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第66号 往生浄土の素懐を遂げて

カテゴリー:法話集    更新日:2013 年 10 月 1 日

「死後って」 源信寺住職 會谷順雄
 「極楽」とか「浄土」などと聞くとどう感じられますか?
「死んだ後に、地獄や極楽が有るとか無いとか、昔ならいざ知らず今時おとぎ話ではないか?そんなこと、どうして信じられる?」と思われるかもしれません。
 アンケートによると「死んだらどうなると思う?」の問いに、
「何も無くなる」と答えた人は、66%。
「何か別の世界がある」は、34%でした。
つまり「死んだら無になる」と思う人が多いようです。皆さんは、どう思われますか?
「死んでみなければ分からない、考えたこともない!」という方もあるでしょう。ただ、その様な方も身代わりの利かない自分自身が行く先ですから、一度、じっくり考えて頂きたいと思います
 禅僧の一休は、「門松は 冥土の旅の 一里塚(いちりづか)」と歌っています。
「冥土(めいど)」とは「死後の世界」のことです。
 一年たてば一年、それだけ大きく冥土に近づいているということです。「生きる」ということは、死へ向かっての行進であり冥土への旅なのです。
 「来世は有るのか、無いのか?」と、尋ねられれば「有る(と思う)」とか「無い(と思う)」と、自分の信条を答えることはできても「でも、ハッキリしないなぁ・・」が、本心ではないでしょうか。 「死後は無い」という人も、絶対に無いとは言い切れない。
 「死後は有る」と思っている人も、それはどんな世界なのか明言できない。
 私たちは生きていて何が不安かといえば「未来がハッキリしない」これほど不安なことはありません慣れない土地で、初めてバスに乗った時など、目的地に着くまで不安な思いをした経験は、誰しもあるでしょう。「先行き不透明な日本経済」とも言われます様に「この先どうなるか分からないから、思い切って消費することができない」そんな気持ちも、よく分かります。
 東日本大震災の被災者の方も、先行き見えない不安に苦しんでおられるとも聞きます。そのように「未来」が暗いと「現在」の心が暗くなるのです。
 親鸞聖人は、常に不安や苦悩の人生の根本原因は100%死ねばその先どうなるのか分からない、「後生暗い心」ひとつであると、教えておられます。この心を、「無明の闇(むみょうのやみ)」といわれます。この「無明の闇」を、阿弥陀仏の本願力によって一念(いちねん)で破っていただいたならば、いつ死んでも、阿弥陀仏の極楽往き間違いない、往生一定(おうじょう、いちじょう)の身に生かされるのです。阿弥陀仏の極楽浄土は、限りなく明るい世界ですから、親鸞聖人は「無量光明土(むりょう、こうみょうど)」と教えられています。
 私の、人生の行く先が100%限りなく明るい未来とハッキリするから、明るい人生が開かれるのです。
 私たちが人間に生まれた究極の目的は、そこにあるのだとお釈迦さまも親鸞聖人もそのことひとつ、と仰られています。
  「往生とは」
 仏教は、日本人の生活の中に根付いていますので、いろいろな「仏語」を、見聞きすることも 多いのですが、かなしいかな、誤解されている言葉も少なくありません。
 「往生(おうじょう)」も、そのひとつです。この言葉について考えてみたいと思います
 皆さんは、「往生」とは、どんな意味だと思っておられますか? 新聞やテレビ、あるいは、日常会話の中で、「往生」という言葉、どんな意味で使われているでしょう。
 「往生」といえば「困る」とか「死ぬ」ことだと思っておられる方も、多いのではないでしょうか。 たとえば、「猛吹雪の青森で、車200台、立ち往生」「高速道路で、車のタイヤがパンクして往生しちゃったよ」「山の中でエンジンが故障して往生した」「突然、雨が降ってきて往生しました」など、「困った」とか「弱った」ことを、「往生した」と言っているのを、よく見聞きしますね。また「今朝、隣のお婆さん、往生したそうだ」とか「弁慶の立ち往生」など、「死んだこと」を「往生」と言っている人もあるようです。長生きした方が亡くなりますと、「大」の字をつけて「大往生」などと、テレビや新聞で、報じられることもあるようです。 このように、世の中では「困る」ことや「死ぬ」ことを「往生」と言われているのですが、実はこれは、大変な間違いなのです 。
 字を見ても分かりますように、「往生」の「往」は「往く」という字であり、「生」は「生まれる」とか「生きる」という字でありますから「困る」とか「死ぬ」という意味はどこにも見当たりませんねそれどころかその反対です。では、仏教で「往生」とはどんなことを言うのでしょう?
「往生」には、二つの意味があります。
 ひとつは「生かされて往く」と読む往生と、もうひとつは「往って生まれる」という意味の往生です
 まず「往生」を「生かされて往く」といわれるのは、どんな意味なのでしょう。
 私たちの人生は、苦しみ悩みの波の尽きぬ海のような人生を親鸞聖人は「難度海(なんどかい)」とか「生死(しょうじ)の苦海」と仰り、苦しみ悩みの波が、次から次とやってきます。ひとつの苦しみを乗り越えたと思ったら、次の苦しみがやってくる。「この坂さえ乗り越えたならば」と信じて登ってみると、その先には、もっと急な坂道が待っている。死ぬまで、苦しみ続けなければなりません 。
 これでは私たちは、いったい何のために生まれてきたのか? 何のために生きているのか? なぜ生きねばならないのか? わかりません。
 苦しみに耐えられず「死んだほうがましだ」と自殺していく人も日本だけでも年間3万人もいます。
 このような苦悩さかまく人生の海に、溺れ苦しんでいる私たちが、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、「よくぞ人間に生まれたものぞ!」
「人間に生まれることができてよかった!」といのちの大歓喜を獲て、一息一息が明るく楽しい人生に生まれ変わることを「生かされて往く」往生と言われるのです。
 もう一つの「往って生まれる」という往生は、死ぬと同時に、阿弥陀仏の本願に救い摂られて、阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、阿弥陀仏の処で生まれさせて頂けることをいいます。
 このように「往生」ということには、「現在の往生」と「死んでからの往生」と二つありますが、現在ただ今、往生できている人だけが、死んで往生させて頂けるので親鸞聖人は「生きている時の往生を急げ」と叫び続けられたのです。
 「往生」の語源は 仏教の教えですから、その正しい意味をよく知ることが大切です。
                                         おわり


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