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第82号 白骨の御文について

カテゴリー:法話集    更新日:2017 年 10 月 1 日

[原文]
 夫、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、およそはかなきものはこの世の始中終。まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形躰をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は。もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけむりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。           あなかしこ、あなかしこ。

夫、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、およそはかなきものはこの世の始中終。まぼろしのごとくなる一期なり。
 蓮如上人は冒頭で、人間の生きざまを「浮生なる相」とおっしゃっています。私たちは、何かを信じなければ生きてはゆけません。一番信じているのは、命でしょう。明日も生きていると、信じています。それどころか、一ヵ月後も、一年後もあると思い、十年後の計画まで立てているのではないでしょうか。
 夫は妻を信じ、妻は夫を信じる。親は子供を命にして、この子さえいれば老人ホームに入れられることはないだろう、面倒見てくれるだろう、と信じています。 また、世の中、かねだ、金があれば何でもできると、お金を力にする。「地獄の沙汰も金次第」という言葉もあるくらいです。「不幸のほとんどは金で解決できる」と、菊池寛(近代の作家)は言いました。だからお金のためなら何でもします。どんなに恥ずかしいことでも、どんなに恐ろしいことでもするのです。
 これだけ土地があるから、めったなことはなかろう。不動産があるから大丈夫だ。そんな人は、財産を頼りにしています。「私は社長だ」「ノーベル賞をもらった」と、地位や名誉を信じている人もいるでしょう。問題は、信じていたものに裏切られた時、私たちは地獄に堕ちる、苦しまねばならない、といということです。あてにし、力にしていたものに捨てられた時、人間は不幸のどん底に落とされます。病気の人は、健康に裏切られたのです。それまで病気一つしなかった人が、突然病気で苦しむここともあります。夫を亡くして悲嘆している人は、信じていた夫に裏切られたために、苦しんでいるのです。かつての大統領が、日本に亡命して、自分の国に戻れなくなった人もいます。
 私たちは何かを信じなければ生きてゆけませんが、信じていたものに裏切られた時、不幸になるのです。
仏教では、人間は海に浮いているようなものだと、たとえられています。近くに漂う丸太や板切れは、健康や妻、子供、お金、地位や名誉です。丸太にすがった時は、やれやれと思う。しかしそれらは浮いたものですから、やがてクリーッと回って、私たちを裏切ります。潮水のんで苦しまねばなりません。
「どうしても欲しい」と望んでいたものを手に入れても、その喜びは一時的です。受験生は大学に合格した時は、「やったぁ」と思うでしょう。胴上げされている時は夢見心地ですが、その感動が一ヵ月と続いたでしょうか。こんなもののために、一生懸命ねじり鉢巻きで勉強していたのか。バカバカしい。そんな心さえ出てきます。
 そこで今度はまた別の丸太を求めて、苦しむのです。どこまでいっても苦しみ続けて、死んでゆく。そんな姿を、蓮如上人は「浮生なる相」とおっしゃっています。
 禅僧・一休は、次のように詠っています。
「世の中の 娘が嫁と 花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく」
 娘が嫁と花咲いて、子を産み母となり、お母さんからお婆さんになってゆく。いつまでも娘でいたいと思っても、止まることはできません。すべての人は、抵抗できない力で進みます。また、
「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
「冥土」とは、死んだ後の世界、後生のこと。人生は旅であり、私たちは〝冥土に向かっている旅人〟です。
年が明けたならば、一年分、冥土に近づいたのです。 死後がハッキリしている人、明るい世界に行ける人にとっては、めでたいことでしょう。しかし死後が暗い世界の人、苦しまねばならない人は、めでたくありません。元旦がめでたいか、めでたくないかは、死んだ後が明るいか暗いかで、分かれるのです。
 旅人にとって最も大事なのは、行く先でしょう。どんなものを食べるか、どんな服を着るかより、もっと大事なのは目的地です。行く先がハッキリしていなかったら、歩く意味がありません。歩けば歩くほど苦しいように、生きれば生きるほど、苦しみも多くやってきます。目的なしに生きていたら、苦しむために生きていることになってしまうでしょう。意味も目的もなく、最後死ぬために生きるのが人生ならば、なぜ人命は地球よりも重いと言われるのでしょうか。
目的のない人生は儚(はかな)かったと、豊臣秀吉は言い残しています。農家に生まれ野原に寝転がっていた日吉丸が、太閤まで上りつめ、大阪城から天下を見下ろすようになりました。しかし辞世の歌は、次のようなものです。
「おごらざる者もまた 久しからず 露とおち 露と消えにし 我が身かな難波のことも 夢のまた夢」
 夢の中で夢を見ているような、儚い人生だった。あれだけのことをやった秀吉でしたが、人生の目的がわからずに生きる人生は、儚かったと、臨終に知らされたのです。蓮如上人は、〝目的のない人生は儚くないですか、目的なしに生きる人間の儚さを知りなさいよ〟とまず教えられています。
お墓は誰のためのもの。と問うと、何をいまさらお墓は故人を供養するためのものに決まっているだろう。そう答えが返ってくることは承知のうえで問いかけたのですが、皆さんもそのように考えていませんか。

さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形躰をたもつべきや。
 これからの五十年といえば長いような気がしますが、過ぎ去った五十年はアッという間でしょう。五十年生きた、百年生きた、と言っても、大宇宙の歴史から見れば、アッという間です。
 
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、 
 生まれたからには、いつか死なねばならないと、頭では分かっています。しかし「明日、自分が死ぬ」と思えるでしょうか。まさか今日や明日には死なないだろう、と安心しています。しかし「明日死なないと思う心」は、「永久に死なないと思う心」です。明日も生きていられると思う心は、翌日になれば、また明日も生きていると思います。次の日には、また明日も死なないだろう、と思うのですから、腹底では、永久に死なないと思っているのです。それが本心です。
「鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人も何時まで」
 鳥辺山とは、今日でいう火葬場です。その前を通る人が、いやあ昨日も煙が立っていた。また煙が立っている。今日も人が死んだのか、と眺めています。しかし、いつまで眺めていられるのか。自分が焼かれて、他の人がその煙を眺める時が、必ず来るのです。
 死ぬのは「人や先、人や先」と思っていないでしょうか。よく考えている人でも、「人や先、我や後」まででしょう。まず他人が死んで、それから自分が死ぬと思っているのです。しかし「我や先」ですよ、と蓮如上人は教えられています。自分が先に死んで、その次に他人が死ぬのです。
 ごまかしを破って、徹底的に真実を明らかにしなければ、後生の一大事は分かりません。

おくれさきだつ人は。もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
 お釈迦さまに、ある時お弟子が尋ねました。「お釈迦さまは仏のさとりを開かれていますから、悩みはないのでございましょう」するとお釈迦さまは、「私にはたった一つだけ、悩みがある」とおっしゃいました。どんな悩みか重ねて尋ねると、「私の心には、雨が降るように、バタバタバタバタと人間が地獄に堕ちる様が映れるのだ。それを思うと悲しい。これだけが、私の唯一の悩みだ」と答えられました。
 世界の年間死亡数は、八千万とも九千万ともいわれます。今日一日だけで、何万の死者が出ているかわかりません。時計の針がカッチという間にバタバタと数人が死に、カッチという間に、また数人死に、そこにいつか自分も入るのです。

されば朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。
夫が家を出る時は「行って来るぞ」と言います。「行って、帰って来るぞ」と言っているのです。「だからご飯を用意しておけよ、風呂もわかしておけよ」という意味も、含まれているのかもしれません。しかし、行ったきりで、帰って来れない。そんなことが、新聞やテレビで毎日報道されています。電車も安心して乗れません。「少し奧へ詰めてくれないかな」と言っただけで、二十六歳の男性が殴殺されています。大阪では小学校に包丁を持った男が乱入し、八人の児童が犠牲に、朝、家を出るときは、元気な顔をしていたのに、夕方には変わり果てた姿になってしまうのです。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
 お釈迦さまは「出息入息不待命終」と、お経に説かれました。ほとんどの人は、死は遠い先のことで、生と死とは、まったく別のもののように考えています。しかし、息を吐いた息が吸えなかったら、吸った息が何かの拍子で吐けなかったら、その時が後生です。一息一息に、生と死とが触れあっています。これほど近いものはありません。
「無常の風」とは、死の風です。手術で助かったと言っても、死が少し遅れただけで、やがて死ぬ時がきます。日本中の医者を集めても、看護婦をどれだけ集めても、どんな薬を使っても、無常の風を止めることはできないのです。テレビなどで、遺体に身内の人がとりすがる光景が映されます。「目を開けて」「もう一度笑って」「もう一度何か言って」どれだけ泣き叫んでも、嘆き悲しんでも、どうしようもありません。永遠の別れがやってくるのです。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけむりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。
 どんなに大事な人でも、いつまでもそのままにしてはおけませんから、葬儀の相談が始まります。野辺送りをすれば、最後に残るのは白骨だけ。これが人間の本当の姿です。生きている時は、これこそ本当だ、間違いない真実だと思って、一生懸命になっています。しかし、それがどうなったでしょう。「無駄だった。バカだった、バカだった……」 頭をたたいて死んでゆく末路を、釈尊は「寒林(かんりん)で屍を打つ」と教えられています。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
「老少不定」といわれるように、年をとった人から死んで、若い人は後で死ぬ、ということは決まっていません。若くても交通事故で死ぬ人はたくさんいます。無常の前では、同じです。だから「誰の人も」といわれ、どんな人も後生の一大事解決を急ぎなさい、とおっしゃっています。すべての人の行き先は後生です。後生の一大事と無関係な人はいません。浮き世の丸太に心を奪われている私たちに、後生の一大事を心にかけよ、後生の一大事を忘れるな、と教えておられるのです。

阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。
 阿弥陀仏の本願に救い摂られて、御恩報謝の念仏を称える身になりなさい、ということです 阿弥陀如来は、苦悩の根元である無明の闇を、アッと言う間もない一念で破り、生きてよし、死んでよし、往生一定、いつ死んでも極楽往生間違いない身に救う、と誓っておられるのです。「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」とおっしゃっているところが、その往生一定になった一念です。「たのみ」とは、今日のようにお願いするという意味の「頼む」ではないのです。蓮如上人は、「信じる」ことを「たのみ」とおっしゃいました。素晴らしい阿弥陀仏の本願に救い摂られ、生かされた人は、阿弥陀仏にお礼の念仏を称えずにおれなくなりますから、最後に「念仏申すべきものなり」と締めくくっておられるのです。念仏は、「助けてください」という祈りの言葉ではなく、「こんな素晴らしい人生をいただいて、ありがとうございました」という御恩報謝の言葉なのです。世の無常を切々と訴え、阿弥陀仏の本願を信じて、早くこの後生の一大事を解決して、というのが、「白骨の御文章」に込められた蓮如上人の御心であります。 おわり


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