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第62号 「白骨の御文について」

カテゴリー:法話集    更新日:2012 年 9 月 30 日

されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
 これからの五十年といえば長いような気がしますが、過ぎ去った五十年はアッという間でしょう。五十年生きた、百年生きた、と言っても、大宇宙の歴史から見れば、アッという間です。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず
 生まれたからには、いつか死なねばならないと、頭では分かっています。しかし「明日、自分が死ぬ」と思えるでしょうか。まさか今日や明日には死なないだろう、と安心しています。しかし「明日死なないと思う心」は、「永久に死なないと思う心」です。明日も生きていられると思う心は、翌日になれば、また明日も生きていると思います。次の日には、また明日も死なないだろう、と思うのですから、腹底では、永久に死なないと思っているのです。それが本心です。
「鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人も何時まで」
 鳥辺山とは、今日でいう火葬場です。その前を通る人が、いやあ昨日も煙が立っていたが、また煙が立っている。今日も人が死んだのか、と眺めています。しかし、いつまで眺めていられるのか。自分が焼かれて、他の人がその煙を眺める時が、必ず来るのです。
 死ぬのは「人や先、人や先」と思っていないでしょうか。よく考えている人でも、「人や先、我や先」まででしょう。まず他人が死んで、それから自分が死ぬと思っているのです。しかし「我や先」ですよ、と蓮如上人は教えられています。自分が先に死んで、その次に他人が死ぬのです。
 ごまかしを破って、徹底的に真実を明らかにしなければ、後生の一大事は分かりません。
おくれ先だつ人は、もとの雫・末の露よりも繁しといえり。
 お釈迦さまに、ある時お弟子が尋ねました。「お釈迦さまは仏のさとりを開かれていますから、悩みはないのでございましょう」するとお釈迦さまは、「私にはたった一つだけ、悩みがある」とおっしゃいました。どんな悩みか重ねて尋ねると、「私の心には、雨が降るように、バタバタバタバタと人間が地獄に堕ちる様が映れるのだ。それを思うと悲しい。これだけが、私の唯一の悩みだ」と答えられました。
 世界の年間死亡数は、八千万とも九千万ともいわれます。今日一日だけで、何万の死者が出ているかわかりません。時計の針がカッチという間にバタバタと数人が死に、カッチという間に、また数人死に、そこにいつか自分も入るのです。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
 夫が家を出る時は「行って来る」と言います。「行って、帰って来るぞ」と言っているのです。「だからご飯を用意しておけよ、風呂もわかしておけよ」という意味も、含まれているのかもしれません。しかし、行ったきりで、帰って来れない。そんなことが、新聞やテレビで毎日報道されています。
 電車も安心して乗れません。「少し奧へ詰めてくれないかな」と言っただけで、二十六歳の男性が殴殺されています。大阪では小学校に包丁を持った男が乱入し、八人の児童が犠牲になりました。朝、家を出るときは、元気な顔をしていたのに、夕方には変わり果てた姿になってしまうのです。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 お釈迦さまは「出息入息不待命終」と、お経に説かれました。ほとんどの人は、死は遠い先のことで、生と死とは、まったく別のもののように考えています。しかし、息を吐いた息が吸えなかったら、吸った息が何かの拍子で吐けなかったら、その時から後生です。一息一息に、生と死とが触れあっています。これほど近いものはありません。
 「無常の風」とは、死の風です。手術で助かったと言っても、死が少し遅れただけで、やがて死ぬ時がきます。日本中の医者を集めても、看護婦をどれだけ集めても、どんな薬を使っても、無常の風を止めることはできないのです。
 テレビなどで、遺体に身内の人がとりすがる光景が映されます。「目を開けて」「もう一度笑って」「もう一度何か言って」どれだけ泣き叫んでも、嘆き悲しんでも、どうしようもありません。永遠の別れがやってくるのです。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
 どんなに大事な人でも、いつまでもそのままにしてはおけませんから、葬儀の相談が始まります。野辺送りをすれば、最後に残るのは白骨だけ。これが人間の本当の姿です。
 生きている時は、これこそ本当だ、間違いない真実だと思って、一生懸命になっています。しかし、それがどうなったでしょう。「無駄だった。バカだった、バカだった……」 頭をたたいて死んでゆく末路を、釈尊は「寒林(かんりん)で屍を打つ」と教えられています。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
 「老少不定」といわれるように、年をとった人から死んで、若い人は後で死ぬ、ということは決まっていません。若くても交通事故で死ぬ人はたくさんいます。無常の前では、同じです。だから「誰の人も」といわれ、どんな人も後生の一大事解決を急ぎなさい、とおっしゃっています。
 すべての人の行き先は後生です。後生の一大事と無関係な人はいません。浮き世の丸太に心を奪われている私たちに、後生の一大事を心にかけよ、後生の一大事を忘れるなと教えておられるのです。
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
 阿弥陀仏の本願に救い摂られて、御恩報謝の念仏を称える身になりなさい、ということです。 阿弥陀仏とは、大宇宙にガンジス河の砂の数ほどまします仏さまの本師本仏と仰がれる仏であります。最高無上の仏でありますから、無上仏ともいわれます。
 その阿弥陀仏が、次のような尊い本願を建てておられるのです。「どんな人をも、必ず救い助ける」 救い助けるとは、死が眼前にやってきても、絶対に崩れることのない助けをいいます。
 阿弥陀如来は、苦悩の根元である無明の闇を、アッと言う間もない一念で破り、生きてよし、死んでよし、往生一定、いつ死んでも極楽往生間違いない身に救う、と誓っておられるのです。「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」とおっしゃっているところが、その往生一定になった一念です。
 ここで注意せねばならぬことは、「たのみ」とは、今日のようにお願いするという意味の「頼む」ではないということです。現代語で解釈すれば、阿弥陀仏に助けてくださいとお願いせよといわれているかのように思えますが、蓮如上人は、「信じる」ことを「たのみ」とおっしゃいました。
 素晴らしい阿弥陀仏の本願に救い摂られ、生かされた人は、阿弥陀仏にお礼の念仏を称えずにおれなくなりますから、最後に「念仏申すべきものなり」と締めくくっておられるのです。
 念仏は、「助けてください」という祈りの言葉ではなく、「こんな素晴らしい人生をいただいて、ありがとうございました」という御恩報謝の言葉なのです。
 世の無常を切々と訴え、阿弥陀仏の本願を信じて、早くこの後生の一大事を解決してくれよ、というのが、「白骨の御文章」に込められた蓮如上人の御心であります。


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