の常護寺というお寺の次男坊として生れました。生粋の千住っ子ということになるわけです。そして、ここの地に昭和五年に移り、源信寺というお寺を建立したわけですが、この建物も二度建て直しています。昭和五年に建てまして、それをご存知のご門徒の方はもう一人か二人しかおられないのではないかと思います。その時は入口が川の方に向いており、今とは向きが逆になっていました。ご本堂も川の方を向き今の内陣のところが玄関になっておりまして、室内墓所のこの辺はだいたい庭になっていたんです。そしてすごく縁の下が高い建物でございまして、段を上がらなければ上がれないぐらい高かったのです。
 普通の家でよくまあこんなに高いのを作ったなあと思ったんですけど、父がどうしても「縁の下が低いと湿気が多くていやだ」と。まあ、昔はこの辺は田んぼですからそういうふうになったのではないかなと思いますが、それで建てた時、下に杭をずいぶん打ったものですから、ここは周りより地面がちょっと高いんです。ですから昔ですとよく大雨が降るとこの辺は水に浸り近所の皆さんの家は畳の上まで水につかってしまうのですが、お寺だけは縁の下に入るだけで畳の上まで上がって来ない。それほど土台が高い建物を造られたんです。
 そして二度目に造ったというのが、私が二十八歳の時、ですから三十七年前。昭和四十五年にお寺をやはり建て直したのですが、その時の建物が今も使用されているのです。その時の柱というのがこの柱です。本堂の周りにある柱はその時の柱です。後の柱はみんなだいたい、私が十年前に全面改装しましたので取り換えられていますが、昔の間取りは今の内陣が玄関で本堂は今の座敷が半分内陣、後の半分は裏庭です。そして今の室内墓所が昔はお台所になっていて、ちょうど、今の玄関からの通路が二階へ上がる階段なんです。父は事務所のところから玄関にかけてのところの部屋に住んでいて、私たちが二階に住んでいたんです。そういう建物をひょいとひっくり返して、向きを変えて今の建物になっているのです。そして昨年は皆さまご存知のように客殿を本堂の西側に建て増しをしたということになるわけです。
 そうやって月日が経つにしたがって、徐々に徐々にお寺が大きくなってくるというのは、やはりご門徒さんの皆さんのお力があるからこそだと、私は感じています。皆さん方で前住職を知っているという人は少ないと思います。ここに写真がありますけれども、お経は非常に上手な住職でした。私よりももっと声が大きい。ですから話をしていると二、三軒先から聞こえてくる。そして下駄履きで歩き専門の方でした。皆さん方、毎朝歩かれていますが、父はそれをもう生れてからずっと歩いていたんです。ウォーキングが得意、ということは、自転車にも車も乗れないということなんです。カランコロン、カランコロンと歩きながら行くので、千住の中でも有名だったんです。下駄履きの坊主さんということで。「最近見ないね」「うん、見ないはずです。亡くなりましたから」と言うのですが。実は九十歳まで下駄履きで月参りに歩いていましたから。
 ですから、最近周りがコンクリートになってしまったものですから、良い下駄をまた履いていたんですよ。桐の、目の通った。それがまあ一ヶ月履くとだいたい歯がなくなっちゃうんです。ですから歯を継ぎ足すんですが、そういう下駄修理屋さんも今はなくなっちゃいましたから。本当に晩年は困っていたんですね。今でも父の下駄というので、私は履かないんですけど置いてあります。やはり千住っ子ということで顔が広かった。どこへ行くのでも挨拶をしないことはなかったです。父と一緒に歩いていてそのまま電車に乗れたということがないですから。必ず、どこかに呼びつけられますからね。それでその間私は待っていなきゃならない。それがいやでしょうがなかったですね。「早く行こうよ」というと、「うるさい、黙ってなさい」なんて怒られたものです。そういうふうな父は十四人兄弟いたのですから、今なら表彰ものですよね。十四人なんて。その次男坊ですから、要はその本家で、自分が大人になる頃はもう坊さんをさせられていたというか、お祖父さんの手伝いをしていた。お祖父さんは大正十五年に亡くなっちゃっていますので。その後ずっと、うちの父が弟たちを全部賄いながら育てたのと同じ事だと思うんです。要はそのぐらい父は苦労した。ここまでやってきてくれたということだと思うんです。でも私にとって、私が生まれてやはり物心が付く、そしてここに写真がありますが、十歳の時に得度をしました。得度をするのに必ずお寺のお坊さんはお経を覚えなきゃいけない。正信偈を必ず覚えさせられるのと、浄土三部経、大経・観経・小経という、この三つを覚えさせられるんです。漢字だけの本で。本当にねえ、机の前で物差しを持っていて、ぴしぴしとしながら怒るんです。それがいやでねえ。で、漢字が大嫌いになったんです、私は、国語が嫌いだったんですよ。でもやっぱり子どもの頃というのは覚えるもので。お経ができないと得度できないんですよ。というのは試験がありましてね、読まされる試験。お経本があってひょいと開けてここから…。なかなか読めないですよ、慣れてないと。声が出ないし読めない、試験を受けなきゃいけない。今はもうだんだんと楽になってきていますが、そういうふうにして十歳のときに得度をさせられて、その披露がある。ですからこれが初代の時の建物です。古い頃の建物で、その一番向こうがお稚児さんという…お寺さんのお祝いがあるとお稚児さんというのを出すんですよ。本当は昨年もお稚児さんを出せば良かったのですが、それをやる場所がないんです。それでうちは止めてしまってるんですが、まあ費用も大変かかりますので。私の得度の時はお稚児さんというのを出していただいたんですけれども…。
 それから私が十歳を過ぎて、小学校、中学、そして高校に行って、大学のほうはうちの宗派の大学が京都に大谷大学というのがあるんです。そこを受けろという。一年間浪人してましたから、二年目の時は自分の受けたい大学を落ちたら、お前はここしか来れないというのでそこの大学を受けさせられたんです。たまたま千葉のほうの大学が受かりまして、喜んでそっちに行っちゃいましたね。千葉の大学は理工系の大学だったんですけれども、もうそんなもんですから、坊主のほうの勉強はそこでストップ。それでずーっと理工系のところに行ってまして、大学を出てからも鶴見のほうの日産の工場で車作りをやっていました。もうお寺さんは関係なし。
 それで二十八歳のときに家内と見合いして…。見合いしたのも理由があったんです。母親が入院しましてね。母親が入院しますと、うちは私と父だけになっちゃうんです。どっちが飯を作るかというのをやるわけです。私は勤めてますから、鶴見まで行くというと、朝だいたい六時ぐらいに出て行かなきゃいけない。昔は八時開始だったですから。そうなると飯なんてやっていられない。さっさと行っちゃって、夜は七時ぐらいにしか帰って来ませんから、父がだいたいみんなやるようになるんです。そうすると、「お前、嫁さんをもらわなきゃだめじゃないか」と始まるわけですよ。それで「じゃあしょうがない。誰か見合いを紹介してくれる人を」昔はいろいろおられましたので。そういう世話をしてくれる方が。見合い写真をもってきてくれて、家内とお見合いしたんです。
 そのお見合いがまた…。家内には後で話したんですが、大変なお見合いの日だったんです。十一月の三日か四日だったと思うのですが、たまたまその日はお葬式が二件入っていたんです。前の日がお通夜で、お見合いの日が告別式なんです。その夜がまたお通夜で、翌日告別式。どうしよう、と。それが二件ともお寺だったんですよ。たまたま珍しく。昔はそういうのがあったんですよ。それでどうしようかというので、しょうがないから葬儀屋さんに言いまして、見合いの時間だけ祭壇を片付けてもらって。実はお見合いを寺でやったものですから。終わったら、また祭壇を作ると。そういうことで、たまたま意気が合ったのかどうか分かりませんけど、成功しまして、家内と婚約になるわけです。
 婚約した途端に私、四月から名古屋に行っちゃったんです。名古屋の同朋大学という、私達の宗派の学校がやはりあるわけで、そこへ一年間、住職の資格を取りに行くわけです。それで結局婚約だけして、じゃあ行きましょうということで、一年間行きまして、翌年、卒業して帰ってきてすぐ結婚式ということでやるわけで。うちは四月の十四、十五、十六の三日間はお祝い続きなんです。十四日は長女の誕生日。十五日が私の誕生日なんです。で、十六日が結婚記念日なんです。だから絶対に忘れなくて良いですね。ですから三十の誕生日を迎えた次の日が結婚式ということなんです。
 まあそうやってやったんですが、結局今から考えると、自分ではお寺をやりたくないと言いながら、前住職の手の中にいたんですねえ。都合の良い時にちゃんとお寺の勉強をやらされるように、うまくやられたなあと今でも思っていますが、でもそれが今となれば、ああ、あの時やっていただいて良かったなあ、と思えるんです。そういうふうなのは皆さんもいろいろと経験されてるから分かると思うんですが、やはりそういうご縁というのはどこにあるか分からないと思うんです。自分ではその時いやでも、やったおかげで年を取ってきたときに、ああ、良かったなというのが感じられるのではないでしょうか。
 この様な話ばかりしていると大変ですが、まあそして、正直言って親のありがたさというのを知らされたのは、やはり父が九十歳のときに脳梗塞で倒れて、入院して、それで「お寺をどうするか」という問題になったわけです。
 私もその頃は会計事務所に行っていましたから。仕事を辞めてお寺を嗣ぐのか、そのまま仕事をやりながらお寺をやるのか、二足のわらじを履くのか履かないのかの問題があるわけですが、正直言って最初の一年は二足のわらじを履いていました。ところが、二足のわらじを履いていると、お寺の仕事というのは大変です。だから地方のお寺の住職が学校の先生なんかをやりながらお坊さんをやっているというのは、すごいなと思ったんです。二足のわらじは到底履けないんです。まずうちのお寺には月参りというのがありますから。そうすると、何月何日には必ずこの家に伺わなきゃいけませんから、勤めていたらその日は休むか半日休暇をもらうしかないわけです。その他にお葬式が入りますから。お通夜は良いんです。告別式の場合は昼間ですからだいたいまた半日。下手をすると一日取らなきゃいけない。だから一ヶ月の間に何日休むか分からない。そうなると、そんな勤めなんかやっていられないですね。まず仕事にならないです。
 それでまず仕事を辞めようと。だけどお寺の収入だけで食べていけるかどうかが問題なんです。父がやっていた月々の収入の帳簿を調べましてね、会計事務所ですから得意ですね。そうすると、今私がもらっている月給より少ないんですよ、これでどうやってお寺をやって行くかだったんです。それで、皆さん方の知っている裏庭を墓地にし御門徒さんを増やす方法しかない、という考えになったんです。その時から大変でした。周りに看板が立ちました。『墓地反対』と。それが約二年続きました。その間に何回も説明をしても、反対の方達は馬耳東風です。いくら言っても分からない。それで言う言葉は「あんたが何でやんなきゃいけない」のみなんです。先代がやっているなら分かる、あなたがどうしてやらなきゃいけないのか、と。その時に言われて、初めて先代の今まで築いてきたお寺というものは、すごかったんだな、と感じるわけです。皆さん方もそうではないかなと思うんです。自分の親が亡くなったときに初めて、親の偉大さを知るようになるのではないでしょうか。親の傘というのは、やはり生きている間は自分も独立したと思いながらも、世間では全然認めない。あなたはあなたで一代ですよというふうにご近所の方も思うのではないかと感じたわけです。
 そういうときに本当に私を助けてくれた人が、微々たるものですがおられたんです。それが一番ありがたいですね。本当に精神的に助けてもらいました。家族みんな落ち込むんです。昔の言葉で言えば村八分ですよね。ご近所の方は口も利かないですから、挨拶もしないですからね。何かうちが悪いことをしたみたいになりました。でもそういうときにちょこ、ちょこっと声をかけてくれる人がいるんです。そして、こういうふうにやったら、ああいうふうにやったらという知恵をいただけるんです。自分自身ではもう一杯なんですよ、頭の中が。どうやったら解決するかで。だからそんなことを考えていると、新しいアイディア一つも生れないです。そうやって二年目になって、父が亡くなった途端に、知恵を貸してくれる方が、この室内墓所を教えてくれたんです。私も、まあ室内墓所というのは前から知っていましたけれども、皆さんご存知でしょうが、室内墓所というとロッカー式なんですよね。引き出しが三段ぐらいあって、そこへお骨を入れる。そういうロッカーがいっぱいあるところが納骨堂です。それはどうしても私自身いやだったんです。それにそのロッカーを置く場所がないです。これだけの広さしかないですから。それじゃあ駄目だといったときに教えてくれたのがこのシステムなんです。その時にはまだこのシステムが入っているのは、全国で一軒しかないんですよ。その住職も、要は自分のところに預っているご遺骨を入れたいということで作られたシステムなのです。だから最終的には内が一番最初に販売したんです。その販売し出したときにはNHKですとかいろんな局が見に来ました。韓国も来ましたし。それからドイツですとかイギリスですとかヨーロッパのほうからも来ましたね。やはり向こうのほうもお墓の土地がなくなってきているんです。今ではもう日本でもずいぶんこういうシステムのお寺さんが出てきています。大々的にできていますが、うちを見に来て、「これは良いわ」と言って帰られたお寺さんです。そういうことでやってきてるんですが、要は、そのときにいろいろなアイディアをくれたというのが、考えれば阿弥陀さんから私たちに向かって言葉をいただいたのと同じことだということですよね。皆さん方にも仏さんが声をかけるわけじゃない。でもどこかでお話ししていると身に染みる。自分の体に身に染みるという言葉があるはずです。そうやっていきているのではないでしょうか。

つづく


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(2023 年 7 月 12 日)