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第73号 「仏教との出遇い」

カテゴリー:法話集    更新日:2015 年 7 月 1 日

 私たちが、仏教に関心を持つと言う場合、どのような時でしょうか。親族の仏縁とか、仏像鑑賞という、感性によるところ。また、健康志向の観音巡りや京都旅行での神社仏閣めぐりなど、日常生活のリフレッシュとかレクリェーションを兼ねた行動指向のような入口から始まるのが多いのではないでしょうか。
 法然上人や親鸞聖人が明らかにして下さった、「ただ念仏」という「教え」と言っても、わが人生の生き方 または、教養として聞く、或いは学ぶことはいいことだ、といって了解する。 あるいは、年老いて仕事を退職した、教養として学んだら少しは人生の足しになるかも、といったようなことだと思われます。
 人生は少しでも快適に過ごすことこそ生きる価値というものであって、そのための手段だと云うことが事実だと思います。
 ある中学生が「この国には何でもある。本当に何でもある。しかし、希望だけがない」と云っているように、便利で快適というのは、人生の手段であって、便利で快適な生活で何を実現するのか、その「何」かが分からない、いや問うことさえしないで、その日暮らしをする、それが当たり前と思っている私たちです。そういう生活の中にあって、宗教に「出遇う」数少ない場が「葬儀」であったり「年回法事」という儀式です。
 民俗学者は「儀式を行う動物」は人間の定義であると言っています。忙しい世の中、その貴重な時間を割いて出席する儀式から、ほんの少し、垣間見る仏教、それがどう受けとめられていくのか、貴重な時間、機会と言うべきではありませんか。
 親鸞聖人の念仏の教えにとって、その貴重な機会をどのようにしたら、有意義な時間としていくか、考えて頂く事だと思います。この事を気づかせて頂いたのが門徒さんからの一言でした。「私がお寺との関係の、きっかけとなったのは、葬儀・法事などの仏事でございます」と、大変ありがたい言葉として受け止めております。門徒さんとお寺との関係を築く、大きなきっかけが葬儀であるならば、葬儀そのものが、ここ2~3年の間に大きく変貌してしまったという危機的な状況がございます。もちろん葬儀だけが危機の状況ではなくて、現在は苦悩とか、悲しみとかを真剣に向かい遇うことがなくなり、考えることが出来なくなって、その上、人と人との関わりの中から、教えられたり、学んだりと云うことが全くなくなってしまい。つまり一緒に考え合う、一緒に学び合うという、日常の当たり前の営みが、根こそぎ奪われた時が、今ではないでしょうか。要するに苦しみとか、悲しみは、ない方が良いという考えが蔓延している時代風潮になってしまった感があります。それを無くすことが、幸せだという考え方です。そういうことに馴染んでしまっているのです。いざ自分の前に苦悩とか、悲しみが起って来た時に、自分の手を汚さないで相手に、ゆだねていくということです。
 つまり、依存的傾向がますます進んでいることだと思います。たとえば、どこの医者が良いとか、どんな学校に入ったらいいのか、或いは、どの葬儀社が安くて親切なのか、こういった形で、とにかく困ったことが起きたら、インターネットで調べたことが正しいと感じる。また専門家とか専門分野の人にお金を払って全部ゆだねていくと云うことです。それは「老病死」に特に顕著に表れています。誰もが老いる身であり、病の身であり、死すべき身であるにもかかわらず、その身と向かい遇って生きていかないのです。その上、最近では心のケアと称して、心の中までも、人に委ねることが商品化してしまっています。ですから暮らしそのものが、すべてお金の出し入れで決まっていて、「いのち」がまったく見えなくなっています。
 浄土真宗の教えは「本当に生きたことになるのか」という問いかけになります。苦悩を苦悩として向かい合わないと云うことは、人間が人間でなくなって行くということです。こういう大きな問題が危機的状況としてあることを一つ教えられます。
 葬儀のことは老病死の「死」という問題が見えなくなった時代ですから、葬儀は一体どうなっているのかと云うと、ますます簡素化していく、「いのち」が見えなくなっていくと云うことです。
 昨今ではテレビや雑誌などで、いろいろな葬儀の在り方が報じられておりますが、本当に死を受け止めると云うことになっていないと云う問題があります。
 一番印象的な部分で云うと、首都圏では寺院に所属している人が少ないと云うこともあるかもしれませんが、全体の3割以上の方が亡くなると直接、火葬場にて荼毘に附されるのが、多くなってきています。多くの方々が、遇い難い仏教の教えに遇っていくと云う事を考えた時に、その場こそが、葬儀であったはずです。その葬儀が変貌し教えに出遇うことが出来ない、死を受け止めることも出来ない、このような状況になってしまって形骸化してきたという大きな問題があります。
 私は、最近ご門徒からお電話を頂くと「ご遺体は今どこにありますか」と尋ねることが多いのです。それは、ご自宅にご遺体が帰れないと云うことです。帰れないのか帰らなくなったのか分かりませんが、家の作りが洋風になり、ご遺体を安置できない作りになってきています。たとえ帰ってこられるような造りであったとしても、周りの人の目を気にして、ご遺体を自宅に安置することが少なくなっているのが現状です。そうすると火葬場や葬儀屋に遺体を預けるわけですが、畳の部屋があり、そこに安置するのであれば良いのですが、今は、ほとんど冷凍庫の霊安室に安置されることになっております。昨今のように猛暑だと遺体の損傷しないよう、わが社には冷凍庫がありますとのセールスにより「おばあちゃんの顔が痛まなくて良かった、親切な葬儀屋さんだね」と言って依存していくのです。死に対する疑問すら感じない、知らず知らずのうちに世の中の商業主義に浸透していくのです。その時、私たち僧侶は、どこまでそれに対応して、悲しみの中から仏教の教えを聞き開いていくことが出来るか、僧侶や門徒が問われている時代だと思います。
 生まれてくるのも家、亡くなっていくのも家、これは昔のことです。今は生まれてくるのも、亡くなっていくのも病院、亡くなってしまえば冷凍庫。「いのち」が全く見えなくなりました。それに対して疑問も感じなくなったと云うのが、現代の危機的な状況ではないでしょうか。 枕経の現代的意義を一つ言うならば、東京近郊なら亡くなってから2~3日後に葬儀と云うことが多いのですが、この間がとても大事です。ご遺体と対面して過ごす、多くの遺族や親類が集まって、亡くなった人の顔を見ながら、そこに思いもかけないことを思い出し、いろいろなことを語る内に、その空間の中で教えられて、学んでいくという歴史があるのではないでしょうか。どうしても愛する人が亡くなって悲しくてしょうがないという、そういう人の問題を、個人の問題としてではなく、あらゆる人が抱えている問題だと、仏教の教えが悲しむ人に呼びかけてきたのです。
 僧侶は、その場に座って、親鸞聖人の教えを僧侶自身も頂きながら、お伝えしていく。そこに苦悩の中から本当の意味での教えに出遇い、うなずいてきたということが、真宗門徒の生活形態だったのです。
 そうゆうことを、通して亡くなっていくという、悲しみを受けとめ、この人は、本当に生きたのだという、「いのち」全体を受けとめると同時に、この私も死すべき「いのち」を生きていると受けとめ、どう生きていくかと云うことが問い返されてくるのだと思います。
 苦悩と、向き合っていくことで何を願い、何を願われて生きているのかを、問い続けてきたのが実は浄土真宗が明らかにした教えです。そして、その苦悩の中にこそ、本当の意味で、人としての深まりもあるし、又、尊さも見出されてきたのではないでしょうか。その場が失われつつあるのです。知らず知らずのうちに失われていくのです。さりげないご門徒の言葉ですが「門徒とお寺の親しくなるきっかけは葬儀です」と、その葬儀も奪われ、教えを語る場もなくなっていくのです。こうゆう状況ですから、人の根本は、不安ですから、ますます依存していくのです。日々の生々しさから目を、そらせてお金で癒されたり、心理学に行ってみたり、カウセリングに行ってみたり、「新興宗教」に溺れてみたり、或いはワークショップ、カルチャーセンターに行ってみたりして、次から次へと癒し・依存の遍歴をしているのが私たちではないでしょうか。
 浄土真宗の仏法は、そういうふうに依存していく傾向を持っている、私たちを照らして依存から独立していく教えです。「依存」と「帰命」は、まったく違います。「正信偈」の「帰命無量寿如来」の「帰命」です。「南無不可思議光」の「南無」です。これについては、皆さんが聞法によって明らかにしていって頂きたいと思うことです。今、苦悩と向き合わない時代と云う事をお話ししましたが、浄土真宗が明らかにした本願念仏の教え、つまり「浄土を拠りどころとせよ」苦悩と真向かいになりなさいという教えです。
 ここにおられる、すべての人の相(すがた)は様々ですが、生まれた時から自分が選ぶことのできない境遇に投げ出されて、様々な苦にあって生き、そして死んでいく身と云うことでは同じです。これが「生老病死」といわれる身の事実です。
 その身の事実のままに、本当に何が願われ、何を願おうとして生きているのか、と云う事を人に寄り添って、問うて来たのが本願なのです。そのことを見失っている、私たちの本当の心の奥底にある、本当の願い、本心を見抜いて、この本当の願いを「本願」と呼びかけて、「本願に目覚めよ」「今、いのちがあなたを生きている」と呼びかけ続けてくださっているのではないかと思います。
 親鸞聖人はご和讃の中で「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と、言い切っておられるのです。聖人の教えを引き継いだ蓮如上人も「寄り合いせよ、談合せよ」とおっしゃいます。
 共に語り合おう、学び合おう、そして私たち以上に、私たちを知っている教えに出遇っていこうと、常に苦悩の生活の中から教えに立ち返ってきたのです。このことが現代においていかに大事なことかと云う事を、今日改めて思うことです。
 苦悩の身に帰っていく、苦悩することの中に本当の自分の人生を見直す機縁が与えられるのだということは、本当に力強い教えだと思います。教えを頂いてみれば、苦悩すると云う、ところに本当に人としての深まりもあるし、かけがえのなさが見いだされてくるのです。ですから「生老病死」に奔走(ほんそう)されながら、それが本願に目覚めていく機縁となっていく道が、すでに先駆けて開かれていると云う事実、このことを是非大事にしたいと思います。人が人でなくなっていく様な現代社会において、いよいよ浄土真宗の教えが、待たれていたのだと思います。その教えに縁あって出遇させて頂くと云うことは大変有り難いことではないでしょうか。どうか、ひとつ迷い多き身でありますけれども、すでに教えが、この私に届いていることに眼を開いて、「生まれてきてよかったと、苦悩多い人生であったけれども生きてきてよかった」という心の奥底の願いを聞き開いていきたいものです。         おわり


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(2015 年 4 月 22 日)