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第28号法話「六道を超える道」

カテゴリー:法話集    更新日:2004 年 11 月 1 日

本多 雅人師(蓮光寺住職)

2004年4月29日 源信寺本堂にて

これはすごいことだと思います。世の中は「明るく前向きに」という価値観です。うまくいっていればそれでいいです。しかし、帯津さんはそんなことは言っていないのです。真宗は凡夫だとか、親鸞は「私は地獄が自分のすみかだ」と言っているのです。「暗い教えだ。地獄に行きたくないのでしょう」と。親鸞の本を読んでいくと、「私は地獄行きが決まっています」と書いてあります。それはそうです。六道の価値観から見たら、全然価値が出てきません。多くの宗教は六道をくすぐる価値観です。「あなた、地獄から出られますよ」。親鸞聖人は違うのです。「地獄が私のすみかだ」と言っているのです。帯津さんがそれと同じことを言っています。
「私が外科医の時は、心の問題はあまり頭に入れていなかった分、今の病院を始めて非常に心の問題に関心を持つようになりました。心の問題は最も大切です。人間とは何か。悲しくて寂しいということを私は思いました。生きる悲しみと向き合って生きる人が多くなると、絶対に命の場のエネルギーが上がります。私たち医療者でも生きる悲しみが全く分かっていない医者がいるのです。生を謳歌しているだけで」、これは「六道の世界に閉じこもっていて」という意味です。「こういうのが医療者になってもしょうがないのです。こういう医者が多いと、命の場のエネルギーが上がってこないのです。データだけ見て、『あなたはこうです』というのは絶対駄目です。明るく前向きにということに溺れることなく、やはり人生は悲しい、生きることは悲しいということを時々思い出しながらやっていくことが大事だと思います」。人間は悲しいということは生きる力になっていくのです。六道にいたら絶対分からないことです。「地獄が私のすみかである」ということが生きる力になっているのです。「私は凡夫である」ということが生きる力になっているのです。医者が言っているのです。親鸞聖人の教えを発明したのではないのです。そこにはちゃんと仏法が流れていると思います。
 「それから、私たちの未来にあることで確かなことは死ぬことだけです。だから1回死に目を向けるということです。それによって希望や生き甲斐が生きてくる。死からこちらを見ると、生がよく見えてくる。そういうことがあると思うのです。死から目を背けないということが大事なことになってくるわけです。そういうことでガンの患者さんと話をしながら、病気であろうとなかろうと」、われわれが生きているということはこういうことですよと医者が言っている。その中で、ガンになった患者と大きな病気の中から命を考えて、ガン治療をしようねと考えている。こういう医者がいるということは素晴らしいことだと思います。
 この前に対談しまして、そのことについて書いてあります。具体的に、自分にとって仏法はどういうことかを感じることです。六道の感覚だと安直な道に行きます。人間は弱いものだから、「あんた、ガンを治してあげるよ」と言われれば、絶対入っていきます。みんなそちらに行ってしまいます。そうではない。ガンのままで生きられる世界です。なぜかというと、「生老病死」だから。これは非常に大事なことではないかと思います。「死」は悪いことではないのです。ですからお彼岸は亡くなった人と連結したわけです。亡くなった人がそういう道を作ってくださったのでしょう。だから仏さんなのでしょう。そこに彼岸にお墓参りをするという・・・・・・皆さん、これから亡くなる人が出てくるかもしれません。お孫さんがいたら絶対に死と向き合うチャンスを作ってあげてください。現代は、特に死が見えなくなった。戦前は戦争とかいろいろなことがありました。今、亡くなっても病院でちょっと見るだけだし、孫が離れて住んでいますから、今の若い子は死を見ることがほとんどない。火葬場に行ってもホテルみたいでしょう。骨壺にはいってしまいますね。全然死を見ることがない。生を考えるうえで、今、死を見るということが本当に大事なことなのです。ここに文章がありますので、ちょっと読んでみます。僕が書いた文章で大変恐縮ですが、「一般に回向というと、追善供養と同じ意味で使われています」、これは一般のお墓参りです。つまり生きている者が亡くなった人のために何かをしてあげるということを回向と考えているようですが、本当にそうでしょうか。皆さんも多分そういう問題を抱えていると思います。それは子供に死の姿を見せることがいいことかどうかということです。ある門徒さんのおばあさんの枕勤めでのことです。ご両親に「娘はおばあさんのことが大好きだったので、死に顔を見せたくない」と相談されました。死に顔を見て、娘さんがショックを受けることが心配だったのでしょう。しかし、私は「ぜひ見せてあげてください。そして一緒におばあさんからのメッセージを聞き、命について語り合いましょう」と言いました。不安な面持ちでご両親は娘さんを呼び、おばあさんに対面させました。案の定、娘さんはショックを受け、どっと泣き出しました。しかしこの瞬間、初めて娘さんは死と向かい合ったのでした。そして、死は人間だれでも人生の完成として与えられたものであり、いつ何時訪れるか分かりません。だからこそ、いつ死が訪れてもこれが私の一生だったと言えるような生き方をしてほしいというおばあさんからのメッセージを聞き取ったのでした。それは寒さに震えた人ほど、暖かさのありがたさを知るように、死を受け止めることが生を輝かすことだと知ったのでした。更に、娘さんの命は単に娘さんだけのものではないことにも気付かされたのです。おばあさんとおじいさんとが結婚してお父さんが生まれ、お父さんがお母さんと結婚して娘さんが生まれたのです。ですから娘さんの命はおばあさんの命とつながっていて、支えられていたのでした。もちろんおばあさんにも両親がいますから、そうやって遡っていくと、娘さんの命は今までのすべての命のバトンを引き受けて存在している、何事にも代え難い天下一品の命だったのです。「天上天下唯我独尊」だったのです。どこまでも死を避け、結果命を軽んじて生きている一人一人に、おばあさんが諸仏となって語り掛けていたのでした。もっと言えば、真実の命に目覚めてほしいという南無阿弥陀仏からのメッセージを伝えてくださったのでした。」「おばあさんの死という悲しみを縁として、」、先程も「苦しんで、苦しんで苦しみ抜いて」という言葉がありました。同じです。
「死という悲しみを縁として、娘さんのみならず家族のすべての人が、亡くなった人の日を『命の日』、命日としていただいてきた深い意味を初めて知らされたのでした。」、一般社会では死亡年月日と言います。仏教の世界では亡くなった人の日を「命の日」と呼んでいますね。
「その深い意味を初めて知らされた。そのことにうなずくことがおばあさんへの本当の供養、「讃嘆供養」だったのです。」。だからお彼岸でお墓参りをすることは、別に先祖をないがしろにはしていないけれども、本当に供養をするということはこういうことだと思います。
 「生きている者から回向できることは何一つなかったのです。回向とは真実から私たちへのメッセージだったのです。」、「七歩目からの声だった」と置き換えてください。「七歩目からの声、メッセージを私たち真宗門徒は「如来の回向」としていただいてきたのでした。
 最近青少年の犯罪が社会問題化していますが、学校・家庭・地域、命について語り合うような空間がどこもなくなってしまったのが現代ではないでしょうか。現代は命が見えなくなってしまいました。これは青少年だけの問題ではなく、あらゆる人たちが抱える問題なのです。現代の深い闇を破って、命を回復していく唯一の道が如来の回向、七歩目の声として私たちに開かれていたのです。」。
 「生老病死」の命である。その命を本当に生き切るということを七歩目の声から受け取ることが、苦悩の現実の中で生きていくことができるということを証明したのが親鸞聖人です。ですから、七歩目の声を念仏といい、その七歩目の声の世界を「浄土」と言います。浄土という世界をぜひよりどころとしてほしいといって呼び掛ける言葉を「念仏」と言います。浄土を本当のよりどころとして、七歩目の世界をよりどころとして生きる、真のよりどころとして生きる私たちの世界を「浄土真宗」と言うのです。これはお釈迦様が作ったものではないです。発見したものです。どこにでもこういう仏法を感じることができます。
 これはドナルド・ウイニコットというイギリスの精神科医がこういうことを言っている。僕は、浄土を言っていると思いました。去年に出会った言葉ですが、僕の心にすごく残っています。素晴らしい言葉だと思って、すごく大事にしています。響くということが大事ですね。ちょっと読んでみます。
 「子供というのは信頼している人のそばだけで一人になれる」、信頼している人が横にいたら、一人になっていないではないかと言うかもしれませんが、そうではないです。一人になれるのです。どういう意味かというと、芹沢俊介という社会評論家がこういう比喩で言っています。
 子供がお砂場で遊んで、横にお母さんがいる風景を思い浮かべてください。お母さんがいると、子供はお母さんがいるという安心感を持って、お砂遊びを一生懸命一人で没頭できます。たった一人で楽しんでいます。完全に一人になりきれています。この場合の一人というのは独立者。何も足さない、引かない、お砂場と一つになって生き生きしています。ところが、お母さんがお砂場からそーっと去っていったとします。子供が「ママ、このお砂ね……」と言った時に、視界からお母さんが入らなかった瞬間に、今まで楽しかったお砂遊びどころではなくなって、「わー、ママ」と泣き叫ぶでしょう。これは何を物語っていますか。お母さんというのは比喩です。一つのたとえ話だと考えてください。お母さんが浄土なのです。お母さんというよりどころをなくしてしまうと、楽しいはずのお砂遊びが空しいものに変わるのです。お母さんという支えがあるから、初めて楽しいものが楽しくなるのです。レクリエーションでみんなと一日楽しんで、「じゃ、またね」と家に帰ってくると、何か疲れる。楽しいはずだったけれども、どこか空しいということがありますね。 自分では発見できないけれども、人間はよりどころを持っていないと駄目になるのです。なおさらガンやリストラになった、家庭不和が起こったといえば、もう投げ出しです。楽しいことをやっていても泣き叫ぶのです。楽しくない現実があったら、もう生きられないでしょう。浄土という、つまり七歩という世界をSさんは持ちました。「しかし、僕は完璧ではありません。迷う凡夫だから教えを聞きにいく」。この世界を持っているか持っていないかです。現代は浄土を見失ったのです。浄土がなくて、一本のレールで、名刺に書いてあるような肩書きを持てれば幸せだと言っているだけの話です。そんなものは、なくなった時に何の役にも立たないのです。絶対に仏様との物差しを持っていないと、僕らは生きられません。これを七歩目の世界というのです。
 それと同じことを清澤満之も言っている。こんな難しい言葉を使わなくてもいいのです。そういうことが分かれば、4番の文章も読めます。「われわれが世にあるに当たっては、必ず一つの完全なる立脚地を持たなければならない」。要するに、七歩目の声を知らせてくれる「立脚地」という意味です。「もし、これなしに世に処し、事をなそうとするのは、あたかも浮き雲の上に立って威厳を演じようとするもののごとく。転覆することは免れない」。お母さんというものを失ってしまったら、その子は浮き雲の上に立って演技をしているようなものである。踊らされているようなものである。浄土があるからと思ってぱっと横を見てみたら、お母さんがいなかったら転覆しているではないか。そうでしょう。難しいことを言っているようですが、全く同じことを言っているのです。これは大問題ですけれども、本当のよりどころとは何であろうか。具体的には死という問題が大きな問題となっていると思います。青少年犯罪が多いと言いますけれども、青少年だけの問題ではないでしょう。通夜葬儀に行って塩をまいているのです。大人がいい歳して、お清めをやっているのです。平気で葬儀屋もやっています。みんな死を覆い隠しています。せっかく大切な人が亡くなって、正面から死を迎えられる時に、葬儀屋が、「いろいろな人がいますから塩をまいてください」と、六道から叫ぶのです。僕は「塩なんかいらん」と言います。そういう意味で、全部仏事は本当に自分が生きるということはどういうことかを明らかにするために、彼岸があり、法事があり、お盆があって、いろいろな行事のかたちで、私たちに7歩目を呼び掛けるのです。「生老病死」の中で一番嫌なことは死んでいくことですから、たった一人で裸になって死んでいくのです。僕もそう。間違いはありません。百年後はだれもここにいません。ご心配なく。皆さん、堂々と死んでいけばいいのです。こんなことを世間で言ったら、「縁起でもない」と大変な問題になります。僕が四十九日に必ず、「この中で次はだれが死ぬのでしょうか」。そうすると、みんな考えてしまう。死んでみなければ分からないのです。ということは、この中で次に死ぬのはだれかと言ったら、全部等距離。死ぬためには一つ条件があります。死ぬ「縁」に合わなければ駄目です。例えば、イラクに行って捕まって殺されたら、それが「縁」になるのです。一歩ここを出て、車が突っ込んできて死ねば、それが「縁」になって死ぬのです。「縁」がなければ死ねません。死ぬことは「果」です。生まれてきたという「因」が与えられています。原因は生まれで、死ぬことは結果です。死ぬためにはどうしたらいいかというと、縁がなければ駄目です。縁がどういうのが来るか分かりませんよね。だから死までの距離は同じなのです。明日死ぬと思ったら、今日ここに座って息をすることだって大事でしょう。もう大事に息をしますよ。死を隠すから見えなくなるのです。こういう七歩の世界でなければ感じられないことです。そういう世界をいつも教えてくださって、「執」という捕らわれの問題から解放されていかないと、立派になる必要はないから堂々と生きていけばいいのです。飲んべえは飲んべえらしく、頑固なおばさんは頑固らしくと思います。最初にタイトルを見た時に難しいと思いましたけれども、これはけっこう良いポイントだと思います。「六道を超える」。これだけ頭に入れておけばいいです。「六道を超えていくということはどういうことか」。その一点を大事にして、常に聞法です。繰り返しだけです。分かってはまた元に戻り、分かっては戻り。実はそれが歩みとなるということがあると思いますので、聞法を大事にしていただければと思います。  (終了)


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