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第70号 「お内仏の前に座りなさい」

カテゴリー:法話集    更新日:2014 年 10 月 1 日

「お内仏の前に座り、手を合わせることで
      自らを問い直していく事が大切です」

 真宗は、悩みがあろうが、なかろうが、困った時にお墓やお内仏の前に座りなさいとは言いません。
 但し、定期的にお内仏の前に座って、「正信偈」のお勤めや、ご和讃を通して親鸞聖人の、お言葉に触れるということを、朝晩やりなさいとお話ししています。
 なぜ、そのように言うのか、それは、人間の知恵と努力だけに任せておくと、人間の知恵は、ものすごく素晴らしいものであると同時に、その知恵に思いあがり、大事なことから遠ざかっていってしまうからです。 そのことを実感しているのです。
 現在では、各家庭にお内仏があったとしても、法事の為や、お坊さんが来た時だけ、用事がある時だけのものになっているのではないでしょうか。
そして、お内仏の前に座る時というのは、困ったことや、悩んだことの、解決のために座ってはいませんか。
 ご門徒の皆さん、これは、仏様の知恵を借りようとする私たちの浅はかな都合によるものです。そうではなくて、ご本尊の前に座ることによって、自分では気づかない、姿に気づかせていただくことが、必要なのです。
 例えば、お経の中に、「無」や「不」という言葉が、たくさん出てきます。これらの言葉は、否定を表すものですが、一方では仏様の世界を表す言葉もあります。お浄土や阿弥陀様という如来の徳を表す言葉です。
 つまり、お浄土が「量(はかり)」の世界ではない「無量」の世界だということです。
「量」というのは、私たちの状態や関心ごとです。私たちはその「量」が気になって仕方がないのです。何でも数値化しようとし、また、何でも損得に置き換えて、その考え方に振り回されながら生きているのです。私たちは量(はか)ってばかりの優先順位で生きており、それを超えた世界が「無量」なのです。
 「無辺」という言葉、これも同じことです。この「辺」というのは、自分で自分の垣根を作って内と外に分けているということです。自分の考えている垣根の内にいればいいけれど、外のことになると駄目だとなるのです。私たちはこの垣根を各自各様に持っていますから、この垣根が大きい人もいれば小さい人もいます。この垣根の中にこもってしまと「自我」となるのです。この「辺」の垣根が高ければ高いほど、自我が強くなるでしょう?他人の言うことを聴かなくなるのですから。それをよくよく感じなさいということです。だけど私たちは絶対自分でこういう垣根を作っているはずです。ここまでは許すけれども、ここからは許さないぞ、というような思いです。ですから人に話しかけられても、垣根の入り口があるかないかによってずいぶん変わるのです。垣根の入り口を大きくするか、小さくするだけの問題なのです。なるべく人の話をよく聞きなさい。というのはそういうことなのです。
 私たちがよく使う言葉として、この間の東北の地震などでは「想定外」という言葉がよく使われるようになりました。
あれは人が考えている以上のことが起きたからでしょう。想定外、想定外と言っていましたけれども、色々な教えも同じことです。それを感じると、もっともっと教えを聞きたいと言うことなのですが、それがなかなか私たちには簡単に想定できないのです。
 分かった、分からないという言葉でも同じことです。垣根の内のことだったら分かるけれど、垣根の外になってしまうともう分からないということなのです。
 お釈迦さまの教えには、このような「垣根の壁」はないのです。もっと広大な考えを持ちなさいと言われているわけです。この垣根の壁を取り払い、深く広い世界をもっと知りなさい、というのが仏教の教えなのです。
お内仏のある生活
 お内仏の生活というのは、「無量」だとか「無辺」とか、お浄土の世界に定期的に触れるということが形だけ残ってしまっているわけではありません。お内仏は法事などのためだけに使われているのではないです。朝晩手を合わせるというのは、自分の心の中をよく見据えなさいということです。
 浄土真宗は、いつも言われる、聴聞しなさい。去年の報恩講の時に北原先生の講話の中に、「聴聞」両耳でしっかりと聴きなさい、大事なことです。なぜ「聞法聴聞」しなさいというのか。「聞法」というのは、真宗の教えでもそうですが、お話を聴くということはものすごく辛いことでしょう? 正直な話、皆さん方もそうだと思うのですが、勉強するときに問題を解くのに答が先に分かって、その問題を解きますか?それと同じことなのです。何回も聞いていると話が通じてくるのです。
 いつも私がお彼岸やお盆の時に話すのは、よく聴きなさい、忘れてもいいんです、でもどこかで同じことを、あのことだったなあと気付かせてもらえますから。最初に聴いてすぐに、ああそうか、と頭で理解してわかった気になるのが一番良くないのですが、話を聞いて悩むことが大変なのです。何なのだろう、と。今日の話のように「辺」だとか「秤」だとか言われたって、秤は計るものだろう、と思うのと同じことです。でもだんだん、このことが何を言っているのかが、一カ月か一年か、十年かかるかも分かりませんが、分かってきますよということです。
 「聞法」とは、基本は木です。木があって、根っこがいっぱい出ているけれども、根から水や栄養が入って来て、葉からは太陽の光を頂き大樹になる、この根っこが聞法です。そして水や資料が何かといえば、親鸞聖人の教えです。
「いのち」
 最近、私が法事の時にお話しするのに「いのち」の大事さを話すのです。先日ご門徒さんの家に一周忌でお伺いした時に、大学生のお孫さんがおられて、お葬式のお話になったのです。そうしたらそのお孫さんが「住職、お通夜って何でやるのですか?」と。
 お通夜というのは、身内の人があつまって、亡くなった方からの教え(死について等)のことを、いろいろ話し合う場なのです。だから家族で一晩中亡骸を目の前にしながら、お話しするというのがお通夜なのです。ところが、今はもうお通夜になると亡骸がお棺の中に入ってしい、祭壇が飾られたところにおられるから、通夜式です。それだけ変わってきているので、「いのち」について話し合えないのです。お子さんからの質問にも答えられないし、最近はお子さんが怖がるからと言って、親が亡骸の側にも寄せなくなってきています。あれだけ生きている間、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんと言ってお孫さんが一生懸命なついていたのに、亡くなった途端に親が「来るんじゃない」と言って見せない。そうなると「いのち」の大事さも分からない。下手をすると「お祖父ちゃん、今寝てるから」と言うか「遠い所に行っちゃったのだよ」「うん、じゃあその内起きるの?」というと「うーん」で終わっちゃうのです。そういう話をしていたら、お孫さんが言うには「お葬式というのは斎場でおこなうものでしょ?」と。皆さん考えたことないでしょ? 私もびっくりしました。ところがそのお孫さんはさらっと言ったのです。そうだよ、最近お家からは出さないものね、だからお葬式というのは葬儀屋さんの式場とか、斎場の式場とかで行うものと思っていた、と言うのです。お母さんは「いや、違うよ、昔は家で葬式をしてたのですが、今はほとんど行われなくなった」。そう、今は東京においては99パーセント以上ですかね?お家で葬式をしないです。最近公民館も使わなくなりました。近くの町会の会場も使わなくなりました。全部斎場ですね。
 私は最後に言ったのです。「お寺でもできるのだよ」と。「えっ?」そのお母さんも「えっ?」と。皆さんも「えっ?」でしょう?お寺でやるなんて。でも、お寺でできるのですよ。
 お寺のお葬式は、お内陣にお棺を置くだけです。だって仏さんがいるのですから、あと飾る必要ないでしょう?そう思いませんか?一番尊い。だから私はよく、お寺に生まれてよかったと思います。
 話を元に戻してお寺は「聞法」の場所。法が説かれている場所、お内仏の前、身を運ぶことができるということが大切ですよ、というのが一番の元ですね。お内仏の前に座るということは、やはり「聞法」を聞くのと同じです。手を合わせるということは。頼み事ではなく、ただ手を合わせて「南無阿弥陀仏」の一言でも言えるようになれば、それが「聞法」の場所なのです。お家でも。それを皆さん方忘れないでしていただければありがたいなと思います、できれば正信偈(寺由寺在会で練習)を読まれるようになっていただければありがたいなと思います。経本(赤本・橙本)を見ながら声を出すということが大事です。だから棒読みでもいいのです。そうするとだんだんとこの経本には何が書いてあるのかなというのが、字を見ながら判断できます。そのようになっていただけると、本当にありがたいなと思いますので、きょうは本当に脱線しながらお内仏の前に座るということがどれだけ大事なことかというお話をしました。どうか皆さんもそのような思いでお内仏の前にお座りになっていただければ、ありがたいことだなと思います。
    どうもありがとうございました。


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