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第74号 「往生」とは

カテゴリー:法話集    更新日:2015 年 10 月 1 日

 仏教は、日本人の生活の中に根付いていますので、いろいろな「仏語」を、見聞きすることも多いのですが、かなしいかな、誤解されている言葉も少なくありません。
 「往生(おうじょう)」という仏語も、そうです。
みなさんは、「往生」は、どんな意味だと考えておられますか?
 「往生」と云えば、たとえば、「猛吹雪の青森で、車200台、立ち往生」「高速道路で、車のタイヤがパンクして往生しちゃったよ」「山の中でエンジンが故障して往生した」「突然、雨が降ってきて往生しました」など、「困った」とか「弱った」ことを、「往生した」と言っているのを、よく見聞きしますね。また「今朝、隣のお婆さん、往生したそうだ」とか「弁慶の立ち往生」など、「死んだこと」を「往生」と言っている人もあるようです。
 長生きした方が亡くなりますと、「大」の字をつけて「大往生」などと、テレビや新聞で、報じられることもあるようです。このように、世の中では“困る”ことや“死ぬ”ことを「往生」と言われているのですが、実はこれは、大変な間違いなのです!
 漢字を見てもお分かりのように、「往生」の「往」は「往(い)く」という字であり、「生」は「生まれる」とか「生きる」という字ですから、「困る」とか「死ぬ」という意味は、どこにも見当たりません。それどころか、その反対です。では、仏教で「往生」とは、どんなことをいわれるのでしょう。
 「往生」には、二つの意味があります。
ひとつは、「生かされて往く」と読む「往生」と、もうひとつは、「往って生まれる」という意味の「往生」です。
まず「生かされて往く」といわれるのは、どんな意味でしょう。
 私たちの人生を、親鸞聖人が「難度海(なんどかい)」とか「生死(しょうじ)の苦海」と仰っているように苦しみ悩み海のように波が尽きぬ、次から次とやってきます。ひとつの苦しみを乗り越えたと思ったら、次の苦しみがやってくる 。「この坂さえ乗り越えたならば、幸せになれる」と信じて登ってみると、その先には、もっと急な坂道が待っている。死ぬまで、苦しみ続けなければなりません。これでは私たちは、いったい
 何のために生まれてきたのか・・・
 何のために生きているのか・・・
 なぜ生きねばならないのか・・・わかりません。
 苦しみに耐えられず、「死んだ方がましだ」と自殺していく人も、日本だけでも、年間3万人をこえています。
 このような苦悩が、さかまく人生の海に、溺れ苦しんでいる私たちが、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、「よくぞ人間に生まれたものぞ!」「人間に生まれることができてよかった!」と「いのち」の喜をえて、一息ひといきが明るく楽しい人生に生まれ変わることを「生かされて往く」往生と言われるのです。
 もう一つの「往って生まれる」という往生は、阿弥陀仏の本願に救い摂られて、念仏に目覚めた人が死ぬと同時に、阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、阿弥陀仏の処で生まれさせて頂けることをいいます。
 このように「往生」ということには「現在の往生」と「死んでからの往生」と、二つありますが、現在ただ今、往生できている人だけが、死んで往生させて頂けるので親鸞聖人は「生きている時の“往生”を急げ」と叫び続けられたのです。
 「往生」の語源は 仏教語ですから、その正しい意味を よく知ることが大切ですね
 「エボラ出血熱」の感染者がアメリカのニューヨークでも確認され、衝撃が広がったことがありました。
 日本でも、海外からの入国者全員に、空港で滞在歴の確認を始めるなど、対策強化を打ち出していました。国内で感染者が見つかった場合に備え、患者の搬送や治療など種々の課題の検討が急がれたことを思い出します。「デング熱」の感染も報道されていましたが、「エボラ出血熱」の感染は、より深刻に受け止められるのは、どうしてでしょう?
 わたくしたち、「怖いな」「不安だな」と思うことが、いろいろあります。
 病気が怖い・・・
 老いが怖い・・・
 核戦争が怖い・・・
 テロが恐ろしい・・・
 環境破壊の未来はどうなる?・・・
 温暖化は止められないのか?・・・などと、騒いでいます。
 これらの不安の根底にあるものは何でしょう。
 皆さん、もうお気付きでしょう。根底には、「死」の不安が、あるのです。「死」という核心に触れることを避け、衣を着せて、対面しようとしています。
「38度の高熱でうなされる風邪」と「自覚症状のないガン」と、どちらが恐ろしいかを考えても、根底にある不安は何か、分かると思います。「エボラ出血熱」に限らず、「死」に直結するような病にかかると医師の一挙手一投足、一言一句に一喜一憂し、ある時は死を予感し、ある時は治るのではないか……と希望を抱きます。
 今日、合理主義の教育を受けて「死のもたらすものは、暗黒と消滅のみだろう」と、「死後の無を肯定」しようとしても、わたくしたちの感情は、死の不安に耐え切れず、その矛盾に、苦しんでいます。「死は休息である」とか「永眠である」などと、言ってはいても、結局のところ、「死んだらどうなるか、ハッキリしない……」これが、本心ではないでしょうか。この確実な未来を、「往生一定(おうじょういちじょう)」と明らかにするのが、仏法の目的であり、阿弥陀仏の救いであります。
 仏教は、日本人の生活に根付いていますので、いろいろな仏教用語を見聞きすることは多いのですが、残念なことに、誤解されている言葉も少なくありません。「往生」も、そのひとつでしょう。
 親鸞聖人は、「往生」について二つあることを明らかに教えられています。
「幸福に生かされて往く」という『心の往生』と、「阿弥陀仏の浄土へ往って仏に生まれる」という『肉体の往生』です。そして、親鸞聖人はいま『心の往生』が、できている人だけが、死後『肉体の往生』が、できるのだから、「心の往生を急ぎなさいよ」と、教えてゆかれたのです。
 この親鸞聖人の教えを「平生業成(へいぜい ごうじょう)」と云うのです。   終わり


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