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第99号 真実の救い -愚かな凡夫の自覚-(1)

カテゴリー:法話集    更新日:2022 年 1 月 1 日

はじめに
今日は真宗門徒にとって一番大切な親鸞聖人のご法事・報恩講です。同時に、康裕さんが得度をされて入寺される決心をされて、一番大切な報恩講の場で入寺をする報告をされるという、誠におめでたい報恩講だと思います。
 私たちは生まれてきた以上救われたいわけですから、真実の救いとは何だろうかということを今日は親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀さんの教えに尋ねていきたいと思います。
 真実の救いとは何かというと、愚かな凡夫の自覚をすることが救いなのだと、愚かな凡夫だなと自覚した人たちが救われていったという、本願念仏の歴史がずっと続いているわけです。そういう人たちに続いて私たちも教えをいただいていこうと思います。源信寺さんの寺報も「おろかなり」ですよね。この愚かな凡夫というのは、人に言うことではなくて、自分が阿弥陀さんの呼びかけによって自覚することだから、阿弥陀さんが私たちに付けてくださったお名前が「凡夫」なのです。私たちが凡夫と言うと、「どうせ私は凡夫だから」と卑下をしてしまいますけれども、阿弥陀さんから「あなたは凡夫だよ」と言われると元気が出てくるのです。なぜでしょうか?不思議なことですね。
 真宗の教えは何度も聞き直すということが、非常に大事なことでありますので、源信寺さんのご住職さま、坊守さま、あるいは康裕さんご夫婦や娘さんと共に、一緒に教えを聞きながらこの内容を深めていっていただきたいなと思います。
 康裕さんは、入寺にあたって、慎重に考えながら僧侶になる道を選び、今後も地道に教えに学び、懇ろにご門徒と接していこうと決意されたことについて、親鸞聖人は「それでよい。生活を通して教えに出遇っていきなさい」とエールを送ってくださっておられることでしょう。私のように最初から寺の息子であっても継ぐことを相当悩みましたから、やはり在家の方がお寺さんのお嬢さんと結婚して、自分がこのお寺に入っていこうという決心をするのは並大抵のことではないと痛感します。ですから時間をかけながら歩んできたということは、もう確かなことだと私は思います。
 そういうことで、これから親鸞聖人が明らかにされた本願念仏の教えをいただいてまいりたいと思うわけです。
 さて、親鸞聖人は9歳で得度されて僧侶になっています。だから私のように元々寺の息子は、9歳になると無理やり得度をさせられまして、親鸞聖人も、頭を青剃りにして出家得度したのです。だから私も9歳のときには青剃りにして得度しまして、学校に行って頭をなでられてよくからかわれておりましたが、康裕さんのように在家から来た方は、その決心をしたときに得度されるのです。ですから私たち僧侶より決意がとても大切になってくるわけです。
真宗仏事の原点
親鸞聖人がなぜ得度され僧侶になられたのでしょうか。その背景には源氏と平家の争い、飢饉(ききん)や疫病、感染症、今もコロナの問題がありますけれども、そういう流行などがあって社会不安が増大したこともひとつの要因でしょう。 現代も非常に社会不安が増大していますから、こういう時にきちんと、生活の中から親鸞聖人が明らかにした本願念仏の教えを聞き開いていくということが非常に大事なことだと思います。ただ、そういう社会不安という要因もありますけれども、親鸞聖人はまだ9歳です。社会の事も考えないことはありませんが、ご自分にとって、どうにもならない問題を抱えられていたのだと思います。親鸞聖人にとっては、何といっても4歳の時に父親が、8歳の時に母親が亡くなっているということが得度の最大の理由だと思います。これは大変きついことだと思います。その死別した悲しみとともに、「死んでいくのになぜ生きるのか」「死すべき身をどう生きるのか」という誰もが抱える全人類的課題を、ご両親が次々と亡くなっていくという悲劇の中で、ご両親が、「生まれた以上、人間は必ず死んでいかなければならない」ということを若い親鸞聖人に教えてくださったのです。だから常に親鸞聖人の人生の中にはご両親が寄り添っていっしょに歩んでくださったのだなということを感じます。そして、両親の死をご縁として仏道にその問いを求めていかれました。私たちは、死んでいくのになぜ生きるのでしょうか。また死すべき身をどう生きたら、自分の人生に深いうなずきをいただけるのか。 これは誰もが抱える課題なのです。そんなこと考えないで面白おかしく生きてればいいではないかと言う人も中にはいますけれども、そう思う人はそれでいいかもしれませんが、面白おかしくなんて生きられないのです。最後は「老病死」に捕まりますから。つまり人生は思い通りにならないのです。生まれてきた以上は、長生きさせてもらえば老いに捕まり、病気に捕まり、そして死んでいく身です。だから、こういう身をどう生きていくことが、自分が本当に深くうなずけることなのかということを親鸞聖人は仏法に訪ねていかれたのです。この課題が「亡き人を偲びつつ亡き人をご縁として親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀如来のみ教えに遇う」という真宗仏事の原点になっているのではないかと思います。
 一般的には、仏事(法事)は、読経して供養すると言いますけれども、親鸞聖人の仏道から言えば、例えば、今日、皆さんの大切な方の法事だとします。その法事で読経してお参りして「供養できて、よかった。」で終わるのではなくて、同時に、亡くなった人が皆さんを、ここに座らせてくださって、亡き人を縁として、皆さんも死すべき身を生きていることを実感させられるのです。そして「どういう生きることが本当に生きたと言えるのか」と皆さんが問われている仏事なのです。お経は難しいですからご住職から法話をいただいて、それを聞いていく。そのことで、もし皆さんが、自分の人生を深く見つめ直し、教えに深くうなずいたならば、それが亡くなった方は一番喜ぶことではないですか。これが亡くなった人との向かい合わせになった法事です。だから本当の供養というのは亡くなった人が喜ぶこと、つまり皆さんが仏法聴聞することを供養と言うのです。それを「讃嘆供養」と言います。「亡き人によって、自分の深い迷いに気づかされて、ありがたいことだと」と讃嘆するのが供養なのです。ですから、今日は親鸞聖人のご法事ですから、親鸞聖人が明らかにした本願念仏の教えを聴聞し、それが生活のなかで私たちの生きる力になっていったら、親鸞聖人は喜んでくださいますよね。これが私たち真宗門徒の大切な仏事内容です。端的に言えば「亡き人を偲びつつ如来のみ教えにあいたてまつる。」これが大切な要で、このことは親鸞聖人が子どもの頃、ご両親を亡くされたという深い悲しみが真宗の仏事の原点になっているといただいております。
 人間の正体
 生活という言葉を何回か出しましたけれども、仏事を勤めている時だけが仏事ではないのです。その仏事を勤めたことが、生活の中で、教えが私に生きてはたらいてくださる。そういうことが起こらないと本当の在家の仏道にはなりません。 真宗門徒の生活というのは御仏事の生活なのです。生活全てが仏事です。お寺は道場ですから、道場で法話を聞いたことを生活という現場の中で思い出すことが真宗門徒の御仏事の生活といわれる内容です。親鸞聖人は、この死んでいくのになぜ生きるのか、死すべき身をどう生きるのかということを大切な問いとして比叡山に9歳で入山するわけです。
 親鸞聖人は29歳までの20年間、比叡山で厳しい修行をされましたが、どんな行を積んでも救われることはなかったのです。それは、戒律を守らないのではなく、人間の正体をごまかさなかったということです。これはどういうことなのでしょうか。仏教は迷いを翻して真実に生きる教えですけれども、親鸞聖人はどんな行を積んでも、迷いがなくならなかったのです。このことは、自分をぬきにして人ごとで聞かないことです。親鸞聖人は20年間、比叡山で修行したけれども覚りを得ることはできなかったということはどうしてでしょうか。これは、人間が完全に覚るということはあり得るのだろうかという問題なのです。ですから親鸞聖人は自身を通して、人間の正体をごまかさずに見つめたのです。人間には超えられない壁があるのです。つまり、迷っている身が迷いを超えることはあり得ないということです。親鸞聖人は、戒律を守れないのでなく、人間の正体を明らかにしてくださったのです。
そして、法然上人との出遇いを通して本願念仏の教えに深く帰依されました。比叡山での修行中にも、生活に追われている人たちが法然上人のもとに集まっているといううわさは聞いていたでしょう。また、特別な修行をした人だけが救われるのが仏教なのか、そうではなくて本当は誰もが救われるのが仏教であるならば、むしろ生活の中で苦しんでいる人たちこそが救われる道とは何か、そういうこともお悩みになっていたと思います。誰もが救われる仏教とは何だろうかと。そうすると、この本願念仏の教えと修行をしていく教えと、どこが決定的に違うのかということを私たちはしっかりといただいていかなければならないと思います。
 親鸞聖人が私たちに呼びかけてくださることは、思い通りになったら幸せになれるという自分の思い(自我分別)の世界から一歩も出られないのが私たちのあり方だということです。ですから親鸞聖人が修行をしたことは無駄ではなかったのです。修行をしても修行をしても、どうしても自分の思いというものが捨てられないと、そのことを、身をもって証明してくださった方なのです。
 皆さん、思い通りになったら幸せになると思っているでしょう?四六時中思いどおりになりたい、都合よく生きたいと思っていますよね。思い通りになったら生きてきて意味があったとか、それから生まれてきてよかったと、私たちはこう発想するわけです。この考えから出られる人はいますか。出られないではないですか。絶対に出られません。私も出られません。それで、逆に思い通りにならないと、生きていても意味がない、何で生まれてきたのだ、こういう話になります。これがよりひどい状況になった場合には、死にたいとか、考えてしまうのではないでしょうか。全部自分の思い、ものさしで、与えられた尊いいのちを自分の都合によって自分を駄目にしたり、喜んでみたり、一喜一憂して生きているのが人間のあり方ではないでしょうか。私たちは、ここから絶対に抜け出せないのです。本当に救われがたき身なのです。
 迷い私の身の上に、本願の教えが開かれる
 この近現代という時代は、多かれ少なかれ豊かになれば幸せになれると誰もが思ってきたのではないでしょうか。確かにそういう面はありますが、そこに人間の深い闇があるわけです。本当に豊かになったら幸せな時代になったでしょうか。 人間のエゴが暴走し、自然を破壊するだけ破壊して、ついに気候変動の問題が起こって、人間が住みづらくなってしまいました。それは人間の思いが招いたことなのです。自己中心的な人間の考え方が共に生きるという世界を忘れてしまっています。あらゆるいのちは、諸々の縁に依ってつながり合い支え合っているという真実を人間は見失ったのです。
 もちろん経済は大事ですから、経済そのものを否定しているのではありません。経済至上主義にひそむ人間の問題を指摘しているわけです。人間の思いによって形成された巨大な経済システムのなかで、経済的に有能な人間が素晴らしい人間だと知らず知らずのうちに誰もが思うようになったのではないでしょうか。年配の人がよく口に出すことですが、「私はもう役に立たなくなったから、皆に迷惑かけずに、できればころっと死にたい」と。これは逆に言うと、その人が、経済的な有用性、役に立つ人間が人間なのだという考え方で生きてきたわけです。ところがその考え方が、今の自分に当てはまらなくなってくると、自分で自分を裁いてしまうのです。だから思い通りになれば幸せになれる、この場合は生産性のある人間ならば生きている価値があるという、私たちの思いこみは、自分がそうでなくなった場合、自分さえも捨ててしまうのです。また、自分ではなく、他人を捨てる、排除するということもおこります。最近の事件としては、やまゆりの事件がありますね。容疑者は、障害者は経済的に使えない人間だから生きていても価値がない。安楽死させろというわけです。ひどい話です。経済的に価値がないと、生きていても意味がないと。人間は意味に縛られて生きているのですが、自分が持った意味を絶対化すると、殺してしまうこともできてしまうのです。だけど彼が特別ではなくて、阿弥陀さんから言わせると、あなたたち、もちろん私も、多かれ少なかれ、そうやって人を判断していませんかと呼びかけてくるのです。自我分別の世界は差別世界ですから、やまゆりの容疑者を一方的に批判して、自分はそんなことをしないと善人ぶっている私たちに阿弥陀さんは「本当か?」と呼びかけてくるのです。たとえ殺人までしなくても、経済的有能な人物を尊敬し、そうでない人を冷淡に見ている自分が思い知らされないと、どこまでも自分が愚かな凡夫だと気づかされることはないでしょう。
 人間の自我分別というのを絶対化すると、相手も切り、都合によっては自分をも切っていくのです。だから本当の人間関係が開かれてこない、その辺のところは非常に大事なところだと思います。だから救われ難き身なのです。私はこんな状況では救われないなと、教えられるのです。
 その人間が抱える闇を、親鸞聖人はごまかさずに明らかにされたのです。しかし、その思い(自我分別)を抱えたままで、それを超えた無分別(そのまま、ありのまま、無条件)の本願念仏の世界(浄土)が私の上に開かれてくるのです。ここが、本当の救いと関係してくるところなのです。
 阿弥陀さんの世界というのは分別しない世界です。そのまま、ありのまま、無条件の本願念仏の世界が私の上に開かれてくるのです。私たちの分別する世界を穢土、阿弥陀さんの無分別の世界を浄土というのです。ですから浄土は死んでから行くところではないのですね。この無分別の世界は、健常者であろうと障害者であろうと、お年寄りであろうと若い人であろうと、犬であろうと猫であろうと、あるいは桜であろうと桃であろうと、全て大きな分別のいのちから、ご縁によって生まれてきた、いのちだからどのいのちも尊いと教えられるのです。それが無分別の世界、浄土なのです。
 分別して自分の都合で生きていくという穢土の世界を生きる人間が自分の力で浄土に行くということはできないのです。分別して迷っている自分が、迷いを超えることはできません。ですから、浄土のほうから穢土に呼びかけてくるのです。戒律を守って自分が覚りに近づいていくという教えではなくて、私たちの生活そのものが修行の場所なのです。その生活の場で自分の思う通りにならないから苦悩するわけです。まさしく修行の場です。しかし、分別をもった人間は苦悩せざるを得ないのです。その苦悩の上に南無阿弥陀仏がはたらき出るのです。さきほどの年配の方の話から言えば、「かけがえのないいのちをいただいたのにもかかわらず、年を取ったからといって、自分のいのちを自分で台無しにしていたな」という気づかされ、教えに頭が下がるということがおこるのです。それが愚かな凡夫の自覚ということです。凡夫を自覚すると、自分の思いから解放されて、老いたままに、いただいた尊いいのちを生きていく意欲があたえられるのです。
 ある門徒のおばあちゃんが言っていました、「明日は私の人生にとって初めての朝です。どんな朝だろう、楽しみです」と。毎日同じ朝ではないのですね。どんな鳥がさえずっているだろうかと考えただけでも新鮮ですね。どんなことを感じるのか楽しみですねと。それは新しい自分との出遇いなのです。新しい自分が生まれ続けているのです。本願念仏の教えに生きる人の姿なのでしょう。(次号へ続く)


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(2023 年 7 月 12 日)