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第49号法話

カテゴリー:法話集    更新日:2009 年 6 月 1 日

 現実には、お墓ばっかりお参りしている。そういう人と話をすると「みんな、お墓だけ参っているけども、浄土真宗の御門徒だと言いながら、実際は浄土真宗じゃなくてお墓宗になっており、そして浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来様が御本尊になっているけども、みんなご遺骨をご本尊にしているのではないか。」そんなことを、いくら私がお話しても住職の言うことはいい、石材屋はそういわない、お墓を建ててそれをよう水で洗ってお参りしなさいとこう言っていたから、それが現状のかたちじゃないかなとこう思っとります。
 それほどお墓お墓とお参りされるのです。ところが2~3年前のNHKの紅白歌合戦のとき「千の風になって」という、歌が流行ったのです。
 「千の風になって」という歌は、どんな歌かというと「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。千の風に千の風になってあの大きな空を駆け渡っています」こういう歌が歌われて、まあ大ヒットしたのです。
 それが今年「私はこの『千の風』という歌が好きではありません」と、こうおっしゃる方があったのです。そのことをちょっとお話したいと思います。
 ことしの7月10日に東京大学の特別名誉教授、物理学者の戸塚洋二先生が60代で亡くなられました、
 その先生が亡くなられる前に、文芸春秋の8月号に評論家の立花隆氏と戸塚洋二先生がガンについて対談されたのです。題は「がん宣告『余命十九カ月』の記録」という題で文芸春秋に掲載されたのです。そして7月10日に発売になった、その日に戸塚先生が亡くなられたのです。
 翌々日に青山の葬祭場で葬儀が行なわれました。そのとき、この戸塚先生の恩師だった、前にノーベル賞もらわれた小柴先生が弔辞を読まれました。
 「あんたとこう別れるけども、あんたがもう18カ月生きておってくれたならば、日本の国中が大喜びしただろう」と、こういう弔辞を読まれたのです。ことしは10月にノーベル賞物理学賞を日本の物理学者(南部先生、小林先生、益川先生)3人の方がノーベル賞を受賞されました。そしてその翌日に下村先生という方が化学賞をもらった、4人の方がノーベル賞もらったのです。
7月12日の戸塚先生のお葬式のときに小柴先生が「お前がもう18カ月生きとったら日本中は大喜びしてたろう」というのは、来年のノーベル賞はあんたに来るだろうということを小柴先生がおっしゃっておられた。それほど優秀な人だったのですけども、この戸塚先生が亡くなられるときですね。その後、「あと三ヵ月 死への準備日誌」という、これが文芸春秋の9月号に載りました。
 この中で戸塚先生がおっしゃっているのです。「大ヒットした千の風になってについて大変申し訳ないと思いますが、私はこの歌が好きではありません。この詩は生者が想像し、生者に送っている詩にすぎません。生きた人間が生きた人間に言うだけの話であって、ほんとうに死者のことを痛切に感じているのかどうか疑問に思ってしまうのです。ほんとうに死んでいる人間が、そんなこと死んだ人間がそんなこと言えるはずはない。死を宣告された身になってみると、完全に断絶された死後このような激励の言葉を家族、友人に送ることはまったく不可能だと思います。死んだ者が『お前。私は千の風になって空飛んでいるのだ』なんてことを言えるはずがないというんです。あれはだから、生きている人間が勝手に想像した想像でしかないのだ」と、だから私はあの歌は好きでありませんと戸塚先生は書いておられるんです、私はその通りだと思います。そうでしょう。
 私どもは死んで風になる、お墓の中に納まっているのか、だれもなんともいえんでしょう、死んだあとのことは、これは私どももいかにも分かったように思っておるけれども、事実はなかなか言えないのですね。
 親鸞聖人から数えて8代目の蓮如上人が、今日の真宗の宗門を築かれた方なのですけども、蓮如上人がよく私どもに書き送ってくださった御文さまというものがございます。これはお葬式のあとによく読むのですが「白骨の御文」、というのがあるのです。
 「ひとたび無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり」。以前、聞かれたことあると思うのですけれども、これはみんなよく知っておられるのです。
「ひとたび無常の風きたりぬるれば、すなわち、ふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえなれば」こういわれると、ああ、まったくそのとおりだとこう思うのです。
その御文の一番最初のほうが
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」。
 人間の浮生なる相、人間は枯れ葉のようなものであるという、人間の不肖なる姿をつらつら感じる。およそはかなきもの、はかないものだけれども、この世の始中終、幻、人間の姿をよく見てみるとあらゆるものがはかないのだけれども、その中でも始中終、幻のごとくなる一期、一生涯だと、これは何かというと、「始」というのは始まりです。
 あんたなんで生まれてきのだと言われたときに、どう答えたらいい? 自分で生まれたくて、おれ人間に生んでくれと立候補して生まれてきた人は一人もいないのです。
 その次は「中」、現在のものです、私はみんなよく知っているつもりだけれども、本当にお互いの腹の中なんか見えません。それから世の中のことであっても、こういう考え方こういう考え方一つとして同じ考えというのはありません、みんな別です。あるいはほんとうに見えるならば事実は一つしかないはずなのです。そんなことはありません。
 「終」、私も必ず終わりが来ます。必ず終わりが来ますけども終わったらどうなるのか、いや、それは消えますと、こういっている、この始中終、それが人間の一生涯なのだ、これは人のことだけじゃなくて私自身もそうなのです。
 私自身も「なんでおまえ真宗の寺の長男に生まれたのだと、何度聞いたか分かりません。それからお参りは必ずしますけれども、やがてどうなるのか私には分かりません。
 だから私は今、生きておるということは私の考えで、この世の中に生まれてきたわけでもないし、私の考えで死ぬわけでもない、みんな私の思いを越えてこの世に生かさせてもらい、そのことを私どもに明らかにしてくださったのが親鸞聖人です。
この戸塚先生がまた、おっしゃっていることになるのです。
 いよいよ命が終わるときになって、死が怖ろしいというのです。それで夜、頭を枕に付けた途端にいろいろな思いが出てくる、一体死んだらどうなるのだと、死ぬときはどんな苦しみで死ぬんだろう、おれが死んだあとはどうなるのだろうか、いろいろ考えていると、それに反問、苦悩すると、どうにもならんほど反問している、眠れないぐらい、だいたい人間は死ぬと言うことは決まっているけれども、死んでどうなるか、自分の葬式を見ることはできないと、こうおっしゃっています。
 なんだかんだといっても自分自身の葬式というものをみることはできない、ということは死についてまったく考えても考えても分からない、そのことを思うと夜、頭を枕に付けた途端にいろいろな思いがわき上がってきて苦悩するのだと、
これは戸塚先生だけじゃありません、私どももそうです。
 もう私自身が70を超えた歳になりますと夜、トイレに起きて、さあまだ時間が早いからもう一眠り、眠ろうと思って床につくけれども、あれやこれや思うと、何か身も世もない思いにさいなまされてしまって、どうにもならない、そのことを私どもの先輩である先生、清沢満之という先生なんですけれども、この清沢先生が「畢竟、人間の苦悩というのは妄念の幻の影に過ぎず」、いろいろ苦悩、苦悩と言うけれども、その苦悩は何かといったらあれを思いこれを思いする、思いでどうにも解決付かない妄念の幻の影に過ぎない、妄想の「妄」です。
 これが苦悩、それなら、その妄念をなくしたらいいじゃないか、戸塚先生はそれを何とか、その妄念をなくそうなくそうと一生懸命になるといっておられるのですけれども、なくそうと思っても妄念をなくすわけにはいかんです。
 もう、私どもはそんな、こんなこと考えないでおこう、考えないでおこうと思っても、次から次へといろいろな妄念が出てきて、死んだらどうなるんだと、おれの葬式はどんなのを出すんだと、もういろいろなことを思われて苦悩する、その苦悩をするときに、じゃあその妄念をなくしたらいいじゃないかという、そのことを実は私ども先人の善導大師という方が、
仏心、仏の心というのは、大慈悲、仏の心というのはお慈悲のことなのです。
 私は苦悩から出る縁も離れる縁も一切ありませんということに気がついたときが、南無阿弥陀仏の、南無それがお慈悲だと、つまり「如来大悲の恩徳は」、如来の大悲と恩徳というのはそのことに気がつかさしてもらったときが人間の救いになる、南無阿弥陀仏、で夜、寝て起きてあの妄想、この妄想にさいなまされたときに南無阿弥陀仏と念仏を申すときに、その苦悩を越えることができる、なくなりはしない、苦悩はなくなりはしないけれども、この苦悩から離れることができないかなということ、南無阿弥陀仏といったときに、人間はその苦悩を持ったなりにそこに助かっていく、またもっといってみるとお墓の前にして、死んだおやじは助かっているだろうか、迷ってないだろうか、おふくろは迷っていないのだろうかと思うのは私の苦悩です。
 そうでしょう、私があれこれあれこれと思うわけですから、それが念仏を申すときに、越えることができたときに初めて私がお念仏をするときに、私の思いで迷わせておった、亡くなった人たちがすべて助かる、だからほんとうに亡くなった人を助けるのは、私やお念仏、南無阿弥陀仏とお念仏を申したときに助かっている、まずわが身が助かる、それが助かったときには恩を報すべし、報恩の心でというのはそのことなんです。
 だから私がお念仏を申すということは、これが亡くなった方への何よりの供養になるし、そのことがなくどんなにお墓の前でお参りしてもこんなお墓の中に眠ってないで千の風になって飛んでいるじゃなかろうかという、また新たな思いの中に引きずり込まれてしまって、そうでなくて私自身が迷わせておったのだということに気がついたときに、今度お墓の前にいったときに、私が南無阿弥陀仏とお念仏を申すときに、この私が今、ここに生かさせてもらっていることの、それが私の浄土という、私は今ここにいるのは私の考えで自由にできない、私の考えを越えた無量寿の命を私どもは生かさせてもらっている、そのことに気がついてもらいたい、
今私が生かされてもらっている命に、おかげ様でということですね。そこに頭が下がるという、そのことは例えお墓に、お参り、私自身が今、生かさせてもらっていることに気がつかさせてもらったことに、その私を今日、ここにご縁あらされた父親の前に、母親の前にお爺さんお婆さんの前に無条件におかげ様でございましたと頭が下がっている、それがほんとうのお墓参りなのです。
 どうこうしてくれとか、迷わないでくれと頼むのがお墓参りじゃありません。だって私自身がその命を頂いたこのご縁が父親であり母親でありおじいさんでありおばあさんである、ご縁の前に南無阿弥陀仏と頭が下がる。それが真宗の教えじゃなかろうかなと、このように思います。
 それで私は本山に来ますと、ちょうどお勤めの時間にお参りして、感じたのです。普通、私たちはお勤めというのは仏様にあげるものだというふうに思っていますが。わたしが本堂に座って居ると、丁度内陣から親鸞聖人のお言葉が私に響いてきて、ああなるほど、お勤めというのは、こっちが仏さんに向かっているんじゃなくて、親鸞聖人のお言葉が聞こえてくるんだということを気付かずに居り、なんとも心地よくボンヤリと聞いていると、ハッとして気付かされた聖人の誠の声が聞こえてきた。申し訳ないと感じたのです。真宗のみんなが御門主を中心に、満座になって親鸞聖人の教えを聞いている、それがお勤めのかたちになっているのではなかろうか、このように思われたことでございました。
            ありがとうございました


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(2023 年 7 月 12 日)