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第50号法話 「後生の一大事」

カテゴリー:法話集    更新日:2009 年 10 月 24 日

皆さん方とこうやってお顔を合わせるようになったのも、まだ8~9年ぐらいではないでしょうか。皆さん方がお寺に来られるようになったのもその頃からと思います。これだけの大人数の方がお見えになる。それまではお寺では法要をしていませんでしたから、ご門徒さんがお見えになるということは非常に少なかったのです。
 本当は、真宗の教えを聞きたくて皆さん方はお見えになっているのだと思います。皆さん方自身が、亡くなられた方をご縁として、たまたま源信寺のご門徒さんになられて、そして、ふうな風変わりな坊さんに出会って、どこにどう興味を持たれたか分からないけど、何か感じられることがあってお見えになっているのかなと感じるのですが。違いますか?(笑い)
 今日は総代さんがお話しされたように、「後生の一大事」というのは皆さん方もお聞きになっていると思うのですが、
 蓮如上人がお書きになった「白骨の御文」の文中、最後に出てきます。
「されば人間のはかなき事は、老少不定の境なれば、だれの人も早く後生の一大事を心にかけて」という文章です。
自分が亡くなるというか、死に対してどのように考えているのですか、ということだと思うのです。今、自分が生きているということにあぐらをかいてしまって、ただ日常生活に追われて生きていてよいのですか。ということだと思うのです。
 ただし、その中にひとつあるのは、自分が死後どうなるかが分からないというところが一番不安材料であるということです。だから自分が死ぬなんて考えたくないということがあるのだと思うのです。そのことについてお釈迦様がこういう譬喩を挙げられています
 これは『仏説譬喩経』という経があるのですが、その中の話です。
「王よ、それは今から幾億年という昔のことである。果てしのない荒野、しかも木枯らしの吹きまくっている寂しい秋の夕暮れに、一人とぼとぼと歩いてゆく旅人があった。ふと旅人は、薄暗い野道に点々と散らばっている白いものを発見して立ち止まった。その一つを拾い上げて旅人は驚いた。人間の白骨ではないか。どうしてこんなところに、しかも多くの白骨があるのだろうと、不気味な不審を抱いて考えた。まもなく旅人は前方の暗闇の中から異様なうなり声と足音を聞いた。驚いた旅人が前方を凝視すると、はるか彼方から飢えに狂ったどう猛な大虎が自分をめがけてまっしぐらに突進してくるではありませんか。旅人は瞬時に白骨の意味を知りました。自分と同じくこの荒野を通った人たちが、この虎のために食べられてしまっていたのだ、そして自分もまたそれと同じ立場にいるのだ、と。これは大変、旅人は無我夢中で今来た道を突っ走りました。旅人が虎の吐く鼻息を身近に感じ、もうだめだと思ったとき、どう道を間違えたか、断崖絶壁の頂上に行き詰まってしまった。途方に暮れた旅人は幸いにも断崖に1本の木が生えていて、その木の根元から1本の藤蔓が垂れ下がっているのに気づき、旅人はその藤蔓を取ってずるずると下におりたことは言うまでもありません。文字通り九死に一生を得た旅人はほっとし、やれやれこの藤蔓のおかげで助かり、ひとまずは安心と足下に目を転じたとき、旅人は思わず口のなかで「あっ」と叫んでいました。足下は底知れない深海の怒濤が絶壁を洗っている。その波間から三匹の毒竜が大きな口を開けて自分の落ちるのを待ち受けていました。旅人はあまりの恐ろしさに、再び藤蔓を握りしめて身震いをしました。しかし旅人はやがて空腹を感じて周囲に食べ物を求めて眺め回しました。そのとき旅人は頭上に今までよりももっと驚く光景を見たのです。藤蔓の根元のほうに白と黒のネズミが現れ、交互に旅人の命の綱である藤を一生懸命かじっているではありませんか。旅人の顔は青ざめ、震えが止まらなくなりました。だが、長くは続かなかったのでした。この木に巣を作っていた蜜蜂が甘い蜜の滴りを五つ彼の口に落したからです。旅人はたちまち今までの恐ろしさを忘れて、陶然と蜜蜂に心を奪われてしまったのであります。」 釈尊がここまで語ると、王者は驚いて、「釈尊よ、なんと恐ろしいことでしょう。それほど危ない所にいながら、旅人はなぜ、五滴の蜜ぐらいにその恐ろしさを忘れたのでしょうか」
と言いました。すると釈尊は、
「王よ、聞かれるが良い。これは一つの譬えであり、私は今からそれが何を教えているのか詳しく話しましょう。」とおっしゃったのです。
 この文章を読むと、ただの旅人の苦労だけだと思うのですが、これは一つ人間自身の一生のことを表しているのだと思うのです。「旅人」を、自分達に置き換えて読み直してみると分かると思うんです。そして「虎」は何にしたら良いか。これはよくお寺などに行くと私達の話しに出てくる言葉で「無常」ということです。無常に置き換えて考えると、私達自身の一生涯のことだと気が付きます。
 もう少し詳しく話ますと、まず今、言いましたように旅人というのは私達一人一人のことです。なぜ旅人としてここに挙げたかというのは、私達が、「なぜ生きているのだろう、何のために生きているのだろう」
 こういう話しをすると必ず、「当たり前じゃないか、自分が生きていくためには食べなきゃいけないでしょう」という答が返ってくるのですが、自分たちはなぜ生きているのかと考えたことがありますか、ということなのです。
 どうして、この世に生れてきたのだろうと考えたことがありますか?ほとんどの方はないと思うのです。そこが仏教の最初の出会いだと思うのです。
 蓮如上人が書いた白骨の御文の中に、
「夫、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。」
 「始中終」という言葉で出てきます。「始」というのは、これは「生れる」でしょう?「中」今でしょう?「終」これは「終わり」です。「死」です。
私達は生れるときも分からない、ということです。おぎゃあと生れたとき、誰も意識持っていせんから。なんで生れたかも分からない。先ほど言ったように、じゃあ一生懸命、今、がんばって生きているのだから、いいではないか、と思われるかもしれませんが、じゃあ、あなたは何のために生きているのですか、と言われて答えられる人はいない。「終わり」「死」。死後どこにいくか全然分からない。でもこれがそろって、自分の一生ですよ、ということじゃないでしょうか。
 では、今言ったことで「果てしのない無常の荒野」というのは何ですか、と言われれば、われわれの迷いの命の果てしのないことを示している、ということです。迷いというのはいろいろありますよね。自分たちで悩むというのとは違うと思うのですが、「迷い」というのは真実が一つあるのだけど、それに対して迷っていくということですから、私達はただ、自分なりの都合によって生きているのだ、ということではないですかね。自分に都合が良ければよしとし、都合が悪ければ怒る。だから夫婦げんかというのは、たいていそうでしょう?どちらかが自分の思う通りにしたいのですよ。旦那がそう思えば奥さんが「なんであんたの思う通りにならなきゃいけないの」となるでしょう?
 最終的には、お墓へ行くのでしょう、ということは死んでいくのだと思うのです。私達はこのことを知っていると同時に、一つあるのは、私達は一生懸命働いて、財をなして、そして家を建てて、子どもを産んで、それから私達が死ぬとき、何も持たないで死んでいくのですよ。生れるときも丸裸で生れてきて、死ぬときもどれだけ財をなし、家を建て、子どもを作ったとしても、死ぬときは一人で死んでいくだけでしょう。これを思うと、人生はむなしいと思いませんか?そういうふうに考えると。
 ところが私達は一生懸命、まあまあそれなりに財をなして、あとの子ども達のために残してあげようとするのですが、その子ども達が葬儀の席でけんかしてたらどう思います?あるのですよ、これ、本当に。財産分けで。今の世の中特に。亡くなられた方はいい迷惑だよ?何のために生きてきたんだろうと思いますけどね。
 私達はいろんなことがあっても、やはり、この言葉もまた、今と同じようなことを蓮如上人さんが話されているのですよ。
「誠にせんときは、かねて頼みおきつる妻子も財産も、我が身には一つも相い添うことあるべからず」
一度皆さん方、考えられたほうがいいのではないでしょうか。蓮如上人が書かれている御文というのは分かりやすい言葉で書いてありますからね。一度、そういう本を読まれるとまた法話を聞くのが面白くなると思います。
 つづく


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