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人生は「旅」

カテゴリー:コラム    更新日:2013 年 4 月 1 日

 私たちの人生は、よく「旅」に譬えられます。
「生きることは旅すること、終わりのないこの道」という歌もあります。
松尾芭蕉の『奥の細道』冒頭に
「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人也」とあります。
 人生は旅であり、私たちは、一人一人、旅人だとしたら・・・
 いったい、私たち、どこから来て、どこへ行く「旅人」なのでしょう。
 皆さん、考えてみたことありますか?
 子供の時から食べることや飲むことを知り、話すことも教えられ、いろいろ考えることも習った。そして結婚し、子供を生み、育て、そして、赤ん坊が息子となり娘となり、やがて嫁さんと言われ、まもなく、父さん母さんと呼ばれ、そして、いつのまにやら、お爺さんお婆さんと、なっていく。
 禅僧の一休さんが、「世の中の 娘が嫁と 花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく」と歌っている人生の旅路は、男も女も共通です 。最後に「散りゆく」とありますように、私たちの人生は、動いていてもジッとしていても、右へ行っても左へ行っても、墓場への道中であります。その間、いったい、何しにこの世へ生まれてきたのでしょう?
 何を求めて、働いてきたのでしょう?
この家を 建てるため?子供を産みに来た?金や財産をためるため?名誉や地位を得るため?それとも、趣味や生き甲斐を楽しむため?・・・
「これのために誕生した」と、言えるもの、あるでしょうか?命懸けで手に入れて「これは私のものだ。失いたくない」と、しがみついてみても、すべて、この世のものは皆、離散します。「ある」というのは、今、しばらく、私のそばに「ある」ということです。
蓮如上人が 『御文』にこう仰せられています。 「まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。されば 死出の山路のすえ、三塗の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ」 (御文第一条11章)
 病にかかれば、妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あてにしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには 何ひとつ 頼りになるものはない。一切の装飾は、はぎ取られ、独り行く、死の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか?
いったい、私たち、どこから来て、どこへ行くのか?死ぬことを「他界する」といわれるが、「他の世界」とは、どんな世界なのか?魂の旅路を見つめ、この一瞬の人生に、何をなすべきか、真剣に考えたいものですね。
でも、蓮如上人が 『御文』に
「ただ、ふかくねがうべきは後生なり、また、たのぶべきは弥陀如来なり、信心決定してまいるべきは、安養の浄土なりと、おもうべきなり」
 私たちは信心していればご浄土に行くことが出来ると思いなさい。と仰せられています。


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(2023 年 7 月 12 日)