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第93号「親鸞聖人一代記」続編

カテゴリー:法話集    更新日:2020 年 7 月 1 日

落語  「親鸞聖人一代記」 落語家 三遊亭右左喜
 親鸞さんは大蛇となった川合兵部の妻を哀れに思い、阿弥陀仏の救いを説く浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)の全文字二万数千字余を、一字ずつ小石に書き込んで淵に投げ込んだ。そして浄土三部経を七日七晩読んだところ、大蛇は兵部の妻の姿に戻り、極楽往生することができたという。何とその時に、空から蓮華が降った。そこで、親鸞さんはそれを見まして、この辺を花見ヶ岡と付けて、今でも花見ヶ岡と呼ばれているのだそうでございます。
 実はこの蓮華寺(救われた娘が草庵を建てたのが、蓮華寺であると言う。)の本堂の裏手に立木があり、そこに大蛇を助けた池があるそうです。これが「親鸞池」と呼ばれている。この前に細い用水路が流れていて、その向こうに桜の木が一本あり、親鸞さんお手植えの桜の木と言われているのだそうでございます。この辺りは、実は蛇骨経塚と呼ばれている。脱肛というのは痔主ですけどね。蛇骨、蛇の骨と書いて蛇骨経塚。大蛇は、実は人間に戻ったのですけれども、この遺骸だけが残った。だから骨をここに埋めて、親鸞さんの経塚から蛇骨経塚と呼ばれるようになったのだそうでございます。
 もう一つ、大変に有名な短い話です、筑波山の餓鬼済度という話です。餓鬼って知っています? 餓鬼というのは六道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天、この六道を、われわれ人間、全ての生きものというのは、生き死にを繰り返すわけでございます。地獄はみんなよく知っていますね。苦しい世界でございます。次が餓鬼の世界。これは貪りの心、貪欲でございますが、こういうのがたくさん多いと、次の世は餓鬼に生まれてしまう。餓鬼というのは物を食べようと思ってこの口元に持っていくと、全部燃えてなくなってしまう。また水もしかり、同じでございます。大変に飢えと乾きに苦しい世界なのだそうでございます。欲張りの心がありますと、餓鬼になってしまうのだそうでございます。親鸞さんが筑波山に参詣にやって参りまして、夢の中に一人の童子が現れ、親鸞さんにこう言ったのだそうでございます。「私は筑波権現の使いである。明日、筑波山の男体山の下に三つの岩屋(洞窟)のうちの、真ん中の岩屋に来て頂きたい」というと、消えてしまいました。あくる日、親鸞さんは不思議に思いながら、その岩屋に行ってみると、そこには、大きな釜があるだけでした。親鸞さんはしばらくあたりを見回していると、岩屋の奥からやせ細った餓鬼たちがぞろぞろ出て来たのです。「私たちは前世人間界にいた時、大変に欲深くだらしない生活をしていたため、罰が当たって餓鬼道に落ちてしまいました。筑波権現のお慈悲でここに住まわせてもらっていますが、毎日、釜の水を一滴だけしかいただけません。二滴目を飲もうとすると水は火となって臓物が全て焼かれてしまいます。親鸞さん、どうかこの苦しみから救ってください。」と泣きながら何度も訴えるのです。親鸞さんは哀れに思い、「それならこれまでの行いを悔い、心を込めて念仏を唱える以外に道はない。」と諭しました。餓鬼たちは聖人の教え通り、一心に念仏を唱え始めました。二日二夜、餓鬼たちと共に念仏を唱え続けた後に、親鸞さんは餓鬼たちに「水を飲みなさい。」と言いました。餓鬼たちは恐る恐る水を口に含んでみました。すると、これまでのような苦痛がまったくなく、いくらでも飲めるのです。さらに一日念仏を唱えさせると、天空から五色の雲が岩屋に降りて来て、餓鬼たちを乗せ、西方の極楽浄土に向かって消えていったということです。男体山頂上の下、自然研究路の入口近くに大きな石があり、それは親鸞聖人が「餓鬼済度」をしたところと言い伝えられています。餓鬼済度というお話でございます。
 親鸞さんは実はこの後、貞永元年(1232)60歳の頃でございます。関東を旅立ちまして京都に向かったと言われております。なぜ向かったかといいますと、実はこのとき、鎌倉幕府が宗教弾圧をした。翌年でございます、1235年には鎌倉幕府から念仏停止令というのが出まして、大変なことになる。それを避けまして、親鸞さんは京都に帰ったのだという話もありますし、もう一つ。親鸞さんは年を取り。実は、『教行信証』を書くのに鹿島神宮という所に一切経という経典がある。また、大蔵経というのですが、これが仏教でいう経、律、論、この三つを書いてある。稲田の草庵から鹿島神宮まで大変距離があって、もう年だから辛い。そこへいきますと、京都には大きな寺院もあり、また、比叡山もありますからたくさん経典もあります。そこで調べて、完成させようというので京都に帰ったという箱根まで来て、親鸞さんはぴたっと止まりまして、性信に話したそうでございます。「すまぬが、性信、これから東国、関東に帰って、私の代わりに関東に真宗の教えを広げておくれ」とこう事を言ったのだそうです。性信が「私も京都までずっとお供をいたします」「苦楽を共にしたおまえと私であるから言う。おまえに頼むのだ。頼むから関東に戻ってこれを広めておくれ」と、親鸞さんが言いますと、背負っている笈(おい)、今のリュックサックみたいな物。これを下ろしまして、「さあ、私の形見だ。これを持ってお行き」、こう言われた。実は中には親鸞さんが書きました『教行信証』が入っていたのだそうでございます。これを性信に笈ごと渡したのです。その地名を笈平。そこに石碑が建っているのです。「性信決別之地」と書いてある。これは、真宗以外の人間は全然分からない。だから性信は、その笈を背負いまして関東に戻って行きました。そして報恩寺を造り、坂東本といわれる『教行信証』がここに残っているわけでございます。実はこの笈も全て残っているそうです。今は東本願寺の本山に所蔵され国宝になっています。
 親鸞さんはこの関東を別れまして、京都のほうに戻ってまいります。すぐに四条 西洞院という所に新居を構えます。ここで親鸞さんは京都で何をしたか。布教活動はほとんどしなかったのだそうでございます。執筆活動ですね。和讃を書いたと言われております。三帖和讃といいまして、これは『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』、を書きました。また関東の人々と、手紙のやりとりをいたしました。『末燈鈔』また『御消息集』と呼ばれております。実は親鸞さんは、あんまり京都で話が残っていないのです。
 ただ一つだけ悲しい事件が残っている、長男の慈信房善鸞を義絶したという話が残っているんです。親鸞さんが関東を離れましてから、いろんな話が出る。そうすると、何かもめ始めたのだそうでございます。親鸞さんへ手紙を書く。もう一度、関東に戻ってきて話をしてもらいませんか、という手紙が来た。親鸞さんも70を超えておりましたから、「いや、それもな。私も年でございますから。そうだ、私に長男がおりましてな、慈信房善鸞というのが。これをそちらに派遣をいたします」。善鸞は40ぐらいです。これを派遣いたします。ごたごた起きましてなかなか善鸞のところにはいつかない。善鸞もとうとう頭に来ちゃって。「実は、今みんなが信じているのは、これは偽物であります。本当の教えというのは、私が親鸞、父から夜中にそっと耳元で教えてもらいました」。こういうことを言う。また巫女なんかを連れまして、祈祷加持、祈祷をやり始めまして、親鸞さんが絶対やってはいけないということをやり始めた。そうすると、また関東が大変にもめたのだそうでございます。とうとう親鸞さんがこの善鸞に、義絶状といいまして、親でもない子でもないという手紙を出しまして、みんなあんな者知らないよということになりまして、長男を義絶したという悲しい話が残っております。
 弘長二年(1262年)、親鸞さんは、弟の尋有の寺で、十一月にだんだん体の調子が悪くなって十一月二十日過ぎにお布団に伏し二十八日に、布団に寝たままずっとお念仏を唱えておりましたが、正午頃でございます。お念仏の声が消えたといわれています。このときが親鸞さんの下の娘、覚信尼さんとお弟子が、いまして看取ったという話が残っております。親鸞さんは90歳でお浄土に行かれたのだそうでございます。      おわり


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(2023 年 7 月 12 日)