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第80号 三業(さんごう)とは

カテゴリー:法話集    更新日:2017 年 4 月 1 日

【三業(さんごう)】
 「業(ごう)」とは、インドの言葉でカルマといい、日本の言葉で直訳すると「行為」のことです。その行いに3通りあります。 仏教では「三業」といわれます。三業とは意業、口業、身業です。意業とは、心で思うこと、口業とは、口で言うこと、身業とは、身体でやることです。
 ふだん何をしゃべっているか「口業(口の行い)」は、私たちの運命を決める大変な力を持つと仏教では説かれています。舌三寸が人を活かしもし、殺しもする。言葉の業力(ごうりき)の強さを一つの例を通してみてみましょう。例えば、夫婦の間で「どうしてこんなことになってしまったのだろう・・」この人とならやっていける、と好きだったから一緒になった相手なのに、今は一番嫌いで不快な人になっている、というケースは珍しくありません。
 自分の人生が、うまくいかないのは、結婚相手のせいのように思えてきます。しかし、離婚すればいいのに、と思いますが、これも経済事情や子供のことなどがあるからできない。不慮の事故で死んでくれないか・・と思い詰める人もいます。そういう親の姿を見て育った子供も、こんな夫婦になってしまうくらいなら、と結婚に消極的になるようです。一方とても仲の良い老夫婦を見ると、うらやましさを超え、感動さえ覚えます。日頃の不満を口にしても、喧嘩になる夫婦と、ならない夫婦がある、とのこと。
 その違いこそが、夫婦関係が長続きするか否かの鍵となるそうです。相手に対する批判を口にするのは、まずいパターン。自分の不安を伝えて援助を乞えば問題ないのに相手への攻撃を行ってしまう。批判(攻撃)されれば防御(反撃)するしかない。協力が出来なくなります。しまいには相手を見下す発言をする展開になってしまいます。そうなると口喧嘩・批判・防御・見下しの繰り返しで、お互いを避けるようになります。ポジティブな言動とネガティブな言動には、五対一という「黄金の比率」があるともいっています。 夫婦のあいだで、ネガティブな言動一回に対して、ポジティブな言動が五回あれば、結婚生活は長続きする可能性が高いといいます。この比率が一対一に近づくと、夫婦は離婚に至るといっています。
【普段の生活の中から会得したのは挨拶の大切さです。】
 朝、初めて顔合わせたら「おはよう」帰ってきたら「ただいま」それに対して「おかえり」寝るときは「おやすみ」何か取ってくれたら「有難う」これが難しいですが大事です。家庭でも職場でも、きわめて大事なポイントだと思います。基本的なことで簡単じゃないか、と思われるかもしれませんが、東大卒のエリートでも出来ない、難しい事です。仏教では「言辞施」といって、優しい言葉をかけることが布施の一つとして教えられています。
【人の長所を発見してほめるように努める】
 これがどんなに周りを幸せにし、自身を豊かにすることでしょうか。ほめられると元気が出ますし困難に立ち向かう勇気もわいてきます。
 先日、妻が、話したくて仕方ない、と「今日、Mさんに褒められたの~♪」と、ニコニコしながら話し始めました。あまりに、はずんだ表情と会話に、自然にこちらもニコニコしながら聴きました。そして一通り聴き終わった時(褒め言葉は、相手だけでなく、その家族の心まで、暖かくできるんだなぁ…)と、しみじみ感じました。目の前の人以外も、暖めることができるのが『ほめる』ということなのです。
 何千年の歴史を持つユダヤの格言にも『人に愛される人とは誰か?あらゆる人をほめる人だ』と説かれています。古今東西変わらぬ真理でしょう。しかしほめれば、うまくいくからという計算の元に心にもない、おべっかいを言い散らかすのは、仏教では「綺語(きご)」といって口で作る罪悪の一つに数えられています。難しいですね。「ほめる」その時、そこに心が伴っているか、いないか。そこが常に問われているのです。
【意業】警察の取調室「本当のこと言え!やったのはお前だろ!」「いえ、やっていません。」刑事も容疑者も、「身業」を問題にしています。ある喫茶店で「あなた彼女に何言ったのよ?彼女泣いているじゃない。」「・・いや、何も言ってない。」「言ったでしょ!!」「・・言ってない。」このように、口の行いを問題にしている場面もよく見かけます。ところが、仏教ではそれ以上に、「何を思ったか」ということをもっとも重要視します。「今、なに思った?」「こういうことを思っただろう。」ここまで問題にされたらどうですか。何て厳しい基準でしょうか。
 この手のひらも肉眼で見ると、別に汚れてもおらず、キレイなものですが、虫めがねで見ると、すこし汚れが発見できます。いや、それでもキレイなほうです。ところが電子顕微鏡で見れば、どうだろう。大腸菌や細菌がうようよして、思わず眉をしかめます。
 警察の取調は所詮やったかやってないか、身業を問題にするだけですから、「法律」は【肉眼】で見た手のひらのようなもの。身体の行いのみならず、口の行いまで問題にして裁く「倫理道徳」は【虫めがね】に例えられます。そうなると「仏教」は、心の底まで徹見するので【電子顕微鏡】といえましょう。
 「心の中くらい、別になに思ってもいいじゃない!他人に迷惑かけるわけじゃないのだし」そう思われますか??ところがお釈迦様は身体で何を行ったか、口は何をしゃべったか、その身体や口の行いよりも、もっともっと重い責任があるのが、心の行いだと喝破しています。
 仏教ではこの三方向から、私達の行いを判断します。その中でも最も重く見られるのが、心の行い【意業】です。「何をやったのか」「何をしゃべったか」それ以上に「何を思ったか」を最も重く見られる。それはなぜか【心が、口に現れるから】【思いが、行動に現れるから】と説かれています。いうなれば、心がボスであり、口や身体は、忠実に働く子分なのです。
「目は口ほどにものを言う」「目は心の窓」といわれています。
 あなたも、今までには、つい人の悪口で盛り上がってしまったり、発覚を恐れて嘘をついたり、ということもあったかもしれません。そのように言わせたのはほかならぬ、あなたの『心』なのです。浅ましいことをしてしまったならば「やってしまえ」と命じたものがあるのですが、それも自分の『心』です。「ああ、今のは失言、失言。気にしないで」とはいいますが心が言わせたに違いありません。ちょうど、心を【火の元】口や身体は【火の粉】と例えることもできます。 火のないところに煙はたたぬ、といわれますが、火のないところに、火の粉もまた、たちません。消防士が消火する際にも、当然「火の元はどこか」を見極めて、そこにホースで水を掛けます。火の粉に消火の重点はおかれません。いや、火の粉も恐ろしいのです。火の粉が飛び散って、隣の屋根に火が移るということもありますから。そうなれば、火は隣家に燃え移り、類焼の危険もある。だから、口や身体の行いが恐ろしくない、といっているのではありません。口や身体の行いが他人に迷惑をかけ、傷つけてしまい、新たな火種になるのですから、恐ろしいものです。しかし、だからこそ、その火の粉を噴き出す火の元はもっと恐ろしい、のではないでしょうか。言っちゃいけないことを言わせた、その「心」やっちゃいけないことをやらせたその「心」!!
 若き日の親鸞聖人が比叡の山で格闘されたのは、まさに、その己の『心』だったのです。ところが、この『心』というのはいちばん厄介なものです。
 日光東照宮の国宝に「見ザル」「聞かザル」「言はザル」の三匹のサルの彫刻があります。これは、悪いものは見ない、悪いものは聞かない、悪いものは言わない。という意味だそうです。
 ・まだ見ちゃいけないものを、ウハウハで見にいく18才未満がいます。
 ・聞いても人が傷つくだけのゴシップや悪口を、好んで聞きたがる人もあります。
 ・ここだけの話よといいながら、陰口やうわさ話をしゃべりたがる人もいます。
「そんな人にならないようにしよう」というのが、「見ザル」「聞かザル」「言はザル」の教訓、しかし、「思はザル」のサルだけは、無いようです。
 ・どんなに口や身体は律しても、心だけは取り締まれない。
 ・どうしても悪いものを見たくないならば、目にガムテープをはればよい。
 ・どうしても聞きたくないようなら、耳にガムテープを張ればよい。
 ・しゃべりたくても、どうしてもしゃべってはいけない時には、口にガムテープをはればよい。しかし、「思ってはいけないことが思えてくる」この心だけはどうにも取り締まれない。心にガムテープをはる、ことはできないのです。
 親鸞聖人も比叡の山で悪いものを「見ない・聞かない・言わない」を20年間潔癖なまでに取り組まれ、その修行たるや、頭燃(ずねん)を払うがごとく、とあります。燃え盛る煩悩の炎に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞ なづけたる」(何としたことか。ヘビや、サソリのような心は、少しもやまない。こんな心に汚染されている行だから、雑毒の善といわれて当然だ)と告白されています。
「心の中で何を思っていようが、口や身体に表れなければいいではないか」という人がいます。「口でウソをついたり、非難したりする人があれば、傷つく人がいるから、これは悪いこと。身体でものを盗んだり、人を殴ったりしたら、これも悪いこと。しかし、心の中で思っているだけで、態度や表情に表さなければ。別に心のことと」という。本当にそれは問題ないと思われますか? 言動では、どこから見ても、品行方正、非の打ち所のない人格者。周りへの気遣いもできて、優しい笑顔のジェントルマン。ところが心の中は恨みと呪いの塊で、「むかつく」だとか、「ぶっ殺してやりたい」と思っていたとしたら?
口や身体はきれいでも心では醜いことを思っている人を漢字三字で何というでしょうか。『偽善者』です。あなたは『偽善者』、好きですか?
「私の彼は一流企業に勤めていて、物腰柔らかなのだけれど、欠点は、偽善者、なんです。」そんな人と付き合いたいですか。「うちの子は、頭もよくて、運動神経もいいのです。ただ、一つの欠点は『偽善者』なんです。」自分の子供が偽善者だったらどうでしょう。「少々頭が悪くてもいい、運動神経悪くてもいい、たのむから偽善者だけはやめてくれ」と思うのではないでしょうか。このように、自分の恋人や子供が偽善者なら許せない気持ちになります。なのに、なぜ、私たちは自分の中の偽善は「心の中くらい、いいじゃないの」と容認してしまうのでしょうか。
親鸞聖人の告白を聞いてみます。
「修善も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞ名づけたる」(心では醜いことを抱きなが、上辺だけ取り繕って、善人のように見せかけている親鸞は偽善者だ)比叡山で、徹底して親鸞聖人が見つめられたのは実に「心」でした。「やったか」「言ったか」よりも、「思ったかどうか」を問題にしたのです。
 それはなぜかと云うと、『心が口や体を動かすから』です。心で思うことが口に出る、心が命じたことを身体はやるのです。何か人を傷つけるようなことを言う、これは口業ですが、言われた人は何に傷つくのかといえば「自分のことを、こんな風に思っていたのか、この人は」とその人が思っていたことにショックを受けるのではないでしょうか。
 身体で浮気する人がいますが、それも「いいじゃん、浮気しても。ばれなきゃ問題ないよ」と心がそのように思ったから身体が、その方向に動いたのでしょう。
 今日、あなたはどこでこの文章を読んでおられるのですか。その場所にあなたを運んだのは、他ならぬあなたの身体の行為(身業)ですが、そもそも「今日はここに行こう」と心が思わなければ今、そこにはおられないはずです。「行こう」と心が動いたから今、そこにおられるのではないですか。違う選択肢もあったはずです。選んだのはあなたの心です。あなたの今の立場、環境、ついている仕事、あなたを取り巻く人間関係それらすべて自分の心が選んだ結果です。
 「自分の人生は自分で責任をとりなさい。すると、どうなるか? 恐ろしいことに、誰のせいにもできなくなります」厳粛な因果の道理を諦観するところから仏教は始まります。          お わ り


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(2015 年 4 月 22 日)