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第91号 「真宗門徒の生活」

カテゴリー:法話集    更新日:2020 年 2 月 14 日

永代法要法話   蓮光寺住職 本多雅人師
  
七歩の世界からの呼びかけ
 釈尊は「天上天下唯我独尊」と言われた。この世で、私、ひとりが尊いのだと言っているわけではありません。 これは、この世において、われ一人、尊いという、われというのは、関係性をわれとして生きているのだから、私が尊いと言えるということは、皆さんも尊いのだということです。それは、七歩歩いて言えたという、一つの伝承の形で、真実を伝えるのです。つまり、六道という自我分別の中に埋没していたら、尊さを感じられないということです。自分の思う通りになるかならないか、ぐるぐる回って終わってしまうよと。よく六道輪廻と言いますが、そういう世界が実体的にあるのでなくて、私たちの心のあり様、生き方を表したのが六道ということです。釈尊は、生まれて七歩歩いて、天上天下唯我独尊と言われました。六歩とは、まず「地獄」、現代で言えば、人はたくさんいるのに孤独であるということ、同伴者がいないということです。「餓鬼」は、欲求不満という意味なのですけれども、多分、人類史上、一番欲求不満な時代が、今です。もっともっとという形で欲望が膨らんでいます。それはAI(人工知能)を生み出し、経済発展させようという欲望です。生産を上げていかなければいけないということで、がんじがらめになって留まることを知らないのです。生産性のある人間に価値があるといって、貧困な人間像が現代ではないでしょうか。生産性は人間を一生ささえる真の拠り所にはなりえないのです。「畜生」は、これは家畜を考えてみればいいのです、家畜は必ず、そのご主人の言う通りに使われています。だから主体性もなく使われていくようなあり方、これを畜生と表現しているのです。「修羅」は、これは修羅場ですから、戦争状態、対立状態。そういう状態が、人間同士で起こることもよくあります。「人」は、人間のことを言っていますが、生老病死に苦しまざるを得ない。それも人間と言った場合には、先々のことを心配するということが加わるのです。こうなっちったら、どうしようかなという、先々のことを心配する。これが人のあり方です。「天」は、迷いの世界です。有頂天という言葉があるように、天に昇ってみたら、何も楽しみがなかった。この世の中で出世すればと思って、いい会社に入ってみたら、想像していたことと違って、なんでこんな会社に行ってしまったのだろうと悔やむ人がたくさんいます。「天」も迷いの世界です。この自我分別が「六道」です。
 七歩の世界には、六道輪廻する私たちが、迷いをもったままでは行くことはできません。救われがたき身を生きているということです。煩悩が増えたり減ったりするのではありません。煩悩そのものが、この私ということです。それを証明したのが親鸞聖人です。私たちが七歩目には行けない。ところが、七歩目の浄土の世界のほうから、私たちに呼びかけるのです。これを如来の本願力回向と言うのです。他力本願というのは、世間でいう他人の力を当てにするということではありません。真逆です。人間の本当の迷いに気付かせて(凡夫の自覚)、堂々と苦悩の現実を立ち上がっていく意欲をあたえようと、七歩の世界から私たちに呼びかけてくるのです。自分以上に自分を知っている七歩の世界、浄土の世界が、私を根底から包んでいたのだと、真の拠り所を頂いた時に、苦悩と真向かいになって精一杯生きていこうということが始まるのです。
無分別の世界 つながり合い支え合っている世界
 「私」を中心に物事を見ると、まず確固たる「私」がいて、人と関係を結んでいくのです。この関係は、自己中心の自我で成り立っていますから、利用関係であったりします。分別ではない世界で関係性が成り立っていることが皆目わからなくなってしまったのです。 無分別の大きな世界の中に、迷いの私が支えられて生きているということに気が付かされるかどうかです。
この無分別の世界というのは、さまざまないのちがつながり合い支え合っている世界ですから、どのいのちも尊い世界です。その如来のいのちの世界(浄土)から、この私も生まれてきたのです。人間も、動物も、植物も、あらゆるものが、このいのちの世界の中にあります。ですから人間で言えば、病気の人も、健康な人も、老いた人も、誰もが尊いのです。
 例えば、大切な人が亡くなっても、このいのちの世界の中にいるから、肉体の死があったとしても、この世界の中に、大切な人のいのちも生きている。だから、いつでも出遇い直しができるのです。亡き人のいのちは私のいのちになって生きて、この私を支えている。亡き人のいのちも、色々な人の出遇い、また生き物を食べて、それに支えられたいのち、自然の恩恵を受けたり、あらゆるものとつながっている、そういうことを伝える如来のいのちの世界のなかにいます。これは誰も否定できません。人間の自我分別は、死んだら灰になるか、霊魂になるといった、有無の邪見でしかありません。この如来のいのちの世界を感ずれば、亡くなった方ともいつでも出遇い直しができるのです。
 それで、目に見えない世界が、本当は人間を支えているということの、一つの比喩として、藤元正樹先生のお言葉を紹介します。「花を咲かす、見えぬ力を春という。人となす、見えぬ力を仏という」春がやってきて花を咲かせるでしょう。だけれども、逆に言うと、花が咲いているから、春だとわかるのです。佐伯さんは「この子たちが障がいをもっていても、支えてくれる人たちの生きがいになったり、喜びになったり、逆に支えになっているという現象を見て、「この子たちはこのままでいいんじゃないか、ということを思い始めたんです」と言われています。また「このままを大切にすることで、自然に奇跡が生まれた」とも言われています。一般の方ですから奇跡としていますが、この奇跡の内実とは、佐伯さんの言う「自分の思いと、それを超えた気づき。子どもとの関わりや、自然栽培と向き合ってきて、そういったことの繰り返しでした」ということなのでしょう。本願という言葉は使わないだけですが、彼の中には真宗の教えがはたらいている。そう彼に話すと「なるほど」とうなずいておられました。そのままでいいのだと思った瞬間に、彼は、「リハビリをしてもらうということだけでなく、この子たちの本来もっている力が発揮できるようにすることで、状況が大きく変わることを、目の前の現象で見せられました」と言われています。
 そのことがあってから、障害者も健常者も、みんな一緒に一つになって生活できる社会が必要だということを感じて、彼は農業を始めるのです。それも無農薬、無肥料の自然栽培です。人間同士のつながりだけでなく、自然ともつながり合っている、大地に支えられていることを実感していくことの大切さを感じたからです。「障がい者を、一つの場所に集めて少人数の人で面倒を見るのではなく、地域の中に障がいのある人たちが一緒にいる。地域の中で支えられ、逆に彼らによって周りも支えられて一緒にいるという社会を目指したいのです。」という彼の言葉は、まさしく「あらゆるいのちはつながり合って支え合って生きている」という如来のいのちの世界を、暮らしのなかで実感として語った言葉でした。
 彼はレストランを開いています。もちろん、自然栽培で収穫された作物を使っての料理です。30代のダウン症の子どもが店長及び副店長になっています。もちろんサポートする人もいますが、その子たちが一生懸命作ってくれた料理を頂きました。本当に、ただ食べるのでなく、その子たちが手をかけて作ってくれたのだなと思うと、やっぱり格別においしいです。出来合いのもので、おいしいものはいっぱいあるかもしれないけれども、色々な添加物が入っているものを、お金を払って食べているだけです。残れば平気で捨ててしますのです。何の関係性も持たない社会なのです。佐伯さんは「大地への感謝を失った暮らし方が、そのまま食べ方を表していて本当にそれでいいのかと問われているように感じます」と話され、まさにその通りです。
 脳性麻痺で生まれた三つ子によって、彼の人生は大きく変わりました。しかし、その彼を救ったのは、三つ子ちゃんの、ありのままの姿であり、本願がはたらいていることを、皆さんに感じていただければと思うことです。感じない人は何も感じないのですが、いかなるところにも、本願がはたらき出ていることを、佐伯さんから学びました。
生きる意欲をいただく教え
 最後に、もうひとつ大切なお話をさせて頂きます。これは、私の友人の田口弘君の話です。源信寺のご住職もよく知っておられ、総代の吉田さんも、聞法会で田口君に会っていると思います。両目の視力を失い、片方の耳がほとんど聞こえない状態で、様々な聞法会に出席していました。その彼が2年前に心臓発作で急逝しました。私は、彼が両目の視力を失ってから知り合ったのです。今から25年ほど前です。初めて会ったのも聞法会でした。彼とは一歳違いだから、気も合い、いろんな話を聞きました。彼は、片目の視力がなく、もう一つの目は超弱視で生まれてきたのです。ところが積極的で努力家の彼は、学校の成績が中学校までトップだったのです。超弱視で、片目が見えない生徒がいると、まわりの生徒たちは、助けてくれると思うでしょう。優しく接した生徒もいたでしょうが、ずいぶんいじめられたそうです。もし、田口君がおとなしい生徒だったら、いじめはおこらなかったかもしれません。人間にはたらく感情として、おとなしい生徒の場合「かわいそうだ。助けてあげたい」という感情がおこります。しかし、これは一種の優越感、上から目線ということも言えます。ところが田口君は、成績はトップクラスです。すると、生徒の中には「目が見えないくせに、生意気だ」とやっかみ感情がおこってくるわけです。中学生の時は、かなり陰湿ないじめを受け続けたのです。小さいものは良く見えないので、小物をよく隠されたりしました。給食の時は「塩をかけてあげるよ」と言われて、かけたものはチョークの粉であったり「ケチャップをかけてあげる」と言われて、かけられたのは赤の絵の具だったりと、陰湿ないじめを受けてきたのです。負けず嫌いの彼は、いじめをする何人かの生徒とけんかをするわけです。毎日、彼の背中には、蹴られた上履きの跡が付いていたのです。田口君は「あいつらに絶対負けるものか。いい成績をとって、あいつらより数段いい一流高校に進学して、あいつらを打ち負かしてやる」と強く思ったのでした。そして彼は、一流高校に入って、卒業式では答辞を読んで、悠々自適で卒業していくのです。ところが、一流校に入ると勉強量が違います。弱視が、どんどん進んでいくと、成績もそれに比例するかのように落ちていきました。高校生になるといじめがないのですが、むしろ相手にされなくなっていくのです。それは本当につらいことです。つまり孤独を味わうのです。よい成績をとって、よい生活をしたいという彼の生き方が崩れていくのです。生きていても意味がないと感じたり、自分の思う通りにならない程度が重ければ重いほど、現実の自分を受け止められなくなっていくのです。そして、陀さんの無分別の、どのいのちも尊いという世界にふれれば、目が見えないま、そのままの自分を受け止めて、生きていく道が開かれるのですね。その道が開かれると言うことは、分別して苦しんでいる自分は愚かな凡夫だということ自覚することにあるのです。自覚せしめるのも阿弥陀さんの呼びかけ(南無阿弥陀仏)によるものです。阿弥陀の本願です。これが、真宗の救いです。状況が変わらなくても、それと向かい合って生きる意欲があたえられる。これが真宗門徒なのです目が見えるようになって助かるのではなく、目が見えるようになれば、それにこしたことはありません。でも治らないこと、どうにもならないことがあるでしょう。だとするならば、今ある自分の生きる、この尊いいのちを大事に生きるということが、救いではないですか。人間は、苦しいときこそ、阿弥陀さんの激励が欲しいのではないでしょうか。
 だから、本願の出どころというのは、もうどうにもならないという苦しみを通して、現れてくるのです。人間の苦悩を問題にしたのが仏教なのです。苦悩の根にある問題は、人間の自我分別心にあるのです。
安心して迷うことができる生活
 ここからが大事です。田口君は、仏さんになったわけじゃありません。分別は、一生消えません。煩悩を抱えた身が人間なのです。煩悩がそのまま人間と言ってもいいです。くり返しますが、その煩悩を翻して生きる意欲を与えるのが本願念仏です。だから彼は愚痴もずいぶん言いました。でも愚痴を言わないのが立派ではなく、南無阿弥陀仏に支えられているから愚痴が言えるのです。 愚痴もこの世界の出来事なのです。彼は教えを聞き続けていくことを大切にして、常に聞法を続けたのです。
 田口君が亡くなる3年前に、お母さんが同じ心臓発作で亡くなっています。彼にとっては、相当ショックでした。お父さんは早く亡くなり、母一人子一人の生活でした。坊主バーから終電で帰って来たり、様々な場所で法話して帰ってきても、お母さんは暖かいご飯を作って待っていてくれ、洗濯物のふわふわできれいにしてくれ、また郵便物を読んだり、今日あった出来事について話したりして、彼の手となり、足となり尽くしてくれたお母さんでした。品川の都会は住みにくいので、亀有のマンションに引っ越してきました。私は、たまに彼の所に行って、郵便物を読んだり、彼の部屋で飲んだり、また外食をしたりしますけれども、やっぱりお母さんの代わりは出来ません。彼は相当つらかったと思います。
 お母さんの葬儀の後、火葬場へ行く前の彼の挨拶が忘れられません。「私は、ひとりぼっちではありません。母が南無阿弥陀仏となって、阿弥陀さんの仕事をいっしょになって手伝って、弘、目が見えないままに尊いいのちをいただいているのです。誰にも代わることのできない、代わる必要もない、かけがえのないいのちを大事に生き抜くのだよと、いつも励ましをくれるから、私は、ひとりぼっちではないのです。」と言いました。阿弥陀さんのいのちの世界では、いつもいっしょなのです。これこそ真宗門徒の生きざまだと感動したことです。
 田口君は、最後まで南無阿弥陀仏の教えの生徒でした。真宗門徒とは、浄土を真の生きる拠り所とする親鸞聖人一門の生徒です。
 真宗門徒は、入門はありますけれども、卒業はありません。いつも繰り返し教えをいただくのです。現代人の多くは、生きる存在根拠を持っていないから、根本に孤独や、むなしさを抱えざるを得ないのです。真の拠り所があるから、それは自分以上に自分を知っている如来の眼があるから、安心して迷うことができる生活が成り立つのです。迷わなくなるということはありえませんから、迷うことができる生活、これが真宗門徒の生活の基本です。迷いは消えない。迷いがあるから、教えに出遇うことができるのです。分別を持っていますから、動物や植物のように私たちは生きられない。でも分別をもって苦しむ私たちが無分別にふれて、感動して生きる意欲を頂くということが出来るのです。それは人間だけなのです。 これが人間の面目です。安心して迷うことができる生活、堂々と迷いの身に帰って生きるのです。その迷いの身は、ただの迷いの身ではありません。浄土のはたらきに照らされた凡夫です。これが、真宗門徒の内実です。ですから、ご住職がおっしゃったように、聞法をするという一点が、大事なことではないでしょうか。
 今日、私の話を聞いて、この教えは聞かなければならないと感じて頂いたら、それでいいと思います。お寺に足を運ぶのです。普段は、都合のいいことを考えていてもいいです。だけれども、本当にどうにもならないことがおこると、分別の心では息詰まってしまうのです、例えば、永代経の時、帰敬式を受けた時、ああいう話があったなとか、何回忌の法事のときに、ご住職が、話したなということを、生活の中で思い出すことが出来るのです。
 今日は帰敬式を受けた方は、特に親鸞聖人の教えに生きる以外、私の人生はないんだと、聞法を通して、少しずつ感じていただければと思うことであります。時間がまいりましたので、ここまでとさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。
  南無阿弥陀仏、       南無阿弥陀仏。


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(2023 年 7 月 12 日)