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第30号法話「凡夫をに生きる」

カテゴリー:法話集    更新日:2005 年 3 月 1 日

北原 了義師 (西照寺住職)

2004年11月23日 源信寺本堂にて

報恩感謝
 「報恩講」とお聞きになりまして、どういう仏事だと思われますか。普通、「報恩」と申しますと、いわゆる「報恩感謝」という意味に理解されます。今朝、ラジオを聞いておりましたら、アナウンサーが、「今日は勤労感謝の日で」と申しておりました。そこでも、勤労を感謝するという言葉が使われています。「報恩」という言葉ではございませんけれども、「報恩」は、普通は「報恩感謝」と言っておりますから、勤労感謝の日と、「報恩講」の、「報恩」は、意味は同じなのかと思います。常識的にはそう思いますね、親鸞聖人のご命日が十一月二十八日で、京都のご本山でも報恩講をつとめております。正式には、親鸞聖人のご命日にご門徒、親鸞聖人に教えをいただいた方が報恩講をお勤めするという意味です。
 今朝のラジオのアナウンサーは、「今日は勤労感謝の日で、勤労を感謝する。勤労を感謝するということは、どういうことでしょうか。もう古い言葉になりましたが、有森裕子さんが、以前、オリンピックで三位に入られた時に、『自分をほめてやりたい』と言っていられましたけれども、勤労感謝の日は、普段、一生懸命働いている自分に感謝する、自分をほめてやりたい。そういう日でしょうか」とおっしゃっておりました。なるほど、報恩感謝ということは、自分の勤労をほめることなのかなと理解したのです。改めて「感謝」とはどういうことなのかと問われると、ちょっと理解できません。殊に、報恩講のお勤め、今日も最後の親鸞聖人のご和讃をみんなで唱和するのですけれども、『如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし。師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし』。如来様の大悲の恩徳、ご恩というものは身を粉にしても報じなければならない。「師主知識」というのは、仏法の教えを、私に聞き届けさせてくださった人たちという意味です。私に直接、教えいただいた人たちの恩というものも、骨を砕いても感謝してやらなければならない。「骨を砕け」と言われても、そんなことは私ができるわけがないですね。「身を粉にしろ」、「骨を砕け」。どういう意味で、親鸞聖人はこの和讃を作られたのであろうか。そういうことも尋ねてみなければならないと思うのです。「如来のご恩」と言われても、なかなか分からない。今日は拝読されませんけれども、
『弥陀の尊号をとなえつつ、信楽まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり』
 というご和讃を、これは親鸞聖人がお作りになったのです。「弥陀の尊号をとなえつつ」というのは、「南無阿弥陀仏」ということです。お念仏。「信楽」というのは、「信心」ということです。「信楽」と書きまして、「しんぎょう」と読みます。ご和讃の書き写しの本の中には、「信楽、まことにうるひとは」というところが、「信心、まことにうるひとは」と、書かれているものもあります。原本のほうには、「信心」となっております。「信心、まことにうるひとは臆念の心、つねにして、」、いつもお念仏のいわれを思い起こして、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す人は、仏恩を報ずるおもひあり。仏の恩ですね。仏恩を報ずる、感謝する。こういうご和讃がございます。報恩ということは何かというと、信心を明らかにするということです。それに尽きるわけです。誰のか。誰の信心と言っても、やっぱり私のご信心を明らかにするということですけれども、それがなかなか受け取れません。
親鸞聖人のご生涯
 親鸞聖人のご生涯をごく簡単に申しておきます。親鸞聖人は、平安末期から鎌倉時代においでになった方です。平安末期に、ちょうど平家が滅亡していく時代にお生まれになって、九歳で得度されて、二十年間比叡山で、天台の修行をされた方です。二十九歳の時に山を下りて、六角堂で百日の参籠をされて、その暁に夢のおつげを得て、法然上人にお会いして、念仏の教えに眼を開いていかれました。五年間、法然上人の元で、雨の日も照る日も、毎日法然上人の元にお通いになって、念仏の教えを聴聞されたのです。ところが、法然上人の教えを聞く人たちが、時の南都北嶺の僧徒の人たちからの弾圧を受けまして、朝廷が念仏を停止させるという、「念仏停止令」というものが出まして、法然上人も親鸞聖人も、そのほかの方も流罪の身になられるのです。親鸞聖人は、法然上人の門弟ということで流罪になって、越後の国の国府に流されるわけです。そこで五年間、越後で生活をされます。五年後に朝廷から流罪が許されました。どうして関東においでになったか分かりませんけれども、当時の鎌倉時代の関東においでになるわけです。この関東の地に、四十二歳から六十二歳までの二十年間、関東地方においでになります。東武野田線がありますけれども、野田には親鸞聖人の門弟、西念という方がおられましたり、あちらこちらに親鸞聖人の遺跡が、そのころできた何々門徒、何々門徒という関東のご門徒たちが、親鸞聖人から念仏をお聞きになった所が、関東周辺にございます。六十二歳で、親鸞聖人は関東地方を去って、京都へ帰られて、九十歳になるまで、いろいろな御聖教を記しておいでになります。九十歳のお年、弘長二年十一月二十八日に、浄土へ帰っていかれました。
『歎異抄』第二章
 これは親鸞聖人の教えを聞いた人が、「親鸞聖人から、私はこのようにお聞きしておりました」と言って記された、『歎異抄』という御聖教があるのです。ここには、第二章だけプリントをしていただきました。一般の本屋さんに行かれましても、岩波文庫や角川文庫などで、『歎異抄』という御聖教が、文庫本で今でも出ています。もちろん、私どものご本山の出版部からも、『歎異抄』というテキストとして出ていますので、すぐ手に入れることができる書物です。親鸞聖人の教えを、端的に記された御聖教でございます。『歎異抄』という御聖教は、全部で十八章です。文庫本にしても、一番薄い文庫本ですから、短いものです。しかし、この『歎異抄』によって、本当に信心を明らかにされた方が枚挙にいとまないです。ほとんど親鸞聖人が直接お書きになった『教行信証』などの御聖教に触れるよりも、『歎異抄』に触れて、念仏の教えにいただかれたという方が、沢山おいでになります。殊に第二章によって念仏の触れられた方。もっと言いますと、今日いただいた講題の「凡夫として生きる」、凡夫を生きるということが、本当に信心をいただいた人の道です。一応、これを読みます。
『おのおのの十余箇国のさかいをこえて、身命をかへりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちを問きかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおおく座せられて候うなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候う。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏に成るベかりける身が、念仏を申して、地獄にもおちて候わばこそ、すかされたてまつりて、という後悔も候わめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうベからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつて、むなしかるべからず候うか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと』 云々。
 この時代の言葉ですので、非常に難しい言葉があります。今は使わない言葉がたくさん出ておりますので、なかなかすぐにご了解をいただけるのは難しいと思いますけれども、しかし、こうやって読んでみると、何か響くものがありますでしょう。関東においでになったころに教えを聞いた人が、親鸞聖人が六十二歳の時に京都へ帰られたものですから、親鸞聖人の教えを聞いていた人たちは、「私は親鸞聖人から、こう聞いた」、「いや、私は、親鸞聖人からこういうふうに聞いた」と言うので、「いったいどんなことをおっしゃったのか。それなら一度、京都まで親鸞聖人を訪ねて、真宗の念仏の教えをきちんと教えていただこう」ということで、当時の関東から、おのおの十余カ国の境を越えて、京都まで訪ねたというのです。、
『身命をかへりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちを問きかんがためなり。』
 親鸞聖人は、「あなたたちがおいでになったのは、往生極楽の道を尋ねたいから、おいでになったのでしょう」と、言われたのです。関東の人はそうではなかったのです。「念仏というのは、こういう教えだ」と、説明をしてもらうために来たのです。親鸞聖人も、「説明を聞きたかったら、比叡山にも、奈良の興福寺にも立派な先生方がたくさんおいでになるから、そこへ行ってお話を聞きなさい」とおっしゃるのです。「あなたたちが来たのは、真宗の教えについての講義を聴きに来たのではない。説明を聞きに来たのでもない。往生極楽の道を問い聞かんがためなり」と言われたのです。皆さんは、どういうふうに思われますか。「往生極楽」と言われた。
往生極楽
「往生極楽」というと、人が亡くなって、往生して、極楽に行かれるという意味で、私どもは、「死者の往生極楽」というふうに受け取るのです。ところが、往生極楽は死者のためではないのです。仏法のお話を聞くということは、知識を得るために聞くのではなくて、わが身の姿に気付かせてもらうということです。往生ということは、信心でございます。浄土ということに、「そうだ」と気が付いた時が往生です。死ぬことではないのです。親鸞聖人の『歎異抄』のお言葉の中に、『娑婆の縁なくして、ちからなくおわるときには、かのどへまいるべきなり』ということに、今、気が付かせていただいた。それを、「往生決定」と言います。往生を決定したということです。信心が明らかになったということです。私どもは、すぐに「死んだ人」と思うのです。それもどこに往生したかといえば、極楽往生。極楽ということは、浄土ということです。ところが、このごろは、「浄土」も「極楽」も、あまり使わないですね。人が死んでいくのは、みんな「天国」とおっしゃるのです。キリスト教の教えは、「天国」と言われます。仏教界では、「天上界」ということは言います。私どもが今、使っている「天国」、著名人が亡くなったりすると、テレビではレポーターが盛んに「天国へ」と、死後の世界を天国と言っております。どうも、キリスト教で言う「天国」でもないし、「天上界」でもないし、天国はいったいどこにあるのであろうか。はるか彼方にあるのであろうか。では、「天国」と「極楽」ではどう違うか。昔の人は、年を取った人は、「極楽」、「極楽往生」と言っていた。では、「極楽」はどこにあるのか。さらに、それを「お浄土」なんて出てくる。「極楽」と「浄土」はどう違うのか。みんな、「死後の世界」と理解しているのではないですか。天国というかたちで、死んだ後の世界、極楽と言ったら死んだ後の世界。死後の世界ということを、こういうふうにいろいろ思っています。では、死後の世界をどういうふうに受け取っているかというと、「死後の世界はこうではないかな」と、思っているだけではないですか。そうでしょう。「どんな所か」と聞かれたら、自分では漠然と、「お父さんがこんな所に行ったのだろうか」、「死んだおばあさんは、いったいどんなところに行ったのであろうか」。厄介なのは、「おばあさんにお経をあげてやらないと、どうも極楽にも天国にも行けないし、お浄土にも行けないで、あの辺でさまよっておられると、私のところに何か罪が来るのではないか。悪いことが起こるのではなかろうか。私にわざわいごとがあっては困るので、お寺さん、死んだ人にお経をあげてやってください」と言うのです。これが、私どもの常識になっているのではないでしょうか。     次回につづく


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