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正信偈の教え 第1回(97号)

カテゴリー:住職の一言    更新日:2021 年 7 月 1 日

正信偈の意訳(第一回)
「正信偈」は、私たち真宗門徒にとって、お内仏の前でおつとめしてきたお聖教です。私たちの宗祖である親鸞聖人は、本願念仏の教えが釈尊の時代から七高僧を経て、ご自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられ、聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文)によって、後世の私たちに伝え示してくださったのです。
 「正信偈の教え」は、その歴史と伝統を学び、そこに込められた聖人のおこころに触れていただくことを願いとして、「正信偈」の一句一句を丁寧に読み解いたものです。私たち一人ひとりが「正信偈」の言葉にふれ、毎日のおつとめが、さらに意義深いものとなることを願います。
偈前の文
【原文】
 爾 者 帰 大 聖 真 言 閲 大 祖 解 釈 信 知
 仏 恩 深 遠 作 正 信 念 仏 偈 曰
【読み方】
 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を 作りて曰わく、
 私たちは日ごろ、真宗の『勤行集』によって「正信偈」に接していますが、それはもともと、聖人が著された『教行信証』に収められているものです。代表的な著作(ちょさく)です。聖人は、この著作によって、浄土の教えが「真実」であることを顕(あき)らかにされたのです。その意味で、真宗の教えの根本となる聖教(しょうぎょう)であるわけです。『教行信証』は六巻からなる大著ですが、その第二番目「行(ぎょう)の巻」の末尾に「正信偈」が添えられているのです(聖典204~208頁)。
 「正信偈」は、詳しくは「正信念仏偈」といいますが、それは「念仏の教えを正しく信ずるための道理を述べた歌」という意味です。漢文で書かれた詩で、七文字を一句とし、百二十句、六十行からなっています。
 聖人は、「正信偈」をお作りになった、そのお気持ちを、「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、」(聖典203頁)と述べておられます。
 「大聖の真言に帰し」とあるのは、釈尊が説かれた真のお言葉を依り処とする、ということです。釈尊は、『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』というお経をお説きになりました。そしてこのお経のなかで、阿弥陀如来がすべての人を救いたいと願われた。それが大聖の真言、つまり釈尊の真のお言葉ということなのです。次の「大祖の解釈に閲して」というのは、インド・中国・日本の三国の七人の高僧が『大無量寿経』の教えを正しく受けとめられ、そのご解釈を手がかりに、七高僧のご教示を仰がれたのです。聖人は、ご自身を見つめるのに大変厳しい眼をおもちで、ご自身を、愚かで罪深い凡夫であると見極めておられたのです。実は、そのような凡夫を何としても助けるというのが『大無量寿経』に説き示されている阿弥陀如来の本願なのです。また、このお経の教えについての大先輩がたのご解釈によって、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)(釈尊)と阿弥陀仏の恩徳(おんどく)がまことに深いことを信じ、知らせてもらったことを喜んでおられるのです。そのことを「仏恩の深遠なるを信知して」といっておられるのです。そして、自ら信ずるとともに、人にも教えて仏の恩の深いことを信じさせるために、「正信偈」をお作りになったのです。
 「正信偈」は、全体を大きく二つの部分に分けて見られています。その一つは、「依経分(えきょうぶん)」といわれていますが、これが、先ほどの「大聖の真言」にあたる部分です。すなわち、仏の大悲が説かれている『大無量寿経』の要(かなめ)となる教えについて讃嘆(さんだん)してある部分です。一つは「依釈分(えしゃくぶん)」といわれますが、これは「大祖の解釈」にあたるところで、七高僧お一人お一人の教えを紹介し、それぞれの高僧の徳を讃えてある部分です。
 私たちが、日々のお勤めのときに「正信偈」をあげ、またこうして「正信偈」の「こころ」に触れようとするのは、愚かで、なさけない生き方しかできていない者が、親鸞聖人のお勧めの通りに、「大聖の真言」と「大祖の解釈」を讃嘆し、その恩徳に感謝することになるのです。
  生きる依り処としていただいている名号
 【原文】
  帰 命 無 量 寿 如 来
  南 無 不 可 思 議 光
 【読み方】
  無量寿如来に帰命し、不可思議光に  南無したてまつる。
 「帰命無量寿如来」。この句から「正信偈」は始まります。次の「南無不可思議光」の二句は、「帰敬(ききょう)」といわれているところです。阿弥陀如来に順(したが)い、阿弥陀如来を敬(うやま)うという、聖人のお心が述べられている部分です。
 聖人は、「正信偈」を作って、仏の恩徳(おんどく)を讃嘆(さんだん)し、仏の教えを承(う)け伝えられた七高僧の恩徳を讃えようとされるのですが、それに先だって、阿弥陀如来へのご自身の信仰を表明されているわけです。
 「帰命」という言葉と、次の句の「南無」とは同じ意味です。「帰命」は、「ナマス」というインドの言葉を中国の言葉に訳したものです。ご承知の通り、仏教はインドに起こりましたので、お経はすべて、インドのサンスクリット語(梵語(ぼんご)ともいいます)という言葉によって中国に伝えられました。そして中国語に翻訳(ほんやく)されたのですが、あるときは「ナマス」の意味を中国の言葉に置き換えて「帰命」と訳し、またあるときは、意味を訳さないで、インドの言葉の発音を漢字に写し換えて、「南無」という字を当てはめたのです。どちらも、「依り処として、敬い信じて順います」というほどの気持ちを表わしているのです。ここでは、一つの信順(しんじゅう)の思いを二つの言葉に分けて表現してあるわけです。
 また、「無量寿如来」も「不可思議光」も、どちらも阿弥陀仏のことです。「如来」の「如」は「真実」という意味です。「真実」を覚(さと)られたのが仏ですが、仏は覚りに留まることなく、「真実」に気づかない「迷い」の状態にある私たちに、「真実」を知らせようと、はたらきかけて来てくださっているのです。その「はたらき」を「如」(真実)から「来」てくださった方というのです。言い方を換えると、姿や形のない「真実」は、いつでも、どこでも、はたらいていますが、私たちの日常の生活を包んでいる、「はたらき」を、理屈にたよろうとする私たちにもわかるように「如来」という言い方で表わしているのです。
 「無量寿」とは、量(はかり)のない寿命ということです。つまり、数量と関係のない寿命、始めもなく、終わりもない寿命です。
 阿弥陀仏に帰命するといいますが、それは、自分が自分の思いで帰命するかどうかを決めるのではないのです。私どもの思いは決して純粋で、清らかではないのです。常に自分の都合がつきまといます。自分の都合による念仏は、自分のことを念じているだけであって、仏を念じたことにはならないのです。
 自我にこだわり続け、その結果として、悩み苦しむことになるのが、私たちの現実です。そのような、まともな念仏のできない者に代わって、阿弥陀仏の方が念仏してくださって、その清らかな念仏を、信心というかたちで、私たちに回向(えこう)されているのです。


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(2023 年 7 月 12 日)