第41号法話「私にとってのお寺とは」
本多雅人師(蓮光寺住職)
2006年11月23日 報恩講にて
私は毎年源信寺さんでご法話させていただいておりますので、顔見知りの方もたくさんおいでかと思いますが、そういうお付き合いの中で「記念すべきご法要でもお話をしてください」とご依頼を頂きましたこと、私自身もありがたく思っております。
先程、表百で胸が詰まって感極まって涙を流されたご住職の横顔を見ておりまして、そこに源信寺の歴史があり、その表百とご住職の涙以上のものは何もありません。本当に感動的でした。
真宗門徒にとっての一番大事な報恩講法要において、門徒会館の新築、お荘厳の御修復、さらには室内墓地も補修されたことを親鸞聖人にご報告を申し上げるというかたちで法要が勤まっているのでございます。本当に心よりお祝い申し上げたいと思います。おめでとうございます。
この事業は住職さんの本当の悲願であったと、私自身もいただいておりますが、源信寺ご門徒の総力を挙げた願いの結果がこういう形になったのだろうと思っております。ただの建物ではなく、ここには一人ひとりの願いがこもっている。それがお寺を成り立たせているということではないかと思っております。まず、結論を申し上げれば、会館ができ、ご本尊、お荘厳、室内墓地が御修復されたということがゴールではなくて、これからがスタートです。本当にお寺になっていくのは、これからの歩みにかかっているということです。それだけの責任が源信寺のご住職にあると思います。
実は私も一年前に寺の修復を致しました。色々考えさせられ、お育てをいただいたと思っております。源信寺のご住職も悩まれたと思うのですが、ご寄付をお願いするわけですが、口先では親鸞聖人の教えを伝えたいからと言う場合、本気でそう思っていないと、親鸞聖人の名前を使ってまで金集めをしている坊主になるのです。親鸞聖人を利用しているわけです。ですから、口先できれいなこを言ってお金を集めようということになってくると、これは深い罪があります。ただ「古くなったからきれいにする」、あるいは「ガタが来ているから直す」とか、そういうことで寄付を集めることもおかしいのではないかと、教えを聞いている住職なら考えるのです。
いわゆる門徒の方々から御懇志を頂くということは非常に大変なことであります。一人ひとりがさまざまなかたちで生活をしている、そのお金をこのお寺のために使って頂くということですから、よほど住職が、新築・修復する意味をしっかり持っていないと、これは詐欺に相当すると言っても過言ではないのです。こんなお話すると驚かれるかもしれませんが、お祝いごとに詐欺という言葉を使えるのは浄土真宗の良さです。阿弥陀さんの前では遠慮は要らないのです。もっと言えば、源信寺のご住職と信頼関係があるから話せますし、ご住職は教えを聞かれながら、そういうお金集めをせずに、源信寺がさらに開かれたお寺になっていくという願いをもって取り組まれているのを私自身が存じているからです。親鸞聖人を利用して終わるのではない、しかし、ご門徒にどうご理解いただければいいか等、悩んでいるご住職というところにすばらしさがあるのです。ご住職もいろんな苦難を思い出しながら、ここまで来たなということが涙というかたちを取ったのではないかと思います。
今日、「私にとってお寺とは」というテーマをいただきましたが、源信寺さんに向かって歩いてきましたら、住宅の密集地の中に、源信寺さんの新しい門が見えてきました。そして、源信寺さんの門をくぐった時に何かほっとする気持ちになりました。皆さんはいかがでしょうか。何かここにいると落ち着くなというのがあると思います。お寺ということを考える時、このことはものすごく大事な点ではないかと思います。
北千住駅前は再開発されて本当に便利で快適で何でもあります。そういうものを追い求めてきた現代の価値観が凝縮されているとも言えます。ところが街の中を見てみると、そこには個性がないです。もちろん一本路地に入ると、昔ながらの個性を感じる街の風情が残っているところもありますが、駅前周辺はどこへ行っても同じです。先月富山に行きましたけれども、富山の駅前は東京と全く同じです。 東京にあるものはすべてあって、富山地方の良さは快適さ便利さの中で全部飲み込まれてしまっている感じです。豊かさ、快適さばかりを追求してきましたが、これからは、いよいよ生きる意味が問われている時代ではないでしょうか。便利さ、快適さを求めている反面、人間そのものはどうなっているのかと考えた時に、人間と人間のつながりが閉ざされた関係にあるのではないでしょうか。
実はその便利さの陰に、人間が気が付かないうちに、さまざまな問題を起こしているのです。例えば昔は、魚屋に行って、自分の目で、魚を見て、この魚がおいしいか、まずいかを見極めて買って、自分で骨を抜いてさばいて、子どもたちに食べさせたものです。お魚の命をいただいてこの私が生きている、そういうことをちゃんと感じながら生きてきたのです。ところが、現在は全部切り身なってパックに入っている魚を買います。魚屋さんとその奥さんが魚を買うことを媒体として、言葉を交わし成り立っていた人間関係が全部消えたわけです。それから魚に対して命をいただいて申し訳ないという気持ちも消えました。ですから、便利さの陰にすべての関係、あるいは感動する心、そういうものが全部奪われていくというのが便利や快適さを求めた結果ではないでしょうか。
便利が悪い、快適さが悪いわけではありませんから、その見極めはなかなか難しい問題です。豊かさの影に、孤独化の問題が潜んでいます。それが犯罪が生んでいく理由にもなっているのではないでしょうか。経済的価値観だけで、すべてを捉える。そして人間までをも判断するということは、恐ろしいことなのです。経済価値というのは、便利か便利ではないか、快適か不快か、役に立つか立たないか、この尺度でしかないのです。
役に立つことは大事なことなのだけれども、この価値観だけに縛られていくと人間が人間でなくなります。まじめなお年寄りほどよくおっしゃるのですが、「私は年を取ってもう役に立ちませんから、子どもたちに迷惑を掛けずにぽっくり死にたい」と。この気持ちはよく分かりますけれど、ここにも経済的価値観に縛られている姿を感じます。自分が役に立っている時は、役に立たない人間を軽蔑し、切って捨てる心が生じます。そして、自分が役に立たなくなった時には、その自分を捨ててしまうのです。つまり、自分を引き受けられないのです。ここに仏教が生きる意味を問うのです。役に立つ、快適さがいい、能率的がいいという価値観でできあがっているのが今の社会構造です。それを支えているのは、結局は私たちの生き方そのものなのです。最終的にこの価値を絶対化すると、自分で自分を捨て、他人も切っていくのです。それが現代の社会構造であり、私たちの生き方そのものなのです。そういう私たちがお寺に来てほっとするということは、普段は意識化されないけれども、心の奥深い所では「自分が自分でありたい。どんな状況でも生まれてきて良かったといえる生き方をしたい」という願いが流れているのです。そこにお寺という存在の意義があるのではないかと思います。お寺に来て、「私はここにいていいのだ」ということを皆さん、どこかで感じられているのではないでしょうか。
やはり役に立つ人間でいたほうがいいし、役に立たないと落ち込むわけです。そういう自分をごまかさずに、教えを聞きながら、もっと深いところから「人間とは何か、自分とは何か」ということを明らかにしていきたいと思います。
お寺は聞法道場です。源信寺のご住職とともに、門徒さんが、親鸞聖人の教えを自分の上にいただいていくところにお寺のいのちがあります。この源信寺というお寺にはいわゆる教えがあるということです。その教えを聞く人たちが集まってくることにおいて初めてお寺と言えるわけです。
表百の中に、七十有余年の歴史とありましたが、いやいやそれは源信寺さんができてから七十有余年なのですが、この寺は全人類の願いを抱えているのです。ご住職のお父様がこのお寺を開いてから七十数年かもしれませんけれども、七十数年、そのお父様がお寺を開こうと決意された背景には必ずご住職のお父様に教えを伝えた人がいるのです。その教えを伝えた人もだれかから教えをいただいているわけです。ずっとさかのぼっていくと親鸞聖人につながっていくわけです。あるいは親鸞聖人の先のお釈迦様にもつながっていくのです。本当に生きる意味を見いだしたいと願っている人たちが教えを伝えてきたのが仏教の歴史です。
『阿弥陀経』を読むと「如是我門(にょぜがもん)・・・」という言葉で始まりますが、「私は教えをこのように聞きました」と、教えをいただいて自分のいのちを全うして歩んできた人たちの願いが継承されてきたのです。それが最終的に源信寺さんの初代のご住職でいらっしゃったお父さんがその願いを持ってこのお寺を開かれた。ということは、このお寺は無限の時間からずっと願いを持ってきて、それがお父様の時にかたちとなって源信寺と称した。こういうふうに考えるのが、僕は真実ではないかなというふうに思います。
ここにあります床柱は二度と買えない柱です。この柱には、無限の時間からずっと流れている願いがあって、そして七十有余年悩み苦しみ悲しんでいる人の姿をずっと見てきたのです。ですから単なる物ではなくて、もちろんこれを運んだ人、加工した人、売った人、いろんな人の願いがここにあるけれども、それはまたここで教えを聞いてきた人の願いも染み込んでいる。ただの木ではないのですね。これが仏教の見方です。いのちとは願いということでしょう。本願のいのちです。ですからそういうようないわゆる単なる快適さとか、いくらで建てたとか、そういうものとは全く違ったところに一人ひとりの本当の願いを明らかにして、自分が生まれてきて良かったということをうなずけるような喜びを回復したいと。それに応えるのが源信寺だと、こういうふうに思います。
親鸞聖人がなぜ私たちにとってありがたいのか。もちろん、皆さんはたまたま源信寺に縁を持つことによって、親鸞聖人の教えにふれることができました。すべて縁なのですけれども、なぜ親鸞聖人でなければならないのか。ある念仏者が「それは親鸞聖人が結婚してくださったからなのです」とおっしゃっていました。どういうことでしょうか。
親鸞聖人以前の仏教のあり方は、人間は愚かで罪深く、一番の苦の原因は自分自身の中にあるから、自分自身の煩悩、とらわれの心を開放していくことが救いになっていくので、生活を捨てて修行をしたわけです。仏教はどの宗派であろうと、どの学派であろうと、みんな共通しています。修行をして悟りに近ずこうと。そのために邪魔になるのは生活です。多くの場合は、生活を捨てて修行に打ち込んで自分が悟りに近付くというやり方が一つの仏道でした。
でも、親鸞聖人はそうではないと。結婚しているということは生活を表しているのです。生活から離れた山の上で修行をすればそれなりの成果があるかもしれないけれども、皆さんだって自分の今抱えている問題、今ある生活から離れられないでしょう。平気で生活しているのならだれも苦労しないです。生活を捨てられないから苦悩するのでしょう。生活の苦労のうえに、そのまま仏道が成り立つことを明らかにされたのが親鸞聖人です。生活のままにですから、あらゆる人が救われる道を開かれたのです。親鸞聖人は、堂々と生活の中に入られて、生活の苦労の中から苦労を縁として一人ひとりが教えをいただいていけるのだと、そういう仏道を開いたのです。だから特別なことをすることはないのです。生活がそのまま仏道修行の場なのです。今ここにある自分、そこで悩みや苦しみを抱えている人間が、そのまま教えを聞くことによってその悩み苦しみを引き受けて受け止めて立ち上がっていくことができると、そういう教えが親鸞聖人の教えです。
仏教が日本に入ってきた時には、仏教に色々な要素が付随していました。だから国を守るための鎮護仏教、護国仏教と言われたり、あるいは悪霊をはらうために坊さんが利用されてきました。そんなことは一言もお釈迦様は言っていません。迷いを翻して真実に立って生きる道を説いたのがお釈迦さまの教えです。そのことを生活を捨てないで、誰もが救いからもれない仏道を実践されたのが親鸞聖人です。親鸞聖人の教えこそがお釈迦様の目指した方向性を正当に受け継いでいると感じます。親鸞聖人がいただいた本願念仏の教えを次から次へと後世の人が受け継いでいって、源信寺の前住職に受け継がれてこの寺ができあがったのです。だからここのお寺には願いがある。そういうことだと思います。
浄土真宗のお寺というのは内陣が狭くて外陣が大きいのです。出家寺院とはぜんぜんちがう形態です。悩んでいる人たちがみんなでここに集まって語り合うから外陣が広いのです。本願寺はどのように成立したのかというと、親鸞聖人が亡くなった後、親鸞聖人の御影を安置して、そこにみんなで車座になって聞法し語り合いをしてきました。そこにご本尊として阿弥陀さまが安置されて本願寺が成立したのです。本願寺は圧倒的に外陣が広い。それは悩んでいる人が集まって教えを聞いた道場から始まったからです。門法道場なのです。ですから道場性を失ったお寺は駄目です。でも、ただの道場性ではなくて生活のにおいがするのが浄土真宗なのです。ですから浄土真宗は生活のにおいがしながら道場としての機能を帯びている。今この道場性がなくなってきて生活だけになって自分の家のように思っているお寺がありますが、それはお寺といえるでしょうか。聞法会をすると畳が汚れるから使わせないという寺もあるのです。これは、お寺を完全に私物化しているわけです。 浄土真宗の原点に帰ってみれば、やはり客殿を広げたということは単に便利にしてという意味ではなくて、このような広い所で多くの人がこの場に座って教えを聞いていただけるということが、源信寺のご住職の願いであったと痛感します。もしこのお寺に教えというものがなくて形だけの寺になってしまったら、そこら辺にある快適さと便利さと変わらなくなってしまいます。
皆さんの家庭も同じことです。今日の法要をご縁として、ご自分の家が快適さと便利さだけになっているか、なっていないか、見つめ直して見て下さい。つまりご家庭の中心の本尊がありますか。本尊というのはお内仏です。お仏壇です。お仏壇は縁起の悪いものといって端っこに追いやられて、人間が追求する快適さ・便利さ・合理さが家庭の中心になっていませんか。そういう人間中心の考え方が家庭の中心になっているとしたら、孤独感、むさしさから解放されることはありません。いろんな問題を抱えている私たちの姿を見せてくださるお内仏が家庭の中心になければなりません。
お内仏がなければ価値が全部人間の都合の価値です。その価値観は終始一貫しません。先程も言ったように、「役に立つこと」を絶対化することのなかで、役に立たない自分も捨ててしまうのです。それから他人も捨ててしまうのです。ところが、本願念仏の教えはけっして自分を捨てないのです。他人を捨てないのです。摂取不捨です。どんな状況でもあなたはあなたのままで生きていけるのだ、ということを教えてくれるのです。だから親鸞聖人は、「お寺は自分を習う場」と、こうおっしゃっるのです。
お寺は住職個人の物ではありません、皆様といっしょに作られていくのがお寺です。門徒のお寺です。だから外陣がこんなに広いのです。ですから皆さんにも責任があるわけです。源信寺のご住職とともに教えをいただいていく、そういう責任があるのです。そういうことが、源信寺の今までの伝統を引き継ぎながら、今ここに教えが開かれ、そして未来にその教えが伝わっていくことになるのです。願いの伝承です。その伝承の上に、一人ひとりが自分を明らかにしていく、そのことを大事にしてほしいと思います。
新たな歩みが今日ここから始まりました。それは教えを聞く、改めて教えを聞き始めるという決意の日だと思います。源信寺さまの報恩講および落慶法要で、法話させていただきまして本当にありがたく思っております。
本日は、おめでとうございました。
