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第98号 「四十九日法要とは」

カテゴリー:法話集    更新日:2021 年 10 月 1 日

「四十九日法要とは」
 こんにちは。今日は人が亡くなって納骨するまでの間、四十九日。なぜ四十九日なのだというお話をさせていただきます。よく「お坊さん、なんで四十九日なの」とか。「三十五日でもいいのでは」とか。「中途半端 五十日でもいいのでは」とよく聞かれます。「皆さんいかがですか」四十九日はただ四十九日という日を決めたのではなくて、これには、はっきりした理由がございます。
 まず、亡くなってから四十九日までの四十八日、ここを中陰(ちゅういん)と申します。そして、四十九日目のことを満中陰(まんちゅういん)と申します。
 亡くなったその日から満中陰の四十九日目、その前の四十八日は満ちていないことになります。じゃあ、何が満ちていないのかと。それは、実は中陰とは陰でもなければ陽でもないという、中ぶらりんだという意味です。
 そう申しますと、たいがいの人が「あー、坊さん、やっぱり亡くなった人が、中ぶらりんなのだ、だから亡くなってから一週間ごとに初七日、二七日、三七日、四七日、五七日とお経を、あげて、亡くなった人を供養するのだ」と、ほとんどの方がそう申します。亡くなった人を早いこと浄土に行かせたいと。それから、化けて出てくるなと、そんなことばかりを申します。
 こんなお話を聞いた事があります。ある住職は、一週間ごとに一段ずつ階段を登るために、私が毎日、読経をして皆さんの替わりに供養することによって登り切り、閻魔様に地獄か天国か判断してもらうための期間です、と聞いたことがあります。皆さんどう感じますか。
 亡くなった人は、諸仏と、真宗は申します。即得往生(そくとくおうじょう)、亡くなって息を引き取った途端に仏だと。この仏というものの捉(とら)えかたに、多くの宗派と浄土真宗は違います。この仏をほとんどの人が、亡くなった人、死んだ人と捉(とら)えております。
 ところが、真宗はそうではございません。学ぶ人。私たちに、いろんなことを教えてくれる、そういう存在なのです。それを全て仏と申します。
 例えば、赤ん坊が生まれた。その赤ん坊を抱いて、「あー、ここに私と旦那の命が入っているのだ。いやいや、そうじゃない。この子には、私のお父さんとお母さん、旦那のお父さんとお母さん、もっと上のおじいちゃんとおばあちゃんも、みんなの命が、今ここに、この子に全部宿っているのだ。」と、その子を抱きながら、その命の尊さに気づいたならば、今、抱いている赤ん坊が仏です。
 ゆえに、亡くなった人を仏というのは、我々が、いつも意識していない。いつか死ぬことを、あすでもない、今日でもない、できるだけ自分の死を考えないようにしている。 それを頭から、それこそ、クギを打たれた様に、人は死んでから、さあ、見ろと教えてくれたのが、その亡くなった人なら、まさしく仏以外の何物でもないのです。ゆえに、真宗では、亡くなったら即得往生(そくとくおうじょう)=佛、と云い、亡くなった人が、うろうろと迷っているはずはないのです。
 じゃあ、四十九日間中ぶらりんで陰でもなければ陽でもない。地面に足がつかないでいるのは、誰かと云うと、それは、とりもなおさず残った、私も含めてシャバに居るすべての人を指しています。「えー? 坊主さま、そんなこと言うけど、わたしらは中ぶらりんではないですよ」と言うのですけれど、でも中ぶらりんなのです。
 こんな例をあげます。皆さん方も、私も、弔辞というのを聞いたことありますね。その弔辞は、生きている私が、亡くなった人に送る言葉です。そして、その弔辞の最後に、必ずこう付け加えます。「どうぞ安らかにお眠りください」と。どうでしょう。「眠れ」と云うのですよ。それも「安らかに」。「出てくるな」って、この言葉をテレビなどで聞くと、いつもおかしいなと思うのです。「今晩、恨めしい顔をして私の夢枕に立ってくれるな。どうせ立つなら、隣の憎いじいちゃんの頭の上でも立ってくれ」と。「安らかに眠れ」「起きるな」と云った同じ口が、自分の家で不幸な出来事とか、困ったことなど、問題が起きると、お仏壇の前や、お墓へ行ってこう云うのです。「どうぞ、見守っとってください」と。勝手な話でしょ。自分の都合のいいときは「安らかに眠れ」と。都合が悪くなると、「起きて見守れ」って。そして、もっとすごいのは「人が死んでしまったら、なにも出来ん、終わりや」って云うのに、その亡くなった人に「助けてくれ」と云うのです。勝手な話なのです。自分の努力が足らんとか、そんなことは一つも云わない。揚げ句の果てには、その嫌なことが、先祖のたたりとか、先祖が悪いとか、みんな先祖に、なすりつけてしまう。これが、私たちが中ぶらりんで、うろうろしているいい証拠です。
 もう一つ例をあげると、自分のおじいさんが、大きな山とか、広い田んぼとか残してくれた。今は、大きな山があったり、大きな田んぼがあっても、それこそ、いろんな経済的にお金を生みません。持てば持っているだけ、いろいろ経費が掛かって大変になる。「うちのおじいさん、でっかい山とか、田んぼ残してくれて、ほんとに、ろくでもない、何にもならん。ただ広いだけで」と云っていた人が、その大きな山と田んぼに、大きいスーパーのジャスコとかイオンとかが来たり。その残した山と田んぼに新幹線が通るようになった。大学が来た。毎月大きい、お金が入るようになった。途端にこう云うのですよ。「うちのじいさん、いいじいさんやった。じいさんが残してくれたおかげや」って。私の都合のいいように、なっただけの話なわけです。そう思うのが駄目だと言っているのでないのです。それが私たちの姿だということです。
 中ぶらりん、だからこそ、実は、この中ぶらりんの姿の、私たちをしっかり地面に足をつけ、私たちに気付かせて頂けるのが、この四十九日の期間なのです。
 ここに、仏教用語で六道(ろくどう)という言葉がございます。地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人(じん)、天(てん)という六道。ものの本によりますと、人間死んだら、この六道に入ると言いますけれども、実はそうではないと思うのです。
 この六道は、生きている、われわれの人の心を表すものだと。手短に申しますと、
・地獄とは、人と争う心、戦争を起こしたり、けんかしたり、人の悪口を言ったり、人を憎んだりする、地獄です。
・餓鬼とは、物をむさぼる心。「まだか、まだか」と。給料十二万円。あと三万円あったら十五万円になる。十五万円もらったら、それでいいかと思えば、あと一万増えたら、わしの小遣いが増える、など。これ、どれだけいってもきりがありません。たとえ億のお金をもらっても、何千億と稼ぐ者が「まだか、まだか」と、物を貪る。また、女性の人を例に申すと、申し訳ないですけれども。食事に行って食べて「あー、もうおなか一杯食べた、もう食べれない」って云いますが、自分の大好きな甘いケーキが、出てくると、こう云います。「これ、別腹」って。別に、腹が二つあるわけでない、一つしかないのに、これが餓鬼。
・畜生とは、たとえ親と兄弟、血を分けたものでも、時と場合によっては、ねたんだり、疎(うと)んだり、憎んだりしてしまう心。これが畜生。
・修羅、これが誠にやっかいな心です。皆さん、想像してください。今、自分の一番大事にしている方が、北海道旅行に行っております。今日、北海道から飛行機に乗って、羽田空港に帰ってまいります。テレビを見ていたら、テロップで北海道発、羽田空港着の飛行機が事故を起こしましたと、流れてきました。さあ大変です。急いであっちに電話、こっちに電話、どうやら自分の大切な人が乗っている飛行機でなかった。さあ、出てくる言葉は十人いても、二十人いても、必ず、この言葉が出てくるはずなんですよ。「あー、うちのお父さん、乗ってなくて、よかった」「あー、うちの娘、乗ってなくてよかった」と。愛情あるゆえに出てくる言葉ですけれども、よくかみしめてみてください。恐ろしい言葉なのです。何千人死のうが、何万人死のうが、構わん。自分の愛する人が、そこにいないことを、心底喜んでしまう。今、ここに、その飛行機に乗って息子さんを亡くした、お母さんがいても。その手を握って、「あー、いとおしい」。そう言って流してあげる涙も、本当に心からお悔やみを言って流す涙です。でも、その涙を流しながら、それでも、その飛行機に乗っていなかった、私の娘が生きて居ることを喜んでしまう。これが修羅です。ゆえに愛情と修羅は、一枚の紙の裏と表。同じものだということです。
・人(じん)とは、愚かさ、過ち、
・天、有頂天になる、のぼせ上がる。
 これが、我々の平生業成(へいぜいごうじょう)の姿だと。一品一葉、同じところにいない。こっち向いたら人になる、こっち向いたら餓鬼になる、上を向いたら畜生になる、歩いたら修羅になると。この六道のところを、ぐるぐる、ぐるぐる回っているだけの姿が、われわれの姿です。だからこそ、お釈迦(しゃか)様が生まれて、すぐ七歩、歩いて天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)と言った話が残っています。いくらお釈迦さんが立派な人でも、生まれてすぐ歩いて天上天下唯我独尊と言うはずがないのです。でも、その話が残っているというのは、その話の中に、きちんとした物事の教えが隠されているのです。つまり、今の場合は七歩目を歩いたというとこに意味がございます。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、この六道からどうぞ一歩出た世界に皆さん、おいでくださいという。じゃあ、この七歩目はどんな世界か。空を飛べたり、未来が分かったり、金もうけがうまいこといったり、自分が、うまい目にあったり、人の心を操(あやつ)れたり、そんなようなことではございません。
 今、自分が、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天のどこにいるかが分かるという世界です。そう言うと、ほとんどの人が「そんなこと分かったって何もならない」と言います。でも、今、自分が、餓鬼に落ちてると分かれば、今、ものが欲しい、これが欲しい、むさぼっていることが、「あ、これは餓鬼の心や」と分かれば十回に一回、二十回に一回、それをたしなめることができる。むさぼることを、やめることができる。また、自分を反省することができる。今、この人に投げ掛けた言葉が修羅の言葉と分かれば、十回に一回、二十回に一回、その言葉を飲み込むことができる。そのことを云わずにいることができる。また云ってしまったら「いかんかったな」と反省することができる。つまり、自分が、今この六道のどこに居て、そして、反省できる心を持つことが、実はこの七歩目の世界です。
 お経の中に「慚愧(ざんき)無き者は人にあらず」という厳しい言葉がございます。
 「慚愧とは」血の涙を流して後悔するということです。それくらいのことがなければ人は、人に優しくも、人として成長することも出来ないということです。
 初七日の間に、私の心の内に潜む地獄を学びました。二七日の間に、私の中に潜む餓鬼も分かりました。三七日の間に、なるほど私の心の中に畜生の心もある。そして、四七日には「あ、修羅の心もあるな」と。そして、七、七、四十九日目に、あー、なるほど、確かに私の心の中には地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の心が宿っていると。
 初めて分かったときに人は、反省できる心を持ち、地面にしっかりと足をつけていくことができる。そのことを先に命を失った人の縁を頂いて、その人が生まれて、生きて死んでいくという、そのことを見て、自分もいずれ死んでいかねばならん身であるから。だからこそ、きちんと地面に足をつけていかねばならないという、その期間が、実は四十九日までの中陰という期間です。
 その期間を別名「精進」とも言います。精進とは、実は鍛(きた)えよということです。仕事に精進せよ。武道に精進せよ。学問に精進せよと。それは、わが身を鍛えていくということになります。中ぶらりんの私を四十九日の満中陰がくるまでの間、生まれて生きて死んでいかねばならないという、生きて命のある者として、どうすることもできない。その自分の一生を、今一度、きちんと地面に足をつけて生きていくことを考える期間が、実はこの四十九日の中陰の間の期間でございます。
 それは、なにも自分の身近な両親や自分の子どもや、親族だけの死に当てはまるものではございません。自分の知り合い、自分の縁ある人が亡くなったとき、その度に、考えていく。そうしなければ、我々は、すぐ忘れてしまいます。私もそうです。出合う度に、出合う度に、もう一度そのことを考えていく。そのことが大切なのです。今日は、「四十九日とは」というお話でございます。ただ、ただ四十九日という、その数字があるのではないということを知っていただければありがたいなと思っております。
 ありがとうございました。


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