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第90号 「真宗門徒の生活」

カテゴリー:法話集    更新日:2019 年 10 月 7 日

  永代法要法話   蓮光寺住職 本多雅人師  
真宗の利益(りやく)
 こんにちは。亀有の蓮光寺の住職をしております本多でございます。どうぞ、よろしくお願いいたします。源信寺様のご住職とは、お付き合いが長いのですが、10年ぶりに、源信寺様で法話をさせていただくことになりました。ご門徒の顔ぶれも大分変わったなという感じがします。
 今日は、永代経法要でありますが、同時に、帰敬式を受けられた方々が8名おられまして、誠におめでとうございます。帰敬式を受けられたということで、真宗門徒は、どのような生活をして、どのような救いを頂いているかという基本的なことを、お話をしていきたいと思っております。
 真宗門徒は、親鸞聖人の教えを、生活実感を通して、教えを聞くことによって、苦悩の人生を引き受けてきました。世間一般では、宗教は、自分の願いをかなえてくれたり、嫌なことを取り払ってくれるものだと、これをご利益と考えているわけです。ところが現実は、思いもかけないことが、縁によって次々おこってきますから、その様なご利益で、本当に救われるということはあり得ないのではないでしょうか。私たちは、迷わざるを得ない、苦悩せざるを得ない存在です。その私たちを丸ごと包んで、苦悩と向き合いながらかけがえのない人生を全うしていけるような方向性もって歩むように呼びかけてくるような、そういう根本から人間を支える教えが、真宗の利益であり、真の救いだと思いますが、皆さん、いかがでしょうか。
 帰敬式を受式するということは、親鸞聖人の教えを聞く道以外、わが人生は成り立たないという表明だといっていいでしょう。私たちの思い、ものさしは、難しい言葉で言うと、自我分別という言い方をしますが、どこまでも自己中心で、比較心をもって、自分にとって、都合がいいか、悪いかと使い分けて、思い通りになれば幸せになれると錯覚して生きているのです。分別心を持っているかぎり、私たちは、生老病死という苦しみを抱えて生きざるを得ないのです。「生」とは生まれてくる苦しみです。なぜ生まれてくることが苦しみかというと、今申し上げた自我分別を持って生まれてくるからです。その分別する心が、老病死の苦しみの原因なのです。「老」は嫌でしょう。物忘れが激しくなるし、体の自由が利かなくなります。私も来年還暦ですが、老いを感じるようになりました。老いはいやだ、若い方がいいという分別心がはたらきますね。健康を前提に生きていますから、もし病院で癌と診断されたら、真っ青になりますね。それが結構重い癌であったら「もう生きている意味がない」と思ってしまう。私たちは、意味があるか、ないかという発想をしてしまう。そして意味がないと思うと、自分すら捨ててしまうのです。自分を受け止めることは容易なことではありません。死は一番いやですね。
生きていたいですね。でも寒さに震えた人ほど、本当の暖かさをありがたく感じるのと同じように、死すべき身を生きているからこそ、生きることが深くなっていくのではないでしょうか。
 都合の悪いものを消して、都合のいいものを取り入れていけば幸せになれると、そういうふうな形で、一般的にはご利益が語られています。それを迷いだと教えるのが、本来の仏教のあり方です。
 私たちは自分の思い(自我分別)を中心に生きることで、苦悩を抱えて生きざるを得ない存在です。老病死の問題に限ったことではありません。縁があれば、自分にとって次々と都合の悪いことが起こってくるのが人生というものではないでしょうか。
 そんな私たちに、本願念仏の教えは、深い迷いを持った人間の自我分別を照らし出し、どんな状況においても、存在の尊さを回復して、生きる意欲を与え続けてきました。それを親鸞聖人がご自身の身の上に明らかにしくださったのです。それは「愚かな凡夫とは、私のことであった」という自覚によって与えられるものです。
 凡夫というのは、教えの目から見た私たちの姿です。教えを聞くということは、自分の意識が入らない、自分の意志が通り越えて、教えが自分の中に入り込んではたらいてくるのです。思い通りにならなくても、自分の人生に深いうなずきを持って生きる方向性、与えられてきたのです。
念仏は自我崩壊の響き
 ところが、私たちは、人生に意味付け、価値付け、条件付けをしないと生きられないという矛盾を抱えています。なぜなら、繰り返し強調しますが、私たちは、自我分別を、よりどころとしているからです。分別するということは、ありのままの自分を、そして事実を、都合によって分けるということです。つまり、都合の悪いことは受け止められないのです。そういう人間のあり方を、浄土とか、本願とか、念仏とか、信心という言葉で呼び覚まされた先達、諸仏の歴史に今一度、私たちも自分の問題として、参画していきましょう。存在の尊さが失われ、自然とも人間同士も関係性が崩壊している現実の中で、どんな一生であっても、自分の人生に深いうなずきを持って、生き抜く方向性をいただくことが願われているのでしょう。
 人間の思いが、今の社会を作っているのです。豊かになれば幸せになれると誰もが多かれ少なかれ思っているのではないでしょうか。それが経済優先の社会を作ってきたのです。具体的に言うと、昔、日本人は、自然とともに生きてきました。自然の恩恵によって、生きてきたのです。おてんとう様とかお星さまと大いなる自然に「さま」を付けてきたのは日本人だけではないでしょうか。あらゆるものがつながっていて支え合って生きているという感覚をもっていたのです。今や、日本人は、世界で最も有数の自然破壊国です。経済優先ですから、食べ物は、どんどん作って、残ったものは全部捨ててしまう。生き物のいのちをいただいて生きているという感覚が希薄です。例えば、ライオンはシマウマを襲いますが、お腹がいっぱいの時はけっして襲わないのです。そういう秩序をちゃんと守って自然のなかで生活しています。人間は自然との関係を切って、自然を利用するだけしています。それが温暖化という形で跳ね返ってきているのです。また、競争社会のなかで人間関係が希薄化するだけでなく、便利になると、実は人間関係も希薄化します。電車に乗っていると、ほとんどの人がスマホをいじっています。これで知識、情報を得ていて、人間関係のなかで学ぶことが少なくなっています。会社でも、目の前の人とパソコンで連絡しあったりするのです。結果ばかりでプロセスがない。感じ合うことがないので、相手の心がわからないのですね。葬儀事情を見てもそうです。皆さんも感じられていると思いますが、会葬者がどんどん減っています。親戚も呼ばなくなっていく。家族すら欠席する人がいる。経済価値一色のシステム社会の中で、どんどん「死」を遠ざけていく。経済一色の世界の中に埋没してしまっているのではないでしょうか。だから、相手のことがわからない。ですから、ちょっと何か間違ったことを言ったら、それこそクレーマーだらけで、批判を受けますね。現在の日本は完全に訴訟社会になっています。相手が見えない、自分も見えない。人間関係が本当に崩壊しつつあるのが現状です。
 こうしてみていくと、人がたくさんいても、本当に話し合えるような人がいない。同伴する人がいない社会になっているのではないでしょうか。いまや、家族すらもろく、崩壊しつつあるのです。ですから、孤独であり、何となくむなしさを感じ、不安を持って生きているのではないでしょうか。私たちが望んだ社会なのに、思いもよらぬ状況になって、いらいらしたり、反逆的なことが起こってくるのです。生産性のある人間だけが価値あるということが、多かれ少なかれ、誰にでも持っている感覚ではないでしょうか。生産性のある人間というところにうまく乗っかっているうちはいいのです。でも全員、そこからはみ出ていくのです。これは自分を支える根源的なよりどころではないのですが、ここにしがみつかざるを得ない。なぜなら、孤独でむなしくて不安だから、何かに依存しなければ生きていけないのです。でも人間が立てた価値観は、人間を最後まで支えることはありません。老病死の問題には、生産性という価値観ではどうにもならないではないですか。現代の人たちの多くは、このシステムの中で、成果を上げることのみにしか価値を見いだせず、他人が自分をどう評価しているかが最大の関心事になってしまっています。だから、本当に生きたという実感がないのです。
 人間の自我分別が、このような社会を作ったと言ってもいいでしょう。自我分別は深い迷いを持っていますから、それを絶対化したら、こういう社会ができあがっても不思議ではないのです。その人間の在り方を照らし、深く見つめてきたのが本願念仏の教えです。
 自我分別というのは、どこまでも自己中心にしかものを見ないし、必ず比較する心を持っています。今日の法要で、皆がよそ行きのいい洋服を着ていて、自分だけ普段着で来ると、なんか居づらくなりますね。これは比較心からきているのです。ですから、全員、普段着だったら何とも思わないのです。病気もそうですね。自分だけ重い癌に罹っていた、何で私だけ、こんな目に遭うのだろうと思うわけです。ところが、全員思い癌だったら、それほど苦しまないわけです。こう見ていくと、幸せは、所詮、自己中心的な比較心なのです。これは、良いか、悪いか、損か、得か、そういった世界は、明らかに差別世界です。こういう世界を、穢土(えど)とか、此岸(しがん)と表現してきました。それに対して、この自我分別を破っていくはたらきを発見した人がいるのです。発見というより、その世界からのはたらきを感じたといったほうが正確ですね。その世界は、分別に対して無分別。分別をしない世界。そのまま、ありのままということは、平等の世界です。
 親鸞聖人は、七六十年近く前に亡くなっています。親鸞さんのいわゆる生命としてのいのちは亡くなったけれども、つながりあい支え合いながら、自分が与えられていることにおいて、存在の尊さを痛感したから、生活の中で思う通りにならなくても、自分の人生に深いうなずきをもって、生きていける道を、私たちに先んじて歩いてくださったのです。「今、いのちが、あなたを生きている」という、その親鸞さんのいのちは、消えないでしょう。私たちを支えているのです。あらゆるものが、支え合って生きているのです。その根底は、無分別です。だから、生まれたときに、健康で生まれる人もいます。病気がちな人もいます。障害のある人もいます。これ人間の分別で考えると、何で私は障害者なのだろうかと考えますね。人間のものさしから言ったら当然ですね。でも、無分別の世界から言えば、健常者も、病気がちな人も、障害者も、つながりあい支え合いながら生きているから、どのいのちも尊いのだと。
 現代は、尊さが捨象された時代です。ですから、「そのまま」「ありのまま」の自分を生きることがなかなかできないのです。本願は、そういう迷っている人の上に現れ出るのです。こういう世界を発見した人がいるのです。本願が南無阿弥陀仏と言葉になってはたらきかける世界を浄土と言うのです。
 浄土はどこにあるのでしょうかという質問が、結構多いのですけれどもね、あの世ですか、そこですか、ここですかと。そのとき私は、逆にこういう質問をするのです。「愛情の世界は、どこにありますか。あの世ですか、そこですか、ここですか。」皆さん、考えながら答えてくれます。「いや、目に見える世界ではないし、実体的な世界ではないです」と言われます。言葉の前に、そういう世界がすでにあって、それを感じた人が愛と名付けたのですね。浄土も同じですね。迷い苦悩せざるを得ない私たちは、無分別の世界に触れて助かるのです。本願は徹底的に、私たちのあり方を照らし、迷いを自覚せしめるのです。「愚かな凡夫とは、この私のことだった」とうなずかされるのです。そうすると今までとはちがった生き方が始まるのです。
本願の自己表現が念仏、南無阿弥陀仏です。「念仏は自我崩壊の響きであり、新しい自己が誕生する産声である」と金子先生は言われます。南無阿弥陀仏の教えは、私たちの自我分別を突き破って、聞こえてくるのです。聞くのではなく、聞こえてくるのです。聞こえてくる、それが信心を賜るということです。。愚かな凡夫だったと自覚すると、それは「そのまま」「ありのまま」の私であり、その自覚をとおして生きる意欲があたえられるのです。これは理屈ではなく、聞こえてくるまで、生活を通して門法していくと言うことでしょう。
 念仏者のあるおばあちゃんの話しですが、末期癌だから、ホスピスに移る話があったそうです。「私は、この家が好きだし、一人暮らしがいい。移ったところでどうなるわけじゃない。ここにいる。新聞がたまったら死んだと思ってくれ」と。続けて「末期癌でも、私、こうして生きている。だから、明日の朝生きていたら。八十七年と何カ月目の初めての朝です。、今日の朝とは違うのだ、どんな朝を迎えるか、楽しみなんです。」これ、念仏者の姿です。病気のまま、ありのまま、教えをいただいているおばあちゃんです。教えをいただかないで、そのまま、ありのままと言っては自己弁護になるから駄目ですね。私は、アル中で、昼間から酒を飲んでいるけれども、そのままでいいのですねと。それは違う。それは、自我分別の世界でものを言っているのです。これが破れて、ありのまま、そのままの私を大事にしようと。
 今日は永代経ですね。私がこうして法話をさせていただくのは、皆さんの大切な人、ご先祖が、この時間、場を作ってくれたのです。そう思ったら、亡くなった人は真実に導いてくれる仏さんではないでしょうか。勝手に仏さんになるのではなく、私たちがそういただくことができるか、問われていると言っていいでしょう。   次回 つづく


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(2015 年 4 月 22 日)