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寺族の一言

カテゴリー:コラム    更新日:2014 年 1 月 1 日

「私にとってのお寺」
 こんにちは、鈴木康裕と申します。題が『私にとってのお寺とは』という、感話を好きなように話していいというふうにもお聞きしておりますのでお話しいたします。
 私の中で、お寺というのは何をするところなのか、住職さんに勤行をして頂いたわけですけれども、一生懸命何かを、伝えようとする人が、それを一生懸命聞こうとする人がいる、そういう場所なのかなと、思いを巡らせました。もちろん住職には、一生懸命法話をして頂いたり、今日もこの後、法話を聞かせて頂けるわけですけれども、そんなふうに一生懸命何か、お話をして頂いたり、聞いたことにも一生懸命答えを伝えて頂いたりという場なのかなと思います。 勉強してないので、勤行の中身が、どうなのかというようなことは私には分からないです。
 今、私は会社勤めをしております。仕事で社内の同僚、他の会社の人、お客さま、それとパートナーになる方といった、いろんな方と話すのですけれど、例えば仕事でも、こうじゃないのか、いや、この時はこうだったからこうじゃないのか、みたいな話が日常茶飯事で、よく喧嘩になったりすることもあるのです。けれども、ふと気付くと言い方が違うだけで、同じ事を言っているんです。ちょっと目線が違うと、ほんのちょっとの立場の違いで、言い方が少し違うだけで、実際には同じ事を言っている。紙一重の違いで何か……というところがあるな、というように思います。
 そして、お寺で一生懸命伝える方がいて、一生懸命聞く方がいてという、でもこれって、実は私の生活の中にも同じようなことがあるのだと、手前勝手な話ですが少し思いを巡らせる中で考えました。
 これは、お寺のやることが生活の中にあるのか、生活の中にお寺があるのか、こんな哲学的なことを考えても、私には分からないですけれども、そのようなところがあると思います。お寺もそういうところなのではないでしょうか。 誰かに何かを伝えたい、一生懸命しゃべってくれる人の言うことを聞きたい、そういう何か共感するところがある場なのではないかと思いました。
 ちょっと脱線してしまうかもしれませんが、教えられ上手というのでしょうか、私も会社勤めをしていますと、毎年若い人も入ってきます。また、不慣れな仕事に就く場合もありますが、やはり一生懸命聞いてくれると頑張りたくなります。成長もします。自分の身に返ってもきます。またそうすると人の輪もできます。というようなことを感じることもあります。 そういったことは、実は、お寺でもそうなのではないでしょうか。 教えられ上手と言いますが、素直に分からないものは「分かりません」と言えるかどうか、悪いことをしたら「ごめんなさい」と謝ることができるかどうかということです。今さら「分かりません」とは、言いづらいというようなことは日常の中で多いのですが、もちろん、その場の空気もありますけれども、そういうことを素直に言えたら何かひとつ殻を破って別のこともできたり、分からなかったことが分かるようになるということがあるのではないでしょうか。 それは、元を正せば一生懸命聞こうとしているか、伝えてくれる人に耳を傾けているか、というようなことは一緒なのではないか、そのようなことを感じたりいたしました。
   ありがとうございました。
責任役員 鈴木康裕氏


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