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第71号 報恩講とは

カテゴリー:法話集    更新日:2015 年 1 月 1 日

信心とは
「弥陀の名号称えつつ信心まことに得る人は、憶念の心つねにして仏恩報ずる思いあり」 
 今ここでお勤めしている『報恩講』は、親鸞聖人の慰霊の法要じゃございません。どこまでも親鸞聖人の徳に教えを聞いている。仏法は聴聞なのです。だから、親鸞聖人にお経を上げるのではなくて、親鸞聖人の教えを、私どもが聞いていく、そして私自身が、信心をいただく、この信心をいただいた時、即それが報恩なのです。信心なしに報恩ということは成り立たないのです。 親鸞聖人自身の言葉の中に、信心は……「信心は歓喜だ」と。信心というのは、ああそうだったという喜びの心、それが信心なのです。その信心の歓喜はというと、「慶所聞」聞く所を慶ぶことだという、それが私どもの信心です。
 そして「信心のまこと」ということ、これも親鸞聖人のお言葉ですけれども、「信心まことに得る人は憶念の心つねにして、仏恩を報ずる思いあり」信心まことに得る、この信心をいただいた人には必ず「憶念の心つねにして、仏恩を報ずる思いあり」という。報恩というのはだから信心をいただいた時に、そうだったと頭が下がるところに報恩が成り立ってくるのです。
慰霊とは
 例えば、今親鸞聖人という形で申しましたけれども、皆さんもきっとご両親や、あるいは、ご先祖達のお墓にお参りされると思います。お墓にお参りするのも報恩のお参りなのです。 私どもの宗旨では、慰霊という言葉はございません。慰霊というのは霊を慰めるということです。では霊とは何かというと、辞書を引いてみましたら「死んだ人の魂」とあります。「死んだ人の魂を慰める」どうして慰めるのですか? 慰霊祭とか言うけど、どうしたら慰めることができるのでしょう?言葉では分かります。「慰める」というのは。お墓に行って、安らかに眠ってください、この「安らかに眠ってください」という言葉が一般化しておりますけれども、安らかに眠ってくださいというのが慰霊なのでしょうか?「眠る」という言葉、今はみんな「永眠」と言うのです。「眠る」ということはやがて起きるということでしょう。永く眠る、どんなに永く眠っても、眠った以上は必ず起きるのです。そうしたら死んだ人に「安らかに眠れ」と言ったら、それじゃ眠って起きてきたらどうするのでしょう?起きてくるなと言うのでしょうか、それが慰霊でしょうか、だから「安らかに眠ってください」という言葉をちょっと詮索してみると、訳が分からないです。
 だから本当に、魂を慰めるなんていうことは私どもにはできないのですよ。どうしたら魂を慰めてやることができるのか?そんなことはできるはずはないのです。そうではなくて、私どもがお墓にお参りするのは「報恩」のお参りです。
信心歓喜
 お墓に行った時に、ご両親あるいは先祖のお骨が納まっているお墓に参って、「ありがとうございました」とお礼を申し上げる場所が「報恩」の場です。 お墓参りというのは亡くなった人に対するお礼のお参りです。どうしたらお礼ができるかというと、私は信心歓喜して、人として生まれてよかったという喜びがあったときに初めてお墓の前に行って、ありがとうございました、と頭が下がるのです。私にその信心歓喜がなかったら、お墓の前で頭は下がりません。
 俺の病気を治せとか、調子が悪くなったのは、お前のせいだ、何とかよくしてくれと。自分の欲をなすりつける所になっているのではないですか。慰霊だと言いながら、自分の欲をなすりつけているようなことは、それは全然魂を慰めることじゃありません。そうではなくてお墓参りというのは報恩のお参りなのです。  まず私自身が信心をいただくということです。その時に人として生まれた喜びというもの、人間として生まれてよかった、といった時に初めて、親の前に行って、ありがとうございましたと頭が下がるんです。
 まず仏法の教えを聞いて、聞いたところに信心歓喜が生まれてくるのです。その時に初めて、報恩の思いでお墓の前へ行ってお墓参りができるのです。これが本当にないとお墓参りにならないのです。皆さんいつもご両親のお墓やら何やらにお参りする時に、もうこれがなかったらお参りにならないのです。この時に初めてお参りするということが成り立ってくるということでございます。
娑婆
 昨年の『報恩講』のお参りの時に、たしかお話をした中に「娑婆永劫の苦を捨てて、浄土無為を期すること、本師釈迦の力なり、長時に慈恩を報ずべし」これは非常に難しい言葉が並んでいますけれども、大事な教えでございまして、これは御和讃ですから親鸞聖人のお言葉なのですけれども、仏教ではこの現実社会、社会ということを「娑婆」と言うのです。ところがこの頃はあまり「娑婆」という言葉も使われなくなりました。 私の寺によくお参りされるお婆さんが、「何事も娑婆ごとで」という言葉を使うと、若い息子さんが「お婆さん、あんまり娑婆っていう言葉は使わんほうがいいぞ」という。何でか?「娑婆」なんていう言葉は、やくざが刑務所へ入っていて、刑務所から出てくる時に「これでやっとシャバに帰れる」という、やくざ言葉だ、と言われたのです。(笑)
 だけどもこれは仏教で言うのは現実、私どもは現実社会を「娑婆」と言うんです。
 これは日本の言葉じゃないのです。これはサンスクリットと言ってインドの言葉です。サンスクリットでシャバというのはどういうことかというと、「サーハ」と言います。「サーハ」というのを「シャバ」と訛って使うようになったのです。では「サーハ」というのはどういう言葉なのかというと、それを翻訳すると「堪忍土」。堪忍というのは、ならぬ堪忍するが堪忍という、がまんすること。しなければ生きられない。思うようにいかなくてがまんしなければ生きられないということを「サーハ」と言います。そしてそれがそのまま「シャバ」とこうなる。「娑婆」とは何かというと、世の中というのはがまんしなければ生きられない所、それが「娑婆」なんだという言葉です。
 親鸞聖人は「娑婆永劫の苦を捨てて」この娑婆で永いこと苦労して、その苦が尽きて……やがて私どもは娑婆の縁が尽きるわけですから、親鸞聖人もおっしゃっているのです。 必ず、「娑婆の縁尽きて、力なくして終わる時には、かの土へまいるべきなり」と。これは親鸞聖人の『歎異抄』の中のお言葉です。やがて私どもは娑婆の縁が尽きる。この娑婆の縁が尽きるということは何かというと「娑婆永劫」永劫という永い間の苦を、苦労を捨てて、それで「浄土無為を期すること本師釈迦の」……そういうお浄土を明らかにしてくださったお釈迦様の教えによって、浄土無為を期待することができるようになったのは、仏法を聞いたおかげなのだから、「長時に慈恩の」慈しみの恩を報じなさい、長い間の苦労を捨てて「浄土無為を期する」。これが親鸞聖人の御和讃です。
お浄土
 お浄土というのは無為の世界なのだと、親鸞聖人が教えてくださった。この頃お浄土という言葉もあまり使わなくなりました。私どもの宗旨を「浄土真宗」と言うのです。
「真宗大谷派」では、「真宗」とだけ言って「浄土」を付けないで呼んでおりますけれども、「浄土真宗」です。
 真宗はまこと……浄土真宗。天国真宗じゃないのです。この頃はだけど「浄土」ということも「死んで浄土に行く」ということも言わなくなった。みんな「天国」「天国」という。「永眠して天国へ行く」という。じゃあ天国はどこにあるのでしょう?遙か彼方、みたいな、何億光年先なのか?この間も何ですか、何年間か回ってきたロケットが、衛星に着いたと言うので、じゃあやがて天国へ着くことができるようになるのか、ロケットを作って。どうも「天国」というのはそういう所ではないようで、それで何かいろいろ聞いていると、「天国のお父さんに見守られながら」とかって、どこからか見てくれてることですよね?だからこの頃あまり「地下に眠る」っていうこともあまり言わなくなったのですね。かつては「地下に眠る」と言っていたのですが、この頃は「天国のお父さんが見守っていてくださる」天国。じゃあ天なのか地なのか?(笑)どこへ行くのだろう?みんな勝手に「いや、私は天国だと思う」……「思う」でしょう?思うというのは、私はそういうふうに想像している、ということなのです。
 だから今日本人が常識的に使っている「死んだら天国」というのは、みんな人間の空想です。人間が勝手にそう思いこんでいるだけの話で、そういうのは空想と言うのです。どこにある?と言われたら「さて、分からない」だから言葉として「天国で私を見守ってくださる」というふうに想像しているだけの話です。現代の日本人が常識的に使っている「死んだら天国」というのは、これは空想です。だから当てにならん。
 それじゃ「お浄土」も空想じゃないかと。死んだら西の彼方のお浄土へ行くのだ、とか言うけど、「浄土」というのも空想じゃないか?親鸞聖人は、それは空想じゃない、「無為」だと。「浄土無為」これは親鸞聖人のお言葉です。「無為」。さあ(笑)、どういうことなのだろう?「無為」の反対は「有為」です。この言葉はよく使っているのですよ、私も。有為と無為。                            次号につづく


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(2023 年 7 月 12 日)