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第40号法話「今、いのちがあなたを生きている」3回目

カテゴリー:法話集    更新日:2007 年 3 月 1 日

本多雅人師(蓮光寺住職)

2006年4月29日  永代経にて

どうして仏教が伝わってきたかというと、お釈迦様と弟子と云う関係から生まれたのです。お釈迦様は、弟子の姿を見て、自分の過去を見ているのです。つまり自分はお金があって名誉もあり、本当に生きるとは何かという不安を抱えながら、いいことも悪いこともやってくる、つらい時も悲しいときも、私が私であるとして人生を全うしていくのだということを。そしてすべてのことが縁によって起こってくることを。お釈迦様が体得された。今お釈迦様の教えを聞いている弟子たちが、必ずそういう道を歩んでくれるという信頼がお釈迦様にあり。「僕も悩んでいるのだよ、あなたも悩んでいるじゃないか」と。弟子の方はどの様に見ているかというと、「今は悩んで苦しいけれど、お釈迦様が体得された様に、私も真実に向かって歩いていきたい。自分の姿をお釈迦様に見ることによって、自分の未来を見つめている。」ここにお互い悲しみ、苦しみがある人生を本当にどの様にしたら自分の人生として頂けるか、一つの大きな願いがある。できる人できない人じゃなく、そういう教えを聞いていこうというところに、いわゆる共同体が生まれるのです。この共同体を「サンガ」というわけです。日本語で「講」と言います。親鸞聖人の教えをみんなで聞いていく集まりを「報恩講」と言うのです。これはお釈迦様と弟子の関係だけかというと、親鸞聖人と弟子の関係、親鸞聖人は弟子を持たなかったけれど、自然にお弟子さんが出来ます。
有名な『歎異抄』の第九章にこういう言葉があります。

「念仏の教えを聞いても全然浄土がいいなと思わないのはどういうわけでしょうか」

と唯円が聞くわけです。聖人が、「ああ唯円、君もそうだったか。私もずっとそういうことを疑問に思っていたのだよ」と。ということは、疑問に思っていたけれど、そのことがそうではないということを教えられて頷いた親鸞聖人と、まだ頷いてはいないけれど教えを聞きたいと思いながらもなかなか教えを喜べない唯円。例えば、現実は病気が治ったほうがいいし、お金があったほうがいいのです。そこに人間は生きているのです。だから、なかなか南無阿弥陀仏の教えが分からない。でも、みんなそうなのだと。でもその中の深いところに、何があっても私が私として生きていきたいという願いがあると聖人は感じられて、唯円には「駄目だ」とは言わないわけです。唯円の姿を見て、「ああ、あんたもそうか。実は俺もそうだったのだよ。だから一緒に教えを聞こうね」。そういうのが大きなサンガとなって教えが伝わってくるのです。人間は、みんな平等だから「いのち」が大事と言ったって全然わかりません。あなたも私も本当に一人一人顔も、悩んでいることも境遇も違うけれど、「みんなこの世に生まれてきて、本当によかったというようなことを感じた」ということにおいて、みんな共通した課題があるのです。一人一人の個人の悩みは違っていても、みんなそういうことを縁にして、生きていてよかったと言いたいというところに、同じ人間としてのつながりを感じるのです。これを親鸞聖人は、「御同朋・御同行」と言ったのです。それは別に浄土真宗の門徒さんだけの話じゃなくて、キリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうと、みんな同じ願いを持っている大きな視野に立っての仏教です。今、分かるとか分からないではなく、心の奥底に、本当によかったと、いいたいものがある。絶対あるはずです。それを掘り起こして、教えを聞いていくということが、すごく大事なことではないかと思います。それがいわゆる仏事という言葉で語られているわけです。
 現代は、このことで悩んでいるのです。具体的に言いますと、大分県のお医者さんにちょっと縁があって、お話をする機会があったのです。「今、お医者さんの世界で大事なのは仏教です」とはっきりと言っています。この方は自分の病院で、『歎異抄』の勉強会をやっています。この方が「仏教がどうして大事か」ということを感じたかというと、人間が苦しむ理由は何かということを仏教から教えられたというのです。何で人間が苦しむか。例えば、私はこうなりたい、ああなりたいと思っていますね。ところが仏教が教えてくださることは、いいも悪いも、全部縁によって起こっているのです。縁によって起こってきた事実と思いが一致していれば、人間は苦しまないのです。
 自分が考えていることと事実が違うから、そこで人間は苦しむのだと。この思いと事実が離れれば離れるほど人間は苦しむ。事実と一緒になったら苦しまないわけですね。そうすると、お医者さんはほとんどデータ主義で、体を見て部分修理をして、告知をして、「あんた、癌ですよ」と言って、それで医者が成り立っている。仏教から教えてもらったのは「生老病死」ですから必ず病気になる。病気を治すことばかりを考えていると、結局継ぎ接ぎでシールを張っているようなもので、人生の解決にならなくて先送りにしているだけだということに僕は気付いた。病気のままで生きられるということをお医者さんが考えていなければいけない。全員助かるわけじゃないから、病気のまま死んでいく人をさんざん見ているということは、医療が事実を思いのほうに近づけるのではなくて、思いを事実のほうに近づけていくことが、本当の医療ではないかということに気付いたと言うのです。現に、癌で亡くなった夫のメモ帳の中から出てきた言葉で、「引き受けるとは病、病気を引き受けるのではなくて、病を恐れ嫌う自己自身を引き受けることである」。病気になったから苦しまれたのではなくて、病気になったときに病気を悪いこととして、自分を認めないような自分を引き受けるということです。病気になったのは事実です。「そういうことを医療の中で考えていかないと必ず絶望する。治すことだけに奔走すると、生きる力が出てこないのだ。「老病死」というのは必ず起こることです。治すことを大事にしながら病気のままに一緒に生きていくということが大事であろう」ということを先生はおっしゃられておられました。
 大事なことですよね。多くの人は、癌になったら死んでいくのです。絶望でしかないじゃないですか。癌のままで、「ああ、これが生きることだな」と思うと、本当に不思議なことに落ち着くそうです。そういう世界をいただく。思い通りになるということだけに奔走していくと、自分の思いと違ったことに出てきたらいちいち自分を傷付けて、自分を捨ててなければならない。そうじゃなくて、「必ず縁によっては自分の思いとは違ったことが起こるから、それが私のいのちの事実だと受け止めて自分を大事に生きていく」ということが本当に生き方だと繰り返し、繰り返し教えていただく。究極は死です、待ってくれない。「今死ぬわけにはいかないから、ちょっと3日待ってくれ」と言っても、「じゃ待ちますよ」とは言いません。たった1人で死んでいくのです。その事実を見せてくださったのが亡くなった人です。先生は、「大事なことは病気になろうともならないとも人間は常に生きる意味、そして死んだらどこに行くのかということを必ず考えていないと絶望する」と言ったのです。それを田端先生は仏教用語で言うと、「後生の一大事」という言葉を使っていましたね。お寺があって教えがあって、教えを聞きなさいという方向じゃなくて、根本的に人間が持っていた問題をお釈迦様が、すべては縁によって起こってくるのが事実だ。つらいこと悲しいこと、全部あるのが生きるといういのちの内容だよ。だとするならば、どんな自分でも大事にして生きていく道をどうしたら体得できるかということで、いろいろ悩まれ考えられたのがお釈迦様で、それを「生活の苦悩のままでいただくことができるよ」と言った人が親鸞聖人です。仏事を回復するということは、一番近いところで言えば、亡くなった人に手を合わせるということは、亡くなった人を偲びながらそこに生きるという意味を問うてくださっているということをはっきりさせることです。
 お盆のときに、提灯を出して先祖を大事にしたい。ところが何で提灯が要らないのか。浄土真宗の門徒は冷たいという人が居ます。門徒さんの家に行くとちゃんと提灯が出ていて、「親戚からもらったからいいですね」と言うのです。そのうえにナスとキュウリが割りばしに刺さっている。「先祖が帰ってくるのを大事にしているのですから」と。でもそういうことを言っている人がこういう質問をしますよ。「お盆中にお数珠が切れたのですけど、何か大丈夫ですよね?」と、先祖が帰ってくるのに何でお数珠が切れて悩むのです。お盆というときに切れたら不吉なのでしょう。それは縁だから。ひもの寿命がお盆の日とあっただけじゃないですか。ところがそうは思わないのですよ、人間って、うまく行っているときに先祖が出てこないのです。「あなたが成功しているのは三代前の先祖がおかげだ」と言うと、「ふざけないでください。私の努力です」って言います。うまく行かないときに出てくる。先祖を大事にしていると言っているそばから先祖を祟っているのです。こういう構造がものすごく強い。お盆の本当の意味は、「逆さまにぶら下がった苦しみ」っていうのがお盆です。中国で生まれた『盂蘭盆経』というお経があるのです。それが大体行事になっている。盂蘭盆経の内容は何かというと、「死んじゃったお母さんはどこに居るのかな?」と言って、目蓮というお坊さんがお母さんを捜しにいく話です。お経というのは全部比喩、例え話で書いてありますから、例え話の中に何が真実かを読み取っていくということが大事です。お母さんはどこに行ったのかという旅を始めて、お母さんを発見するのです。お母さんは餓鬼道に居たのです。地獄・餓鬼・畜生というのは一番の苦しみの世界ですね。「三悪道」と言って、餓鬼というのは欲求不満の世界です。何をやっても満たされないということです。そこにお母さんが逆さまで宙ぶらりんになっているのを見て、お母さんを救い出したいじゃないですか。そのために一生懸命お母さんのために供養をするのです、「母のために」。そうしたらそれが全部炎となって消えてしまって、まったく役に立たないときにお釈迦様に相談したら、お釈迦様が、「お坊さんが七月十五日に」、安居と言いまして、雨期の間の三カ月間、山に籠もって修行をするのです。それに降りてきたときが七月十五日。これを「中元」という言い方をします。中元の日に降りてきて、「そのお坊さんに供養してもらいなさい」。つまり、お坊さんに対して、「ありがとうございました」と布施経をするわけですね、そうしたらお母さんがまっすぐになったという話です。どういうことかと言うと、中国では布施経の大切さを言っているわけです。たぶん、「お中元」というのは物を渡すということから、「お中元には物を渡す」という伝統が生まれたのではないでしょうか。そういうことだと思います。そういうようなお話にいろいろなものがくっついて、日本に入ってきて、先祖が帰ってくるということになったのです。学問をやるわけじゃないので簡単に言うと、餓鬼道というのは欲求不満の世界です。じゅうぶん満たされないという意味です。それを象徴的に表すのが、物は食べられない、物は飲めないという飲食が不自由である。真宗のお寺にはないけれど、餓鬼道児と言っておなかがぽこっと出した痩せこけた子どもが居ます。あれは餓鬼道に落ちたという意味です。だから先祖が逆さまになって、物が食べられない、飲み水が飲めないから、いわゆるお仏壇の前にそういった食べ物や飲み物をお供えして、先祖が食べに帰ってくるのです。食べに帰ってきて、お坊さんがお経をあげて供養して、「はい、あんた。もうまっすぐになったから、お帰りください」と言うのです。行きは間違いないようにゆっくりゆっくりと、ちゃんとゆっくりかみしめて、隣に行かないようにということで行きはナスで、ナスの牛でゆっくりゆっくり見渡してくださいと。帰りはまっすぐになったのだから、いつまでも霊がここに居てもらっちゃ困るから、帰りはスピードを出して帰ってもらいたいから、馬を用意して、キュウリなんですね。
 もう一回浄土真宗の教えに戻ると、仏教の本質に戻ると、亡くなった人の姿を通して、いのちを考えさせていただくということですよね。そういうことを考えたときに、今の話はどう思われますか。僕は必ず「亡くなった夫は、亡くなった父は、亡くなった母は、餓鬼道に落ちてませんと、あなたたちは言えますか」ということをはっきり言います。「何で餓鬼道に落ちているのですか。ふざけないでください。ただ亡くなっていったのじゃなくて、いのちはどうなっているのかと問うてくださったのが仏様です。失礼なことを言わないでください」と言ったらこの問題は解決します。 ところが死後の世界を勝手に想像して、勝手に亡くなった人を「落ちている」と言われて動揺するということは、私たちの生き方がおかしいということです。餓鬼道なんかに落ちていません。餓鬼道に落としているのは私たちです。 つまり私たちが餓鬼道に落ちた生き方をしているのに気付かないから、亡くなった人をも餓鬼道に落とすのです。自分の中では善意を持って一生懸命供養するのです。それがお盆だというわけでしょう。でもそうやって自分の方向から亡くなった人のためにと、やればやるほど、実は迷いの中に落ちていくのです。「そのあなたの姿を見てごらんなさい。なぜ亡くなった人を仏様と言えないあなたがそこに居るの?」と、こういうふうに問われているのです。


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(2015 年 4 月 22 日)